こざわたまこ『負け逃げ』

発売前の短篇 全文公開!「美しく、輝く」
[書評]窪美澄「けもの道を全力で走り出す」
目次

目次

Ⅰ 僕の災い
Ⅱ 美しく、輝く
Ⅲ 蠅
Ⅳ 兄帰らず
Ⅴ けもの道
Ⅵ ふるさとの春はいつも少し遅い

 授業が始まってからもしばらく、体の右半分に美輝ちゃんの視線を感じた。放課後を告げるチャイムが鳴るのを待って席を立ち、黙って帰ろうとした。それを見た美輝ちゃんが、慌てて声をかける。真理子ちゃん。人のいる教室で美輝ちゃんが言う「真理子ちゃん」は、改めて聞くとなんだか見知らぬ他人が私を呼んでるみたいだ。美輝ちゃんがその続きを思いあぐねてる間に、今日は用事あるから、と言い残して、私は教室を出た。

 頭の中で漫画しりとりをしながら、日の当たる水無橋をひとりで渡る。私が好きな漫画を順番に思い浮かべてみた。けど、ひとつもしりとりになってくれない。

 橋を渡り切る寸前、目の端で捉えた今日の水無川は、一段と水位が低く、川の底が見え隠れしていた。岩場が多く、流れがゆるい箇所には、藻やゴミの塊が、泡と一緒になって溜まっている。

 何が楽しいのか、川べりに腰掛け、ぴくりとも動かない老人がいた。下校中の小学生がふざけてその近くの土手に滑り込み、また去っていく。この風景が何かの遺影なら、やっぱりそこにも、黒い額縁があることに気づいた。四角の枠だ。登場人物の生活はこの中で始まり、この中で終わる。気づくと、川べりの老人はいつのまにか消えていた。



 その日は、美輝ちゃんが応募すると決めた漫画雑誌の締め切り日だった。一限目が始まって二十分も過ぎた頃、息を切らしながらようやく美輝ちゃんが教室に入ってきた。ガラガラと勢いよく開いたドアは壁にぶつかり、跳ね返ってさらに大きな音を立てた。クラス全員の視線が美輝ちゃんに集まる。美輝ちゃんはその手に、大きな封筒を持っていた。

 教室にいる人間のほとんどはそんなこと気にも留めず、美輝ちゃんの姿を確認すると、またかというように、あきれてその視線を黒板に戻した。それでも授業に戻ろうとしない残りの生徒に向けて、英語の女性教師の志村が、ルックアットミー! と呼びかけ、美輝ちゃんに対してはこれまた嘘くさいぐらいにそれらしい発音で、シットダウンを命じた。すると美輝ちゃんは顔を真っ赤にして、いそいそと席に着き、手に持っていた封筒を隠すように机に入れた。

 美輝ちゃんの体は前に比べて、ひとまわり小さくなった。顔はやつれて、目の下の隈はほとんどコントのゾンビみたいだ。けれどどれだけ体重が減っても「ぽっちゃり」のイメージを拭い去れない人はいるもので、残念ながら美輝ちゃんはその部類の人間だった。

 美輝ちゃんはその日一日、そわそわと何か言いたげにこちらを見ていた。そのくせ私が横を向くと、急いで目をそらす。その態度が無性に癇(かん)に障って、絶対にこちらからは話しかけないと決めた。

 授業とホームルームが終わり、さっさと教室を出ようとすると、そのタイミングを見計らっていたように、美輝ちゃんが話しかけてきた。
 出来たよ。

 予想していた言葉だった。そのまま無視しようとも思ったけど、あんまりなので、努めて冷静に言葉を返した。ふうん、よかったね。何をどう受け取ったのか、美輝ちゃんが、ほっとしたように笑みを浮かべて、話し続けた。それでね、真理子ちゃんに見てほしいんだけど。約束だったから。

 はあそうですか、見てほしいんですか。約束だからですか。そうですね、描いたら見せるって約束ですね。でも今さら言われても困るんですけど。一回断られてるし、私がいちばん見せてほしい時に見せてくれなかったし。だいたいあなたもう私のアドバイスとかいらないんじゃないですか? 一人で描いていくんじゃないんですか? 私達って、もう関係とかないし。ていうか元々なかったし。そうじゃないですか?

 っていう色々を、私は飲み込んだ。そして一言、もう見ない、って言おうとした。けどその時、ヒデジがそれを遮り、教卓から美輝ちゃんを呼んだ。お前また遅刻したんだってな。ちょっと職員室に来い。手に持った教科書を丸め、机をばんばん叩いて、美輝ちゃんをねめつける。美輝ちゃんにからみつくようなその視線は、確かに納豆の糸みたいだった。

 美輝ちゃんは机から封筒を取り出しかけたまま、凍りついたように動きを止めている。そして必死に口だけを動かして、あの、今日は大事な用があって、すぐに帰らなくちゃいけなくて、と言った。けど、教室の隅から発せられた小さな声は、ヒデジには届かなかった。

 鼻息荒く教壇から降りようとしたヒデジは、サンダルがすっぽ抜けた拍子にたたらを踏んで、近くの生徒から失笑を買っていた。よほど恥ずかしかったのか、半ば自棄気味に、早く来いよ、と美輝ちゃんを怒鳴り、そそくさと教室を去っていった。

 美輝ちゃんが泣き出しそうな顔で時計を見た。郵便局は五時きっかりに閉まってしまう。時計の針は、四時を指そうとしていた。美輝ちゃんは職員室に呼び出されると、最低でも一時間は拘束される。間に合わないのだ。
 せっかくこの日のために描いた漫画。目の下に一生取れなそうな隈まで作って。大して良くない成績をさらに下げて。いらぬお説教を受けて。たった一人で。ずっと一人で。

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