新潮社

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      *

 午後六時の薄暗い廊下に、サンダル履きの僕の足音だけがぱたぱたと響く。
 世間はまだお盆休みで、校舎は普段よりずっと静かだが、どの研究室にも明かりは灯っている。九月の大学院入試に向けて勉強している四年生と、実験が忙しい大学院生たちだろう。
 僕はそのどちらでもないが、この時期に帰省するなどあり得なかった。親戚も集まるし、外を歩けば昔の同級生に出くわす可能性も高い。どこに就職するんだと無神経に訊いてきそうな顔がいくつも浮かぶ。
 教授の居室の前まで来ると、談笑する声がドア越しに聞こえた。来客中らしい。ノックをして「どうぞ」と返ってくるのを待ち、扉を開く。
 客は教授と同世代の見知らぬ男だった。軽く会釈して、教授に鍵を手渡す。
「これ、薬品庫の――」使い終わったので教授に返してくるよう、先輩に頼まれたのだ。
「お盆返上で実験かい?」客の男が笑顔で訊いてくる。「大変だね。大学院生?」
「いえ、四年生です。実験というか……先輩たちの手伝いを」
「そりゃ気の毒に」客が苦笑する。「進路が決まった途端、こき使われてるわけだ」
「いや……」
 答えに窮していると、教授が横から言った。
「それがねえ、彼まだ未定なんだよ。就職希望なんだけど、苦戦しててね」
 今思い出した。うちの教授も、無神経な人間の一人だった。
 そんな彼が教えてくれたところによると、客は古くからの友人で、とある地方国立大学の教授だという。研究集会のために上京してきたらしい。
 僕は退室するタイミングを失い、二人の会話を立ったまま聞かされる羽目になった。
「いやあ、苦戦してるのはうちの学生も同じだよ」客の教授は言った。「うちみたいな駅弁大は、地元か近隣の県から来てる子が多いでしょ。地方の優等生って感じなんだよね。みんな真面目に勉強するし、卒業研究なんかもしっかりやるんだけど、いざ就活となると、都会の私大生に負けちゃう。東京の学生はさ、サービス業のアルバイトやらインターンシップやらで、大人や世間にすごくもまれてるんだよね。世慣れてて物怖ものおじしないし、弁が立つ」
「確かに、口だけ達者な学生は、うちでも増えたな」僕の教授が口の端をゆがめて笑う。「プレゼンは堂々たるもんだけど、目を閉じて話だけ聞いてると、まるで中身がない」
「まったく、企業にはもっとその辺を見極めてもらいたいよねえ。うちなんかでもね、四年生で研究室に配属されてきたときは、おとなしくてよくわからない子だなあと思っても、大学院まで三年間こつこつやって、ほんとに立派な修士論文を書いて出ていく学生、たくさんいるもんね。そんな学生でも、アピールが下手だと就職には苦労する」
「この堀川君も、静かなほうだけど――」うちの教授が僕のほうを見た。「実験は粘り強くきっちりやるし、手先は器用だし、プログラミングなんかも独学でマスターしてるしね。大学院も勧めたんだけど」
「……すいません」
 つぶやくように言いながら、なんで僕が謝らないといけないんだと思った。

 研究室に戻ると、誰もいなかった。今日の作業はすべて終わったので、みんなで食事にでも出たのだろう。自分の席に腰を下ろし、ほっと息をつく。
 ここの一員になって、四カ月。ハブられているわけではない。僕が飲み会や食事の場に加わらないことを、みんなもうわかっているのだ。
