新潮社

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Photo by Tamas Pap on Unsplash

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 明都大学地震研究所の建物は、キャンパスの一番端、テニスコートの脇にぽつんとあった。
 正面玄関のひさしの下にもう十五分近く立っているのに、出入りする人間は一人もいない。ここへ着いてすぐ、あの学生風の男がやって来てくれたのは、ラッキーだったのだろう。
 彼がカードキーを取り出しながら訝しむような目を向けてきたおかげで、僕から思い切って声をかけることができた。自分の名前と大学名を告げ、「博士一年のグエンさんに会いたいのですが――」と言ってみると、彼は「ああ」とうなずいた。そして、「ちょっと待っててください」とだけ言い残し、中に入っていったのだ。
 彼女が今ここにいるのかどうかは、わからない。もしいないなら、彼がそう伝えに来てくれるのだろう。
 グエンがコンビニを辞めたと知ったのは、昨日のことだ。
 ある日を境に、グエンを店で見かけなくなった。それから一週間ほど、訪ねる時間帯をいろいろ変えてみたのだが、やはり姿はない。さすがに待ちきれなくなった僕は、名札に〈店長〉と書かれた年配のスタッフに訊ねてみた。
 店長は早口でわずらわしそうに、「どのグエンさん?」と言った。聞けば、ベトナム人の姓は四割近くが「グエン」で、その店でも過去に何人もの「グエンさん」が働いていたという。七月頃からいる小柄な女性だと僕が言うと、店長は「ああ、スアンさんね。こないだ辞めたよ」とあっさり言った。
 その可能性はもちろん考えていたが、解せないのは「スアン」という名だった。彼女の名前は確か、「マイ」だったはず。店長にあらためて確認すると、彼女の名前は「グエン・ティ・スアン」で間違いないと言う。身分だけでなく、名前も偽っていたということか。でもそんなこと、可能なのだろうか――。
 日差しが差し込んできたので、一歩奥に入る。まだまだ暑さは厳しいが、日が傾くのはずいぶん早くなった。八月も今日で終わりだ。
 グエンもさっきの彼も、なかなか出てこない。考えてみれば、グエンは僕の名前など知らない。約束もしていない男の突然の訪問を、怪しんでいるのかもしれない。
 時間を確かめようとスマホを取り出したとき、後ろで自動ドアが開いた。
 初めて見る眼鏡姿で現れたグエンは、僕を見て「ああ」と眉を持ち上げ、不思議そうな顔で「どうしましたか」と言った。

