新潮社

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      *

「自分の人生の値段って、いくらかわかる?」
 マネージャーなる男が、女子学生に向かって訊いた。僕の横に座る彼女は、おどおどしながらかぶりを振る。
「もし君たちが来年就職するんだったら、簡単にわかるよ」マネージャーは女子学生と僕の顔を交互に見て、指を折っていく。「初任給いくら、ボーナスいくら、昇給はどのぐらい、退職金いくら。全部足したら、はい、それが君たちの人生の値段。こんなこと言ったら失礼かもしんないけど、まあ、金額はその辺の人と変わんないよね」
 うちの大学の社会学部四年だという女子学生は、「はい、それは……」と自信なげに小さくうなずいた。それを見て、僕の向かいで清田が微笑む。
 清田に頼まれた二回目の仕事は、マネージャーと清田が二人がかりでこの女子学生を落とす場に同席することだった。以前も聞いたが、マネージャーとは数人のアフィリエーターを統括する立場の人間で、清田はこの男に誘われてこの仕事を始めたそうだ。僕たちよりは歳上らしいが、まだ二十代だろう。あごひげを生やし、麻のシャツをはだけた胸にチェーンをのぞかせている。
 日曜の昼さがりだからか、前回と同じ駅前のカフェには、読書や勉強をして過ごしている客が多い。隣りのテーブルで雑誌を開いていた初老の男が、ちらりと僕のほうを見る。僕は目を伏せて、コップの水をひと口含んだ。
「でも俺はね」マネージャーが女子学生の目をのぞき込む。「君という人間の価値がそんなもんだとは思わない。もちろん、君のこと、まだそんなに知らない。でもね、日本の会社は基本どこも、社員を買い叩いてんだよ。要はみんな、不当に安く働かされてる」
「はあ」女子学生は圧倒されている。
剰余じょうよ労働って、聞いたことある?」
「いえ」
「マルクスは聞いたことあるでしょ。彼が言ったことなんだけど、労働者はみんな賃金以上の仕事をさせられていて、その分を搾取さくしゅされている。これって実は、労働者の宿命で――」
 ある意味、すごい。清田とは格が違うと思った。本当か嘘かわからないような話を次から次へと浴びせかけてくる。断定口調で圧が強いので、こちらは完全に受け身になる。
 横で冷静に聞いていると、その話には根拠も脈絡もないことがすぐわかる。たぶん、ネットで拾ってきたことをつぎはぎしているだけだ。それでも、いろんなことをひたすら決めつけられているうちに、そうかもしれないと思い始めるやつもいるのだろう。だからこそ、この男はマネージャーになれたのだ。
「要はね、自分の人生の値段を、他人に決められるなって話」マネージャーは言った。「それは自分で決めなきゃ。そう思うでしょ?」
「……思います」女子学生はか細く答えた。
「お、意識変わってきたね」清田が彼女に笑いかける。「いいじゃんいいじゃん」
「そのためには、何が必要かわかる?」マネージャーがたたみかけた。「経済の知識。学校では絶対教えてくれないような、ホンモノの知識。リアルな経済。実際、世界はそういうので回ってるから。現金いくらもってるとか、銀行に預金いくらあるとか、そういうことじゃないよ。キャッシュフローで考える。要は、投資だね」
 よくしゃべる。くだらないことばかり、べらべらと。やけに耳に障るその声を聞き流しながら、僕は昨日のグエンの話を思い出していた。
 コンビニでのグエンは、余計なことは何一つ言わない。客に愛想よくするどころか、マニュアルにある台詞さえろくに発しない。そんなものに必要性を感じていないのだろう。
 でも、語る価値があることは、ちゃんと語るのだ。母国語でない言葉で、ゆっくりと丁寧にしてくれた話は、とても面白かった。飾らない言葉で、理路整然としてくれた説明は、とてもわかりやすかった。
 饒舌さなんてものは、知性と何の関係もない――。
「おい、堀川君って」
 清田の声で我に返った。
「何ぼーっとしてんだよ。俺、外で一本電話かけてくるから。マネージャーは一服だって。二人でちょっと待ってて」清田はそう言ってマネージャーと一緒に席を立つ。「あ、彼女に軽く話してやってよ。交流会のこととか」
 大方、外で作戦でも練るのだろう。二人が店を出て行くと、女子学生がため息をついた。
「ああ、もうどうしたらいいかわかんないです」僕をのほうを見ずに訊いてくる。「ほんとに大丈夫なんですかね。投資とか、アフィリエーターとか」
「怪しんでるんですか」とりあえず言ってみた。
「そうじゃないんですけど、こんなのほんとに仕事って言えるのかなって。フリーターよりはマシかもしれないけど……親に何て言えばいいんだろ」
「え、就職は?」
「わたし……まだ内定出てないんです。中小もいっぱい受けてるのに、一つも。自分の何がダメなのかわかんなくて、毎日泣いてて。そしたら知り合いが、清田さんのこと紹介してくれたんですよ。清田さん、だったら就活なんかやめちゃえばいいって。親が言うから、みんながそうだから就職しなきゃいけないって思ってるだけでしょって。そう言われたら、わけわかんなくなってきちゃって。わたし、こんな辛い目して、いったい何がやりたかったんだろうって」
 慰めの言葉一つ出てこなかったが、気持ちは痛いほどわかった。暑い中リクルートスーツを着て、靴擦れをつくりながら歩き回って、ただ傷つく。心が弱らないほうがおかしい。
「この話、やるって決めたんですか?」彼女が訊いてきた。
「僕?」どう答えるべきかは決まっている。でも、どうしても首を縦に振れない。「いや、決めたというか……」
「理工学部なんですよね? 理系だし、就職、決まってますよね」
「まあ……」
「どう思います? わたし、ほんとに就活やめちゃっていいんでしょうか」
「いや、僕に訊かれても……」
 そんなこと、僕が知りたいぐらいだ。例えば神様になら、僕だって言ってほしい。辛い就活なんて、今すぐやめていい。そんなことしなくても、君は何にでもなれる、と。
「でも――」僕は言葉を選びながら言った。「就活やめていいなんて、簡単に他人に言えるものなのかな。そんなこと言っていい人、言う資格がある人、ほんとにこの世にいるのかな――とは、思う」
 彼女はしばらく僕の横顔を見つめたあと、「ああ……」とうめいてテーブルに突っ伏した。
 交流会の作り話など、できるわけがなかった。