 そういう人間は、無理に誘われないかわりに、気にかけてもらうこともできない。研究室でいまだに就活を続けているのはもちろん僕一人だが、そのことは普段忘れられている。みんなでやる仕事を、僕だけいつまでも免除してもらうわけにはいかない。
 教授はさっきも口走っていたが、大学院進学など無理な話だ。そうでなくても僕は人より一年余計に学生をやってしまっている。弟も今年から専門学校に通っているし、新潟市のはずれで小さな文房具店を営んでいる両親に、もう余裕はない。
 父親も口下手で、客に愛想一つ言えない人だ。僕はその血を受け継いだ上に、気も小さかった。友だちはなかなかできず、小学生の頃はたびたびいじめの標的になった。
 たまに向こうから近づいてきてくれたとしても、この人と親しくなりたい、気に入られたいと思った途端、うまく言葉が出てこなくなる。すると、どうなるか。相手に怪訝な顔をされて、すべてが終わるのだ。そのうち僕は、最初から一人でいることを選ぶようになった。
 英語を除けば、昔から勉強は嫌いではなかった。高校は、県立で二番手の理数コースに入った。参考書だけで真面目に受験勉強をして、地元の国立大学工学部に挑んだものの、英語で惨敗。滑り止めに受けていた今の私大にだけ合格した。
 地元も好きではなかったが、東京に出るのも不安だった。それでも入学を決めたのは、東京という街が自分を生まれ変わらせてくれることを、ほんの少し期待してしまったからだ。
 だが、大学生活はスタートからつまずいた。たとえ同じ学科でも、自分からみんなの輪に入っていかない限り、名前さえ知ってもらえない。サークルの勧誘も、遠くから見ているだけでは声をかけてもらえるはずがない。親しい友人は、一人もできなかった。
 このままではいけないと、二年生の秋に都内の屋内型遊園地でアルバイトを始めた。明るく元気なバイト仲間たちに無理やり溶け込もうとしたが、僕はよほど空気を読めていなかったのだろう。陰で悪口を言われていることを知ってしまい、四カ月で辞めた。
 そしてそれから、大学にも行けなくなった。理由は自分でもよくわからない。春先に新潟に帰り、そのまま一年間実家で無為に過ごした。いつまでだらだらしているつもりなんだという両親の小言にうんざりして東京に戻ったが、復学してからは自分を変えることを放棄した。教室の一番後ろに一人座って講義を受け、空き時間は図書館で好きな勉強をする毎日。アルバイトは、荷物の仕分けなど、人と交わらないで済む仕事だけ。とても楽になった――。
 誰もいない研究室で、ノートパソコンを開いた。
 ブラウザを立ち上げて大学のキャリアセンターのサイトに進み、就職支援システムにログインする。いつものように求人票の検索ページに入ると、新着情報の中に機械部品メーカーの募集要項があった。どういう会社かもわからないまま、とりあえずプリントする。
 リュックから就活用のファイルケースを取り出し、印刷した要項をしまおうとすると、底のほうで何かに引っかかった。見れば、薄汚れた四つ折りの紙が邪魔をしている。
 取り出してみると、ボールペンで殴り書きされた〈アフィリエーター〉の文字。さらに開けば、ピラミッドをなす顧客のマークと矢印。清田がコンビニで仮想通貨ビジネスの説明をしたときの紙だ。あの日の別れ際、清田に渡されたものが紛れ込んでいたらしい。
 こんなもの、もう目に入れたくない。丸めて捨てようとしたとき、裏に印刷された文字が透けて見えた。英文だ。
 裏返してみる。一番上の中央に大きく〈P'〉の文字。その下に〈By I. LEHMANN〉とあり、第一章の英文と数式が続く。論文のようにも見える。論文――?
