立ち読み:新潮 2018年12月号

アジサイ/高橋弘希

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 妻が家を出てから、庭にアジサイが咲いた。
 アジサイは庭の片隅で、樹高一メートルほどの枝葉に、手鞠の形をした花の束をつけていた。一つの手鞠の中で、薄い水色と、薄い紫が混ざっている。よく見ると、一枚の花弁の中でも、二つの色が混ざっている。その淡い色合いに、田村浩一は小学生の頃に描いた、水彩絵具のアジサイを思い出した。水彩絵具の“そら色”に、少量の赤紫と白を足すと、パレットにはあの花のような色合いができあがる。してみると現実のアジサイも、水彩絵具で彩色した、偽物のアジサイにも見えてくる。
 妻が家を出たのは、昨日のことだ。夜遅くに自宅へ帰ると、テーブルには、しばらく実家に帰らせていただきます、という、物語の世界でしか見ないような置き手紙があった。その晩、田村は上司の送別会に出席して随分と酒を呑み、ひどく酔っていた。まったく呑み過ぎたものだと思って、そのままリビングのソファーで眠りに落ちた。
 そして今朝、田村は東の窓から射す朝日に目覚めて、ぎょっとしたのだ。それで初めて、昨日の手紙は酔いのせいではないと気づいた。田村が酔い潰れたとき、妻は必ず寝室から彼を叩き起こしにくるのだ。そして事実、ソファーの上で身体を起こすと、テーブルには昨晩と同じ形で、妻の置き手紙が残されていた。時計を見ると六時半を過ぎている。田村は慌ててクローゼットへ向かい、新しいワイシャツに袖を通した。
 朝食を摂ろうと思ったが、米は炊いておらず、食パンもない。台所の戸棚を開けると、インスタントのワンタンスープがあった。彼の好物なので、妻が常に買い置きしてある。彼はやや歯ごたえのあるワンタンが好きなので、湯を注いで二分半で蓋を開ける。空っぽの胃袋に、濃口の鶏ガラ醤油スープが染みていく。こんな朝に食べるワンタンだが、やはり旨い。彼は手早くワンタンスープを平らげ、そして妻の携帯へ電話をした。何度かけても留守電に繋がってしまう。メールも送ってみるが、返事はない。そうこうしている内に、電車の時間が迫り、慌ただしくネクタイを締める最中、庭の片隅で咲いている、アジサイに気づいたのだ。
 田村は証券会社の営業マンとして働き、悪くない成績を上げていた。金遣いは荒くなく、ギャンブルもせず、ときに酒を呑み過ぎるくらいの、三十代の会社員だった。彼は自分を、平均的な男だと思う。むしろ平均以上だとも思う。このご時世に、庭付きの家を買い、それなりの給与を貰い、当面の生活に困らないだけの蓄えもある。だから田村には妻が家を出た理由が、まるで分からなかった。ここ数日の内に、喧嘩をしたわけでもない。そもそも結婚して三年間、妻と諍いを起こしたことは殆どない。そしてここ数日の妻の様子も、普段と変わらなかった。彼は通勤電車に揺られながら考えていたが、結局は妻の家出の理由を何一つ見つけられないままに、会社まで辿り着いてしまった。
 ぼんやりとした頭で午前のデスクワークを済ませ、廊下へ出ると、再び妻の携帯に電話をした。やはり留守電に繋がってしまう。メールの返事もない。と、部下の森下裕樹に昼飯に誘われた。森下は入社二年目の新人で、体育大で教職を取っておきながら、なぜか証券マンになった。やる気はあるが、はっきり言って使えない部下だ。指示を待たずに行動するのはいいが、その行動が、田村の望むものとは微妙にずれている。森下は独身で、パチンコ好きで、競馬好きで、キャバクラやらガールズバーやらにも通っている。まったく、独身は気楽でいいものだ。
 午後は顧客回りをして、定時には退社した。帰路の電車に揺られ、窓の外を流れていく夕焼けを眺めながら、再び考えていた。妻が家を出る理由が何もないのならば、手紙は妻のちょっとした冗談で、家に帰ると、いつものように台所で夕食の支度をしているかもしれない。しかし自宅に着いてみると、玄関にも台所にも明かりは灯っておらず、廊下は暗闇に沈んでいた。彼がリビングの明かりを灯すと、テーブルには今朝と同じ形で、あの置き手紙があるのだった。
 その置き手紙から視線を逸らすように顔を上げると、再び庭先のアジサイが目に留まった。アジサイは夕闇の中に、やはり水彩絵具で塗った花の手鞠をつけている。それは不思議と薄闇に溶け込むことなく、むしろ色彩を際立たせていた。彼は何かに責められている気分になり、さっとカーテンを閉めた。そして夕飯の買物を忘れていたことに気づいた。

