立ち読み:新潮 2019年7月号

Passage――街の気分と思考
甲州街道はもう春なのさ/吉本ばなな

 タイトルはRCサクセションの「甲州街道はもう秋なのさ」から取った。
 甲州街道を歩くというのは、私にとって特別切ないことなのである。
 住んでいる人にはすっごく悪いが、甲州街道は私の心の中で「死の道」だ。

 明大前、甲州街道沿いの築地本願寺で父のお葬式をしたのは三月だった。
 私が幼い頃、父はよく私だけをともなってお彼岸にお墓参りに行った。
 お寺の入り口にはお花屋さんがあり、その人たちの謙虚なまじめさと笑顔を父は愛していた。いつも同じその店でお花とお線香を買い、お掃除セットを持って、天草から佃島に出てきた人たちが眠る一帯にある吉本家のお墓にお参りした。方向音痴でない母と姉がいっしょにいるときは全く問題なくお墓にたどりつけたのだが、父と私の組み合わせだとほぼ遭難と呼んでもいい状態になった。
 父はいつも「親鸞像のお尻から入って、樋口一葉のお墓の立て札まで行って、曲がって戻ってくればいいんだ」と言うのだが、ものすごい遠回りなのは子どもの私にもわかった。しかしショートカットしようとすると、必ずお線香が燃え尽きるまで迷うことになる。
「こういうことははしょってはいけないんだ、とにかく確実に!」
 とまるで「ウォーキング・デッド」というサバイバルドラマのセリフのように父は言っていたが、単に目の前の道の数列目にあるお墓にたどりつくっていうだけのことで、そんなサバイバルなことでは決してない。樋口一葉のお墓の列までいったん行くんだというと、母と姉はいつもげらげら笑っていた。
 後年、隣にギター関係の古賀家のお墓ができた。すばらしいギター型、遠くからでもギターのネックが見える。なので私はもう迷わなくていい。樋口一葉のお墓を見ないで、吉本家のお墓にたどりつけるようになった。毎回お線香をもう一対買って古賀家にもお供えするほど感謝している。あの、お線香が燃え尽きそうになる、あるいは風で炎上して手に燃え移りそうになるスリル、似たような見た目のお墓群の中で迷い続け、パニック状態にならなくていいのだ。
 父が死んだことはよくわかっていた。
 死にかけたところも、死んでいるところも見た。触ってみたらドライアイスの力でものすごく冷たかったことだって、しっかり体に刻み込まれている。これ以上納得できないくらい納得していた。
 それなのに、あのときお寺で、親戚や知人がたくさんいる中、急にものすごい違和感を感じた。
 これまでの人生、何回このお寺でいろんな人のお葬式に出たか数え切れないほどだ。そんなときはいつでも、父がいた。喪服を着てそこに立っていた。だから私は子どもでいられた。
 その父がいないのだ。そんなことってあるだろうか。これが死ぬってことだ。だって、このお寺のこのお葬式のどこを見ても父がいないんだもの。
 そう思った。
 もう私はむきだしなのだ、スーパーで売ってる、貝がない、剥き身のあさりなのだ。
 その実感がどれだけ今の私を支えているか!
 そんなことを、死体より生きてる姿のほうで教えてくれたなんて、父はやっぱりすごい。
 いつも父と歩いたお墓への道を、私は毎年ひとり歩く。

(続きは本誌でお楽しみください。)