 左下の余白に目が留まった。青いインクで短い一文が書き込まれている。アルファベットだが、英語ではない。文字にアクセント符号のようなものがついた、東南アジアかどこかの言葉。
 間違いない。最初のページしかないが、グエンがさがしていた論文だ。
 あらためてその中身を見てみる。フォントも印刷の不鮮明さも、確かに古くさい。出版年の記載はないものの、相当昔の論文だろう。用紙もかなり傷んでいるので、コピーされたのも最近のことではない。
 それにしても、〈P'〉というのは奇妙なタイトルだ。意味は想像もつかない。数式があるので、理数系の分野には違いない。専門的な英文などとても読めないが、単語だけを拾っていくと、ヒントになる言葉を一つ見つけた。
〈earth〉――「地球」だ。どうやらこれは、地球についての論文らしい。
 でも、なんで彼女がこんなものを。ずっと心の中でばかにしていた、使えないコンビニ店員が――。
 
 コンビニに入り、まずレジのほうをのぞいてみる。グエンは夕方から深夜までのシフトで働いていることが多い。もう七時過ぎなので出勤しているとは思うのだが、カウンターの中にいるのは男の店員一人だった。
 奥へ進んでいくと、おにぎりやサンドイッチの棚の前に、その華奢きゃしゃな後ろ姿が見えた。積み上げられたコンテナの横で、品出しをしている。
 僕はリュックから、さっき見つけた紙を取り出した。グエンに近づき、背後から「あの――」と声をかける。振り返った彼女は、僕を見てすぐ、ああ、と眉を動かした。
「こないだ言ってた忘れ物って、もしかしてこれですか」
 僕が差し出したものを見た瞬間、グエンの表情が固まった。奪うようにそれをつかみ、素早く折りたたんでジーンズのポケットに突っ込む。レジのほうをちらちらうかがいながら、声をひそめて訊いてくる。
「一枚だけですか。他のページは?」
「いや、それしかないけど」
 グエンは腕時計に目を落とし、早口でささやく。
「すみません、ちょっとだけ待っててくれませんか。お店の外で、ちょっとだけ離れて」
「え?」
「お願いします。すぐ行きますから。ごめんなさい。すみません」
 何度も頭を下げるので、わけもわからないまま、ひとまず店を出た。店の人間に見られたくないようだったので、二軒向こうに建つ小さなマンションの入り口まで移動する。
 一分もしないうちに、グエンが通りに現れた。左右を見てすぐに僕を見つけ、小走りでやってくる。入り口の明かりの下で、グエンはポケットからあの紙を取り出した。
「これ、どこにありましたか」広げなから訊く。
「どこって、たぶんあのテーブル。あのとき僕と一緒にいた彼が、いらない紙だと思って使ったみたいで。だから、裏にいろいろ――」
 グエンは紙を裏返してそれを確かめ、小さくうなずく。「大丈夫。しょうがないです。あのお友だち、他のページも持ってますか」
「わからないけど、もしかしたら」他のメモに使ってまだ持っている可能性もなくはない。
「訊いてみてくれませんか」
「それはいいけど」昨日から気になっていたことを、思い切って訊いてみる。「そんなの読んでるってことは、もしかして、大学生?」
「……ちがいます」答えるまでに妙な間があった。
「でもそれ、科学の論文ですよね。地球とか、そっち方面の――」
「ごめんなさい」グエンが硬い声でさえぎる。「もう戻らないと。ありがとうございました」
 グエンはぎこちなく頭を下げると、店に向かって走っていった。

      *

 目が覚めると、もう夜の十二時前だった。夕方、頭が疲れてベッドに倒れ込み、そのまま寝入ってしまったのだ。
 今日は土曜日で、先輩に言いつけられている仕事もなかったので、ずっと家にいた。朝からエントリーシートを書こうとしたが気分が乗らず、現実逃避に書きかけのプログラムの続きをやり始めると、つい夢中になってしまった。
 デスクトップパソコンの横で、四角い頭の「ロボダン2号」が目のLEDを点滅させている。メールのアイコンをクリックすると、心地よいモーター音を立てて右腕を上げ、レトロな電子音が告げた。
「メールガ、2ツウ、トドイテイマス」
 僕が作ったロボットだ。全長約二十五センチのボディは、すべて段ボールでできている。内部に搭載した手のひらサイズのコンピュータが、机のパソコンと無線LANでつながっていて、メールが届くと腕の動きと人工音声で知らせてくれる。