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 キャンパスをけやき並木のほうへと歩きながら、グエンが言う。
「待たせてすみません。教授と話していて」
「いや、勝手に来たの、こっちだし」
 言いながら、僕はリュックから紙を二枚取り出した。あの論文の二ページ目と三ページ目だ。
「これ、見つかったから」グエンに手渡しながら言う。「友だちが持ってました。これだけしか残ってなかったみたいで、申しわけないんだけど」
「すごい――」グエンは紙のしわをのばしながら確かめる。「二枚でも、うれしいです」
「なんかちょっと汚れてるし、裏にメモみたいなのも」
「大丈夫。わざわざ、ありがとうございます」
 これを見たときは、僕も驚いた。先週のある朝、研究室に来てみると、僕の机の上にあったのだ。先輩の話によれば、その少し前に「堀川の友人」を名乗る茶髪の男がふらりと入ってきて僕の席を訊ね、それを置いていったのだという。
 しわだらけで、裏には誰かの電話番号や〈40万〉の文字。メモに使ったこの紙を、丸めて部屋のゴミ箱にでも捨てたのだろう。それを清田がさがしてくれたということが、本当に意外だった。
 僕はそのあとすぐ清田にラインを送って、礼を言った。既読にはなったが、返信はなかった。たぶんこれから先も、ないだろう。それでも僕は、ほっとした。何にほっとしたのかは、うまく言えないけれど。
 木陰のベンチに並んで座った。日傘を差した女子学生が目の前を通り過ぎていく。
「コンビニ、辞めたんですね」僕は言った。「昨日、店長さんに聞いて」
「――はい。今、別のコンビニで働いてます」
「え、またコンビニ?」もっと割のいい仕事に変えたのかと思っていた。「なんでまた――」
「あそこ、もうダメです。この前、地震研の院生が一人、お店来ました。わたしの顔は、見られなかった思いますけど。他のスタッフに聞いたら、たまに来るって。たぶん、近くに住んでます」
「……そっか」僕は、彼女が何か危ない橋を渡っているのではないかと、俄然がぜん心配になってきた。「変なこと訊くけど――名前、『マイ』ですよね。『グエン・ティ・スアン』っていうのは、もしかして偽名?」
「ああ……それも聞きましたか。そうですね。わたしの名前は、『グエン・ティ・マイ』です」
「大丈夫なんですか、偽名なんか使って」
「大丈夫じゃないです」グエンは観念したように頬をゆるめる。「でも、バレないと思います。お店に見せたビザとか証明書、全部本物。それに、わたし、グエン・ティ・スアンのこと、誰よりよく知っています。わたしの妹ですから」
「妹? 日本にいるんですか?」
「はい。一緒に住んでます。日本語学校に通ってます」
「じゃあ、妹さんの代わりに働いてるってこと?」
「スアンは別のアルバイト、毎日頑張ってます。わたしも、スアンの名前と書類借りて、バイトです。わたしたちの顔、そっくりですから、写真じゃわからない」グエンは眼鏡を軽く持ち上げた。「妹はコンタクトなので、これははずしますけど」
「でも、なんで名前を借りたりなんか」
「明都大の国際奨学プログラム、アルバイト禁止です。ルール破ったら、ペナルティある。それに、ベトナム人の印象悪くなります。国の後輩たちに、迷惑かかる。でもわたし、もっとお金要ります。奨学金では足りません」
「もしかして、妹さんのため?」
「――そうです」グエンはうなずいた。「スアンは昔から洋服が好きで、いつかファッションの仕事したい言ってました。わたしが日本来たので、妹も日本来て、服飾の専門学校に行きたい思ったんです。そのためには、まず、日本語学校入らないといけない。留学ビザで入国するために、スアンはベトナムのあっせん業者使いました。良くない業者でした。日本で勉強しながら、働いてお金返せる。そう言われて、たくさん借金したんです。一年目の学費とか、手数料とか、百二十万円」
「ああ……」気の毒だが、よくある話なんだろうと思った。
「ちゃんと、相談してくれたらよかったのに」グエンは小さくかぶりを振る。「今年の春、スアンがこっち来てから、そのこと聞きました。妹がアルバイト頑張っても、わたしが節約頑張っても、日本語学校の来年の学費、払えません。このままだと、妹はベトナム帰って、借金だけ残る。だからわたし、働くことにしたんです」
「でもそっちも、勉強とか研究とか、大変でしょ」
「夜はアルバイトなので、朝早く大学来ます。五時とか六時とか」
「全然寝られないじゃないですか」
「それぐらい大丈夫」グエンはあごを上げ、遠くを見るように目を細める。「わたし、日本で好きなことしてますから。家族のためじゃない、自分のためにです。どこか会社で働いて、お金稼いでたら、妹こんな苦労しなかったのに」