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 結局、女子学生は最後まで態度をはっきりさせることはなく、「もう少し考えさせてください」と言って帰っていった。話が進まなかったので、幸い、僕が前のめりに「サインします」と宣言しなければならない場面も訪れなかった。
 マネージャーは、スマホで誰かとしゃべりながら店を出ていったまま、戻ってこない。
 三杯目のアイスコーヒーをストローでかき混ぜる清田に、僕は言った。
「あのさ、こないだコンビニで、忘れ物のこと訊かれてたでしょ」
「忘れ物?」清田はだるそうに応じる。「ああ、あのしつけー中国人の店員か」
「ベトナム人だよ」
 僕は、グエンが大学院生だということは伏せて、かいつまんで経緯を話した。興味なさげに聞いていた清田は、最後に「で、それがどうしたの」と言った。
「だから、僕が持ってたのは、一ページ目だけで。他のページ、清田が持ってるかもしれないと思って。あのとき他のメモとかに使って、どこかに残ってたりしないかな」
「知らねーよ。覚えてない。てか、なんでそんなに親切なの。あの女に気でもあんの?」
「んなわけないじゃん。ただ――」僕は清田の目を見て言った。「大事なものなんだって。だから……」
「悪い」清田は腕時計に目をやった。「俺、新宿でもう一件アポあるんだ。もう行くわ」
「ああ、うん。論文、ちょっとさがしてみてよ」
 清田はアイスコーヒーの残りを吸い込みながら席を立ち、「また連絡するから」とだけ言い残して足早に立ち去った。
 その姿を見送った僕は、店を出る前にトイレに行った。
 用を足して出てくると、さっきの席にマネージャーが戻ってきていた。一人ではない。外で合流してきたのか、キャップをかぶった見知らぬ男が向かいに座っている。
 二人はテーブルの書類を見ながら話し込んでいて、僕には気づかない。そのまま知らぬ顔で出入り口に向かおうとしたとき、マネージャーの言葉が耳に飛び込んできた。
「清田だよ、問題は」舌打ちをして吐き捨てる。「あいつ、マジで使えねー」
 思わず足が止まった。さりげなく衝立ついたての陰に入る。
「なんか、スランプだって言ってましたけど」キャップの男があざけるように言う。
「だったら最初からスランプじゃねーか」
 キャップの男は客ではなく、アフィリエーターらしい。それにしても、清田が仲間からそんな言われ方をしているとは思わなかった。上から期待されているのではなかったのか。
 もう少し聞いてみたい。衝立ての反対側をそっと進み、二人のテーブルに近づく。いい席が空いていた。衝立てをはさんですぐ隣りだ。盗み聞きがバレたらまずいが、マネージャーが席を立ったときは、テーブルに顔を伏せて寝たフリでもすればいいだろう。僕の地味な服装など、どうせ覚えちゃいない。
「さっきだってよ、ろくに俺のアシストもしねーし、全然つめていかねーの。自分の客だろーが」マネージャーの文句は止まらない。「あんなヌルいことやってっから、毎回クロージングで逃げられるんだよ。マジ口先だけ。カッコだけ。デキる男。やっぱ、再教育すっか」
「いやあ、無駄じゃないすか」キャップの男が言う。「口先だけなのは、昔からみたいすよ」
「ああ? 何だそれ」
「あいつ、入った会社――専門商社みたいなとこすぐ辞めて、こっち来たじゃないすか。俺のツレの後輩が、たまたまその会社で清田と同期だったんですって。で、そいつからいろいろ聞いたんですけど、清田、配属されたばっかの部署の上司に、いきなり見破られちゃったらしいすよ。『お前、口先だけだな』って」
「マジか。やるな上司」
「清田って、昔から要領だけでやってきた男らしくて。勉強なんか全然しないで、大学はAO入試で入って、ラクな授業だけで単位揃えて、就職に有利なボランティア系のイベントサークルで幹部やって、聞こえのいいバイト選んで、インターンシップでいい顔しまくって」
 ついでに、教養のゼミでも班長に手を挙げたわけか。キャップの男が続ける。
「そうやって入った会社なのに、上司に言われたんですって。『社会に出たら、いくら自分を実力以上に見せようとしても、化けの皮は必ずはがれる。お前みたいなやつは、不器用でもこつこつ何かをやってきた人間には絶対に勝てない』とか何とか。実際、仕事でいろいろやらかしたらしいすけどね。俺できます、余裕です、みたいなこと言いながら」
「今と一緒じゃん」
「それで心入れ替えるかと思ったら、逆ギレっつーか、すねちゃって。『この会社、なんか違うんで』って辞めちゃったんですって」