 段ボールロボット製作は、僕の唯一の趣味だ。壁の棚に並んでいるのは、ロボットアームや二足歩行ロボ、宮崎アニメ風の羽ばたき飛行機など、今まで作った作品たち。机には工具や電子部品、床には段ボールの切れ端が散乱している。
 作り始めたのは小学生のとき。家で一人遊びばかりしていた僕には、店の裏にいくらでもあった段ボールの空き箱だけが友だちだった。たまたまネットで、段ボールと注射器のポンプを使った水圧式ロボットアームを作っている人を見つけ、その精巧さに衝撃を受けた。見よう見まねで作り始めると、すぐにのめり込んだ。
 いろんなメカが段ボールで実現できるようになると、今度はそれを自動で動かしたくなる。中高生時代は電子工作の本を読みあさり、安い部品を求めて新潟市内に一軒だけあったジャンク屋に足繁く通った。さらには、ロボットにシングルボードコンピュータを組み込んで制御するために、プログラミングを学んだ。
 ロボダン2号がメールの〈件名〉を順に読み上げている。今日プログラムを書いて追加したばかりの機能だ。
 一通は就活サイトからのメールだった。それも最近はめっきり数が減っている。メールソフトで中身を確認するが、大した内容ではなかった。結局今も、新潟ではなく東京の情報を漫然とチェックし続けている。ほとんど惰性だ。
 机の端に置いたエントリーシートが目に入るが、やはり手は伸びない。それよりも、喉が渇いていた。夕食になるような食料もなかったので、コンビニまで買い出しに行くことにした。

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 店に入ると、イートインスペースの一番奥に、グエンが座っていた。仕事終わりなのか、Tシャツにジーンズという私服姿で、日本語の教科書らしきものを広げている。目が合うと、なぜか彼女はすぐ本を閉じ、筆記具をペンケースにしまい始めた。
 構わず中に進み、冷やし中華と二リットルの麦茶を買う。出入り口まで戻ったときには、もうグエンの姿はなかった。そのまま通りに出て歩き始めると、二軒隣りのマンションの前に彼女が立っている。
「すみません」グエンが声をかけてきた。
「ああ……」僕は近づきながら言う。「論文のことなら、まだ彼に訊けてないんですけど――」
「それは大丈夫です。別のことで、教えてほしいことあります。ちょっとだけ、話せませんか」
「え、今?」
「何度もごめんなさい」グエンが真っすぐ見上げてくる。「たぶん、二十分か三十分だけ。お願いします」
 頻繁に洗濯して着ているのか、グエンのTシャツは襟がよれてしまっていた。白いスニーカーもところどころ擦り切れている。
 それを見て、ふと思う。グエンもまた、この東京で必死に生きている。いや、僕なんかとはとても一緒にできない。彼女は、言葉も習慣も違う、異国の都会で生きているのだ――。
 結局、断ることはできず、話を聞くことにした。どこか座れるところはないかと言うので、十字路の先のあの児童公園まで歩いた。
 いつもの場所ではなく、外灯の真下のベンチに並んで座った。湿気がすべての物音を吸収しているかのように、あたりはしんと静まり返っている。この深夜の公園に誰かと一緒にいるということが、とても不思議に思える。
 グエンはかばんから、あの紙を取り出した。論文の一ページ目だ。なぜかそれを裏返し、清田の描いた図を見せる。
「これ、アフィリエートの話ですよね?」グエンはいきなり言った。「こういうアルバイトかビジネス、あるんですか」
「え――」この展開にはさすがに戸惑う。「まあ、そうみたいだけど……」
 グエンはこの図からそれを嗅ぎ取ったらしい。そういえば、あのとき彼女は僕たちの近くでゴミの片付けをしていた。清田の言葉も断片的に耳に入ってきていたのかもしれない。
「どういう仕事ですか。お金どれぐらいもらえますか」矢継ぎ早に訊いてくる。
「いや、僕にはよくわかんないです。やってるわけじゃないし」
「わたし、ベトナム人ですけど、できますか」
「いや、ちょっと難しいと思うけど……ていうか、やらないほうがいいですよ」
「なぜですか。法律違反の仕事ですか」
「そこもはっきりわかんないけど――」
 僕はその仕組みを自分なりに説明した。たどたどしい解説だったにもかかわらず、グエンはよく理解してくれたらしい。聞き終えると、眉をひそめて「なるほど」とつぶやいた。
「それは、よくない仕事です」
「ですね」
「少しぐらいよくない仕事でも、ほんとはやりたい。でも……」グエンは短く息をついた。「人を騙すのは、ダメですね」
 細い肩を落とした彼女の横顔を見ていると、つい言葉が漏れ出る。