 僕が最初に出会ったグエンは、使えないコンビニ店員だった。その薄い皮の下には、優秀な大学院生という本当の姿があった。そしてその真ん中には、ベトナムの農村で育った家族思いの彼女がつまっている。
 意外なことばかりだと考えるのは、間違いだ。深く知れば知るほど、その人間の別の層が見えてくるのは、むしろ当たり前のこと。今はそれがよくわかる。
 グエンが口を手でおおった。小さくあくびをして、ふふっと声を漏らす。
「そんなこと言ってたら、眠くなってきました。九月に学会あります。その準備、忙しくて」
「研究発表するんですか」
「はい。今回解析したデータで、初めて論文書けそうです」
「すごいですね」
「でも、解析手法、教授が考えたやり方ですから。わたしの研究、その真似です」
 そこでグエンは、何か思い出したように僕に顔を向けた。
「そう、研究も、人の真似からスタートですよ。過去の研究、誰かの方法、たくさん勉強して、同じようにやってみる。うまくいかないところ、もっとうまくやりたいところ、必ず出てきます。そしたら、工夫しますね。そうやって、ちょっとずつ進歩します。ほんのちょっとずつ。あなたのも、同じでしょ」
「僕のって?」
「段ボールのロボットです」
「ああ――」グエンは今、コンビニでの話の続きをしているのだ。
「誇り、持ってください。すごい思いつきなくても、真面目に勉強して、こつこつ研究して、ちょっとずついいもの作る。日本という国を作ったの、そういう人たちです。口うまいだけの人、要領いいだけの人じゃない。違いますか。わたしたちベトナム人、そう思ってます。真似したい思ってます」
 自分でも不思議なくらい、胸が熱くなった。高度経済成長期の技術者でもないのに。
「僕、就活再開したんです。明日、面接があって」久々の二次面接。茨城にある機械部品メーカーだ。小さな会社だが、そこにしかない面白い技術を持っている。「段ボールロボットの話、してみようかな」
「動画も見せるといいです」
「いや、それはさすがに……でもまあ、見たいと思ってくれたら、いいですけど」
「思わない会社、ダメですよ」
 日本の就活の現実を知らないグエンの言葉にも、いら立ちは感じなかった。むしろ、吹っ切れたような気持ちになる。
「こんな季節」僕は顔を上げて言った。「そろそろ抜け出さないと。八月も終わりだし」
「わたし――」グエンも空に目を向ける。「早く冬、来てほしいです」
「冬が好きなんですか」
「嫌いです。ベトナム人ですよ」グエンは小さく笑った。「雪が見たいんです。ちょっと降るのは去年見ました。ちゃんと積もった雪、見てみたい」
「そういうことか」
「知ってますか。内核にも、雪が降るんですよ」
「え?」
「もちろん、見た人いません。仮説です」
 グエンは両手で球を作った。
「内核は、地球の中にある、もう一つの星です。大きさ、月の三分の二ぐらい。熱放射の光をもし取り除けたら、銀色に輝いて見える星。それが、液体の外核に囲まれて、浮かんでる。この星の表面、びっしり全部、銀色の森です。高さ百メートルもある、鉄の木の森。正体は、樹枝状に伸びた鉄の結晶です。
 そして、その森には、銀色の雪が降っているかもしれない。これも、鉄の結晶の小さなかけらです。外核の底で、液体の鉄が凍って生まれる。それが、内核の表面に落ちていきます。ゆっくり、静かに、雪みたいに」
 その幻想的な光景が目に浮かんでいるかのように、グエンは空を見上げる。
「鉄の雪は、そのあとどうなるんですか」僕は訊いた。「また溶けるとか?」
「積もります。積もって固まって、ちょっとずつ銀の星が大きくなる」
「え? 内核って、大きくなってるんですか?」
「はい。地球がまだ若い頃、中は今より熱かった。コアは全部溶けてました。地球がだんだん冷えて、真ん中で固まり始めました。内核の誕生です。たぶん、十億年前より最近のこと。それからちょっとずつ成長して、今のサイズなりました」
 地球の中心に積もる、鉄の雪――。
 僕の中にも芯があるとしたら、そこにも何か降り積もっているだろうか。少しずつでも、芯は大きくなっているだろうか。
 グエンは細いあごをつっと上げ、視線をまた空にやった。そして、軽くその目を閉じる。
「わたし、もっと研究頑張って、聴きたいです」グエンがそっと言った。「銀の森に降る、銀の雪の音」
「――うん」
 僕も、耳を澄ませよう。うまくしゃべれなくても、耳は澄ませていよう。その人の奥深いところで、何かが静かに降り積もる音が、聴き取れるぐらいに。
 グエンの横で、僕も空を仰いだ。
 八月、僕の中にこもり続けていた熱を、銀の雪が冷ましていく。
 いつもよりわずかに軽い風が、頬を撫でた。ツクツクボウシがどこかで鳴き始める。
 夏の終わりは、もうすぐそこだった。

「八月の銀の雪」 了

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