      *

 人間の中身も、層構造のようなものだ。地球と同じように。
 硬い層があるかと思えば、その内側にもろい層。冷たい層を掘った先に、熱く煮えた層。そんな風に幾重いくえにも重なっているのだろう。真ん中の芯がどういうものかは、意外と本人も知らないのかもしれない。
 だから、表面だけ見ていても、他人にはけっしてわからない。その人間にどんなことがあったのか。奥深くにどんなものを抱えているのか。
 それを知る方法は、あるのだろうか。グエンが言っていたように、じっと耳を澄ませていれば、中からかすかな音でも届くのだろうか。
 例えば――。清田の中からは、何が聞こえてきただろう。深いとはとてもいえない付き合いの中で、あいつは今まで僕に何をし、どんなことを言っただろう。
 夜十一時を回った。清田からラインがあったのは、二時間ほど前。話があるからとこのコンビニに呼び出されたのに、さっき〈30分ぐらい遅れる〉とメッセージが届いた。
 ここへは大学から来たので、リュックにノートパソコンを持っていた。仕方なくイートインスペースでそれを開いているのだが、とりとめのないことばかりが頭をめぐって、手はほとんど動いていない。
Pythonパイソンですか」
 いきなり背後で小さな声が訊いた。グエンが画面のコードを見つめている。掃除に来たらしく、布巾とスプレーを持っていた。
「そうだけど――」Pythonとは、プログラミング言語のことだ。「使ってるんですか?」
「はい、ときどき」グエンはテーブルを拭き始める。「それ、大学の勉強ですか」
「いや……趣味」
「いい趣味です。何のプログラムですか」
「これは、ロボットの制御せいぎょとか」
「ロボット?」グエンが手を止めた。
 僕は段ボールロボットのことを少しだけ話した。写真はないのかとグエンが言うので、先日スマホで撮った動画を見せた。メールの件名を読み上げるロボダン2号の映像を見て、「かわいい」と目を細める。
「ますます、いい趣味です」グエンは掃除を再開した。テーブルにスプレーを吹き付けながら訊く。「就職も、そういう会社ですか」
「え?」
「この前、あの友だちと、就職の話――」
「ああ……」やっぱり聞こえていたのか。一瞬ためらったが、なぜか彼女の前では自分をつくろおうとは思わなかった。
「まだ、どこも決まってなくて。就活も今、行き詰まってるっていうか……」
「なぜ決まりませんか」グエンは眉を寄せた。「そんな面白いロボット作れるのに」
「こんなの、ただのオモチャですよ。人の真似だし」
「真似でもいいじゃないですか。だって――」と言いかけたグエンが、ガラスの向こうに目を留めて、「呼んでます」と言った。
 清田がすぐ外の通りに立ち、僕を手招きしていた。

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Photo by Giorgio Trovato on Unsplash