「コンビニ、辞めたいんですか」
「そうではありません。でも、もっとお金要ります」
「学費、とかですか」
「学費は要りません。わたし、奨学しょうがく生です」
「日本語学校の?」
「いえ」グエンは小さくかぶりを振った。「ごめんなさい。わたし、ほんとは大学院生です。人を騙すのダメなんて、わたし言えなかった」
「やっぱり、そうなんだ。その論文みたいなことが、専門ですか」
「はい。わたし、地震の研究してます――」
 そう言って彼女が明かした正体は、僕の想像のはるか上をいくものだった。
 グエンは、明都大学大学院の博士課程一年生で、所属は理学部の地震研究所。一流国立大の留学生というだけではない。明都大の国際奨学プログラムに選抜され、月額十八万円の奨学金まで支給されているという。
 出身大学は、ベトナムの名門、ハノイ国家大学。生まれは貧しい農村で、高校と大学へはベトナム政府の特待生として進んだ。故郷では神童と呼ばれるような少女だったのだろう。ハノイで地球物理学を修めたあと、地震学の総本山でさらに学ぶべく、一昨年来日した。研究者を目指しているそうだ。
 大学院で学ぶにあたって日本語は必須ではないらしい。英語でおこなわれる講義が多くあり、研究所内でのコミュニケーションもほぼ英語でこと足りるのだという。彼女の日本語は、明都大の留学生向け日本語クラスで学んだものだった。語学のセンスがゼロの僕とは大違いだ。
 相づちさえ打てず、惚けたように聞いていた僕は、やっとの思いで声を発した。
「――すごいですね」
「すごくないです。わたしまだ、論文一つも出してません」
 グエンは淡泊に言い放つと、手の中の紙をまたひっくり返し、英文の面をこちらに向けた。外灯の光が、〈P'〉という大きな文字のタイトルをくっきり照らし出す。
「インゲ・レーマンという人、知ってますか」
「知らないけど、その論文の著者ですよね」
「そう。デンマークの女性の地震学者です。もう亡くなってますが、わたしの憧れの人。この論文、彼女の歴史的な仕事です。一九三六年、地球の中心に『内核』があること、世界で初めて提唱しました」
「内核――」どこかで習ったのは確かだが、記憶は曖昧だ。
「日本、地震がすごく多いです。被害もたくさん。だから、日本人は地球の中のこと、詳しいと思ってました。でも、違いました。みんな全然詳しくない」
「ああ……かもですね」
「地面のすぐ下は――」グエンは足もとの硬い土をスニーカーで踏んだ。「地殻ですね。地球が卵だったら、地殻は卵の殻。薄いです。その下に、とても分厚い岩石の層ある。マントルです。地球の半径の半分ぐらいのところまで、ずっとマントル。そこから先が、コアです」
「確か、鉄でできた部分ですよね」だんだん思い出してきた。地球を真っ二つに割った断面図が浮かんでくる。
「そう。コアは二層なってます。外側が、外核。高温で、金属がどろどろに溶けている、液体の層。内側が、内核。そっちは固体の球です。地球の芯、ですね」
 つまり、地球の真ん中には鉄球の芯がある。それが一九三六年にわかったわけか。それほど昔の話ではないのが意外だった。グエンも似たようなことを言う。
「木星にいくつも衛星あること、四百年前にわかってました。なのに、自分たち住んでる地球の中のこと、ずっと何もわからなかった。人間は月まで行きました。なのに、わたしたちのボーリング、まだマントルにも届かない。人間が掘った一番深い記録、地下十二キロです。コアの表面の深さ、二九〇〇キロ。コアは、遠いんです。月より遠い。見えないし、触れない」
 言われてみれば、そうかもしれない。でも、だったらどうやってそんな深部のことを知ったのか。僕の疑問を察したかのように、グエンがうなずく。
「だから、地震学者は、耳を澄ませます」グエンは頭を横に倒し、手のひらを耳に当てた。「こうやって、地面に耳をつけて」
「え? 嘘でしょ」
 思わず言うと、グエンが初めて微笑んでみせた。すぐ真顔に戻って、続ける。
「耳を澄ませたら、ときどき波の音聴こえます。地震波です。震源から出て、地球の深いところとおって、遠くまでやってくる。地殻、マントル、外核、内核。その境い目で反射して、屈折して、地表に届く。だから本当は、耳で聴くのじゃありません。地震計ですね。そしたら地震波、教えてくれます。どこから、どこをとおって、どれほど時間かかって、ここまできたか。たくさんデータ集めると、だんだんわかってきます。地球の内部の構造、どうなっているか」
 なるほど、そういうことか。これでも理工学部だ。イメージはできる。
