立ち読み:新潮 2023年11月号

第55回新潮新人賞 受賞者インタビュー
シャーマンを現代の東京に呼ぶ/赤松りかこ

第55回新潮新人賞 赤松りかこ

――受賞作「シャーマンと爆弾男」は、日本の東京世田谷を舞台に、シャーマンとして母親・族長に育てられた女性アリチャイを主人公にした小説です。自己に疑問を持ったアリチャイが、東京を流れる大きな川の河岸で爆弾男ことヨハネ四郎(柘植蓮四郎)に出会い、物語が始まります。このような野心的な作品世界をどのようにして構想されたのですか?

 都会は土からも水からも切り離されて久しいのではないでしょうか。祖霊の経験則は断絶してますし、動植物の叡智は燃やし尽くされた、と感じます。弔いの手順と作法と費用は決められ、祝祭はカレンダーに従って特設の桟敷席かテレビ中継で参加するものになってしまっている。そこここに知や体験が窒息するほど溢れていても本当の弔いや祝祭の作法がわたしには分かりません。
 でも、地球上にはそれを知る人類がおそらくまだいるはずだ、とも思うのです。本当の弔いや祝祭の作法を知る人間を仮にシャーマンと呼ぶとして、彼女をここ、現在の東京へ連れてきたら、どのような世界が見えるか、試みたかったのです。

――書く上で一番苦労されたのはどの点でしょう?

 母・族長を除いてアリチャイも蓮四郎も犬も水鳥カワウも勝手ばかりするのです。構想のままには全く動かず、こちらの鼻づらを引き回したと思ったらそれぞれの生を選んでいってしまいました。
 構想としては、もう少し立派な物語にしようと思ったのに、結果的には奇妙な物語になりました。
 書いているうちに物語や登場人物がコントロールから逃れていく。それで良いのか、良くないのか、作家でないわたしにはわかりませんでした。書き続ければ、わかってくるのでしょうか。

――今期の新潮新人賞に三作応募され、いずれも予選通過作として残りました。「イオとカワウとチムニー・マン」、「グレイスは死んだのか」、いずれも力作でしたが、これらの三作はどのようにお書きになったのですか?

 同時に三作書いたわけではありません。「イオ」「グレイス」「シャーマン」の順番で、一年一作ごとぐらいのペースで書きました。
 若い時に文芸誌の新人賞に応募したことはあったのですが、うまくいかず、獣医師になってからは実作から遠ざかっていました。数年前に、急に「イオ」の構想が湧き、久しぶりに小説を書き始めたのですが、あくまで趣味の範囲で、家族に読んで貰えばそれでいいや、と思ってました。
 その家族から、そろそろ文芸誌の新人賞に応募してみてもいいんじゃないか、と勧められ、三作一緒にこちらの新人賞に応募したのです。
 わたしにとって小説を書くという行為は、次のようなイメージです。
 生活の層がある。しかし、それは土壌が痩せていて植物の根張りの浅い保水力の脆弱な地盤です。それとは別にあらゆる体験が堆積し物語になっている豊穣の地層があるはずです。それは誰しもの中にあるはずで、それを持たない人間に会ったことがありません。
 おそらく太古には詩と音楽と哲学が生活とわかちがたく結びついていたのでしょうが、現代人の生産と消費の生活はそれらと共存できません。しかし、個人生活の基層が他者のそれと激しく摩擦しあったとき、物語の地層に地殻変動が起こり新しい物語が表面化するのではないでしょうか。それを文字に起こして小説にします。

――普段は、東京の動物病院で臨床獣医師をなさっているそうですね? 多忙な中、小説を書くモチベーションはどこから湧いてくるのでしょう?