 清田は黙って踏切のほうへ歩き出した。遅れて悪かったとも、どこへ行くとも言わない。足の運びがゆっくりなので、歩きながら話そうということだろう。
「堀川さ」清田が切り出した。「こないだの子に、何か言った? 社会学部の子」
「え……何かって――」
「余計なことだよ」清田の声がとがる。「あの子、就活が忙しくなったからって、今日の面談バックレた。電話して問いつめたら、『人に言われて就活やめるなんて、ダメな気がしてきて』とか言って。親に相談でもされたかと思って確かめたら、あの理工学部の人にそういうこと言われたって。妙に響いたんだってよ。なあ、どういうこと?」
 そうだったのか。どこか安堵している自分がいて、感じたとおりのことを口にするのが怖くなくなる。
「彼女、まだ内定出てないって言ってた。苦しんで、わけわかんなくなってた。そういう状態の人に、就活なんかムダだとか、もうやめちゃえとか言うのは――やっぱ違うよ」
「何? 開き直んの?」
「僕のせいなら、金は全部返すから」
「そういうことじゃねーよ」清田が顔をしかめる。「でも、あのあとマネージャーにも言われた。あの堀川ってやつ、横に座らせとく意味あんのかって」
「僕も、そう思う。だからもうやめるよ」
「堀川ってさ」清田がこちらに一瞥いちべつを投げる。「ときどき、わけわかんないよな。さっきのコンビニの店員といい、あの社会学部の子といい、妙な肩入れすんの、いったい何?」
「肩入れっていうか、僕も同じなだけ。人とうまくしゃべったり、感じよく接したり、できない。要領も悪い。だから――そのせいだけじゃないだろうけど……僕もまだ、内定ゼロ」
「ゼロ? だってお前、こないだ――」
「ごめん、嘘言って。でも、だから彼女の気持ちはすごくわかる。就活がばかばかしくなったり、投げ出したくなったりするのは、しょっちゅうだよ。現にここんとこ、現実逃避気味。それでもやっぱり僕は、内定がほしい」
 その数を誇りたいわけでも、安心を得たいわけでもない。誰か一人にでいいから、ひと言でいいから、言ってほしいだけなのだ。君は君なりに、ちゃんとやってきたんだね――と。
「高くもない給料の会社に入るために必死で就活してるのは、僕だって同じ。だからそういう人のことを、ばかにしたりはしない」自分でも驚くほど、次々言葉がこぼれ出る。「僕こんなだし、就職できたとしても、そこでやっていけるかどうかはわかんない。でも、もし僕がその会社でうまくいかなかったとしても、就活なんかやめとけみたいなことは、人には言わない。だから――」
「俺は!」清田が気色ばんでさえぎった。「俺は、うまくいかなくて会社辞めたわけじゃねーし! まわりのレベルが低すぎるから、あんなやつらに勝ったってしょうがないから辞めたんだよ!」
 後ろで踏切が鳴り始めた。いつの間にか、線路沿いの道を歩いている。
「――うん。でも――」うまく言葉にできないまま、曖昧な問いにする。「清田は今、勝ってるの?」
 返事はない。前から来た電車が通り過ぎて行く。
 正面を見据えた清田の唇が、わずかに動いた。轟音の中、耳を澄ませる。
「――うるせーよ」
 はっとした。そのかすかな声は、清田という人間の奥深くからやってきた気がした。僕の短い問いかけが、彼の芯のあたりで反射し、屈折しながら表に出てきた、寂しげな音の波――。
 それが、三年前の記憶を呼び起こす。
「班長、覚えてる?」僕は静かに言った。「教養のゼミで、最初に班分けしたとき、清田が僕に声かけてくれたじゃん」
「ああ? 何だよ突然」
 あのとき、適当にグループに分かれるよう指示された学生たちがあちこちで固まり始める中、僕はどこにも入っていけず、じわじわと講義室の後ろに下がっていった。そのままドアから出て行ってしまおうかとさえ考え始めたとき、清田がつかつかとやってきた。
 清田は僕の名前と学部をそっと訊ねると、自分の班のほうへ連れて行き、以前からの知り合いのような態度で一員に加えてくれたのだ。だからあれは、清田のあの行動だけは、パフォーマンスやスタンドプレーの類いではない。
「あのとき、なんで僕に気づいたの」
「覚えてねーよ、んなこと」面倒くさそうに言った清田が、「でも――」と目を伏せる。
「ああいう場では、つい気になるっていうか。あぶれてるやついないかなって。俺、小学校でも中学でも、結構そっち側だったから」
 清田はすぐに、つまらないことを言ったという顔をして、足を止めた。そして、「もういいよ。帰れよ」と言い捨てると、駅に向かって一人歩き出す。
 僕はその後ろ姿を、僕と同じ孤独を閉じ込めた背中を、しばらく見つめていた。

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