「それって要は、CTスキャンだ。超音波エコーとか」
「ああ、そうです。詳しいですね」
「一応、理系なんで」
「そうでしたか。だったらご存じ思います。地震波にP波とS波、ありますね。S波は横波、液体中は伝わらない。外核を通るコースでやってくるのは、P波だけ。S波は来ない。それがわかったから、外核は液体とわかりました」
「へえ」それは素直に面白い話だと思った。
「インゲ・レーマンは、じっと耳を澄ませた人でした。誰よりも。彼女がヨーロッパに置いた地震計、地球の反対側、南太平洋の地震たくさんキャッチしました。コアの真ん中をとおってきた、P波です。コアは全部液体――それが当時の考えでした。でもその考えだと、彼女のデータ、うまく説明できなかった。
 他にも、気づいたことありました。何も届かないはずの地域に、実はP波が届いている。ほんのかすかなP波。コアの中に何かがある――そのせいで屈折してきた波に見えました。測り間違いだと言う人もいました。だから、彼女はもっともっとデータ集めました。そしてとうとう、素晴らしいアイデア思いつきます。液体のコアの真ん中に、固体の部分がある。そう考えれば、データは全部説明つく」
「それって、結構大胆なアイデアですよね。だって、高温で溶けてるコアの中心が、また固まってるなんて」
「はい。でもレーマンは、常識より、データ信じた人でした。休みの日、データを記録した紙を家の庭に広げて、それに埋もれているような人。無口で、無愛想で――」グエンがまた口もとを緩める。「たぶん、仲良くなるの、ちょっと時間かかる人」
「そうなんだ」少しだけ親近感が湧いた。
「わたし、そういうところも、好きなんです。女性らしくないとか、女性のくせにとか、どうせ女性だからとか、きっとそういう時代だったのに。データだけで、研究者としての自分、認めさせた。ほんとにすごい」
 グエンは再び論文に目を落とした。題名のあたりを指で撫でながら続ける。
「この論文のタイトル、たった一文字、〈P'〉です。これ、コアをとおってきたP波のこと。とてもカッコいいタイトル。レーマンの自信のあらわれと思います。P'という波のこと、自分が一番よく知っている――。
 そう言えるぐらい、あなたもデータと向き合いなさい。わたしのハノイの恩師、そう言いたかったと思います。だから、この論文くれました」
「ああ、これ、ベトナム時代の先生が」
「はい。ここ――」左下の余白に書かれたベトナム語の一文を指差した。「先生からのメッセージです。〈マイさんへ あなたの成功を祈ります〉」
 そんな論文なら、必死でさがし回るのも当然だ。この一枚でも見つかってよかったと思いながら、僕は彼女自身のことを訊ねてみた。
「あなたも今、コアの研究をしてるんですか」
「そうです。内核の表面が、どうなってるか。そこで何が起きてるか。地震波を使って調べてます。でもそれ言うと、みんな訊きますね。それが何の役に立つのか。地震の災害、防ぐ研究しないのかって」
「ああ、確かに」そう言いたくなる気持ちはわかる。
「でもわたし」グエンは目に力を込めてこちらを見た。「逆に訊きたいです。みんな、なんで自分たち住む星の中のこと、知りたくならないのか。内側がどうなってるか、気にならないのか。表面だけ見てても、何もわからないのに。わたし、そんなことばかり考えて、眠れなくなる子どもでした。あ――」
 グエンは何かに気づいたように口に手をやり、立ち上がった。論文をしまいながら言う。
「ごめんなさい。関係ない話ばっかり。時間たくさん使いました。こんな夜遅く」
「いや、それは別に……」
 そんなことより僕は、恥ずかしかった。表面的なことだけを見てグエンをばかにしていたことが、先入観だけで彼女を見下していたことが、ただただ恥ずかしかった。
 十字路のところで別れる間際、グエンは思い出したように言った。
「もう一つだけ、お願いあります。今の話、ここだけにしてくれますか。例えばあの友だちとかに、お店の中で話さないでほしいです」
「いいけど……今の話って、アフィリエートのこと?」
「違います。わたしが明都大の大学院生ということ。お店の人たちに知られたくありません。店ではわたし、日本語学校の留学生と言ってます」
「え――」
 その理由を確かめる間もなく、グエンはぺこりと頭を下げて、真夜中の通りを踏切のほうへと消えていった。

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