 逆かもしれません。
 臨床家は鍛錬と学問の職人的生き方であり、病院は損得と倫理と論理がせめぎあう場です。経営に注心しすぎれば金勘定だけになり、倫理に心を乱されれば論が崩れ、論に深入りすれば病に足を掬われる。
 物語の豊かな地層があると、それらを大きく支えバランスをとってくれるのだと思うのです。科学や医学の世界に詩や哲学や音楽といった大きな物語が顕在化したらどんなに素晴らしいだろう。解剖所見に詩が添付されたら、カルテに歌が書き込まれたら、科学論文に哲学の言葉が生きたら、どんなによいだろう、と夢想します。

――大江健三郎さんに大きな影響を受けたそうですね?

 十八歳で初めて大江健三郎さんの小説を読んで以来、わたしの人生の傍にはいつも大江さんの著作がありました。
 生身で受けて立つのが難しい喪失、危機の時期が人にはあります。そのような時、わたしが読めたのは大江さんの著作だけでした。どこをとっても隅々まで真剣だったからです。
 笑いで物語が彩られていたのもよかった。そして小説とは自分の物語をこのようにあらわすものだ、と教えてくれたのもまた大江さんの小説でした。
飼育』や『芽むしり仔撃ち』など『個人的な体験』以前の小説を高く評価する方も多いですが、わたしはやはり『個人的な体験』『万延元年のフットボール』以降の作品を本当に物凄いと感じてます。一番好きな作品は『洪水は我が魂に及び』、何度も読み返しています。
 二十九歳の時に、ファンレターを書いたこともありましたし、講演会に行ったこともありました。遠くからご本人と向かい合っただけで震えるような思いをしました。
 ちょうど、「シャーマンと爆弾男」の仕上げにかかっていた今年の三月、大江さんが亡くなったとニュースで知った時は、いつかこういう日が来るとは予感していても、深い絶望感を覚えました。今はまだその渦中にいるような思いです。
 ただし、大江さんについて長年インタビューを続けた尾崎真理子氏の『大江健三郎全小説全解説』『大江健三郎の「義」』、工藤庸子氏の『大江健三郎と「晩年の仕事」』、菊間晴子氏の『犠牲の森で:大江健三郎の死生観』は溺れるように読みました。お三方は、わたしの女神です。

――ほかの文学的な来歴をお教えください。

 小説は大江さん以外あまり読まないから来歴というほどのものはありません。ただ、J・M・クッツェー、目取真俊さん、辺見庸さん、魯迅、石牟礼道子さんの小説はよく読みます。
 魯迅の「酒楼にて」のなかで友人が故郷の女の子へかんざしを買い贈った話をしている最中、庭の椿から雪がザッと落ちる場面があリます。人間が重要な話をしているときに、自然が一切の斟酌なく雪を落とし友人は言葉を途切らせるのです。人間の物語に奉仕しない自然を描けたのは魯迅だけという気がします。
 同じく、自分から己を完全に押し出して他者で満たせたのは石牟礼さんだけではないでしょうか。
 ほかはノンフィクションをよく読みます。自分にとって、こころの深部に降りてくる作品はほとんどがノンフィクション作品です。福岡正信『わら一本の革命』、デイビッド・モントゴメリー『土の文明史』、久馬一剛『土とは何だろうか?』、佐々木実『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』、宇沢弘文『自動車の社会的費用』、ショーン・エリス/ペニー・ジューノ『狼の群れと暮らした男』など端正なノンフィクションや評論には小説の香りがあります。

――今後の創作への思いをお話しください。

「シャーマンと爆弾男」では、自分の物語に他人の物語を招き入れて激しく反応させる書き方をしましたが、他者の物語を書くことには快楽があり、いつしかその声まで代弁できると錯覚することを陥穽のようだと感じました。つねに他者の物語への尊敬という戒めの石を置きながら書きたいと思っています。
 資本主義の市場へ新たな商品を投下するつもりはありません。主業以外で同時代人から搾取するのは間違っている、と思うのです。
 臨床獣医師という生活業を持つものとして、創作物をしてどのように奉仕と贈与を実現してゆくのか、新しく出会う人たちと探ってゆきたいです。

[→]第55回新潮新人賞受賞作 シャーマンと爆弾男/赤松りかこ