 結局、夕飯は近所のスーパーで天丼弁当を買ってきた。その衣のふやけた天丼で腹を膨らませたのちに、田村は思いきって妻の実家に電話をした。結婚を大いに祝福してくれた義父母だ。うまいこと妻に取り次いでくれるだろう。仮に妻が電話を拒否したとしても、義父母から事情を聞き出せる。電話の呼び出し音が途切れ、沢口です、という老人のしわがれた声が耳元から聞こえてきたとき、田村は急に他人と話している気分になった。当たり前だが、結婚をしても義父母の名字は変わらないのだ。
 田村は義父に、たどたどしい口調でことの経緯を述べた。義父は彼の声に、相槌を打ったり、打たなかったりした。しばらくの沈黙があった。義父の声が遠のいていく。その遠のいた場所で、誰かと話している。おそらくそこに、妻がいるのだ。田村は妻の声を聞き逃すまいと、耳を澄ました。すると突然、耳元から、再び老人のしわがれた声が響いてきた。
「夏子は、何も話したくないそうだよ。」
 田村は食い下がった。
「僕には思い当たる節が何もないんですよ。理由だけでも教えて貰えないですか? もしくはいつ頃に帰るとか、そういう話はしてないですか?」
「悪いけど、しばらくそっとしておいて貰えんかね。」
 それで電話は切れた。電話が切れたのちに、義父の声色に、いくらかの苛立ちが混ざっていたことに気づいた。結婚を祝福し、式では涙まで流していた義父が、今では自分に敵意を持っている。妻があることないこと、義父に洩らしたに違いない。あることないこと――? 彼は再び考えてみるが、やはり夫として、何か致命的な落ち度があったようには思えない。
 翌朝、田村の家に回覧板が届いた。その回覧板で、翌週からのゴミ当番が自分の家であることを知った。ゴミ当番とは、町内会に入る世帯で分担して行う仕事らしい。火曜と金曜、収集車が燃えるゴミを回収した後に、ゴミ置き場を清掃する。当然ながら、平日は仕事があるので、午前中にゴミ置き場の清掃など無理である。仕方なく彼は町内会の班長に、電話で事情を話した。もちろん事実ではなく、義父が危篤で妻は実家に帰っている、ということにした。
「それは困りましたね。夕方でもかまわないので、旦那さんが清掃して貰えますかね。」
 仕事から帰宅後に、スーツ姿でゴミ置き場を清掃している自分を想像し、途端に気が滅入った。
「すみません、こちらにも事情があるんで。ゴミ当番は、とりあえず違う家に回して貰えませんかね。」
「それはいけませんよ。町内会は、皆の協力で運営されているんですから。」
 班長は子供を説教するような口調で言い、田村は苛立ちを覚えた。そもそも義父が危篤ならば、ゴミ当番どころではないはずだ。
「うちは町内会に入った記憶はないんですが。」
「この地区に住んでいる以上、皆が町内会ですよ。」
「じゃあ脱会します。」
「町内会に入っていなければ、ゴミ出し禁止ですよ。」
 そんな問答があり、結局は夕方に、田村がゴミ捨て場の清掃をすることになった。
 火曜日、田村は森下の飲みの誘いも断って、まっすぐ帰路を辿り、右手に箒、左手にちりとりを持って、ゴミ捨て場を訪れた。緑色のネットが張られた、二メートルほどのゴミ収集箱が置いてある。この辺りは高台なので、その収集箱の向こうには、新興住宅の色とりどりの屋根や、初夏の葉を茂らせた森林や、市営のテニスコートなどが見下ろせる。そして西の高台なので、目の前に沈みかけの太陽があった。
 頭上の電線では、カラスが鳴いている。そのカラスの鳴き声の下、彼はゴミ収集箱を見て唖然とした。ゴミ袋が二つも残されている。しかも袋に名前の記載がない。ゴミ出しのルールを守らない、とんでもない家庭があるものだ。同じ町内会にこうした家があると思うと、不愉快極まりなかった。彼はそのゴミ袋を収集箱の隅にやって、清掃を始めた。
 頭上ではあいかわらずカラスが鳴いていた。電線に留まるカラスは、先程より数が増えている。と、驚いたことに、数羽のカラスが彼のすぐ近くへ降りたって、こちらへと寄ってきた。収集箱の中のゴミを狙っているのだ。彼は箒でカラスを追い立てるが、その隙に別のカラスが収集箱の中へ入り込もうとする。彼は夕暮れの街路で、カラスと滑稽な格闘をし、ろくろく清掃もせずにゴミ置き場から退散したのだった。

(続きは本誌でお楽しみください。)