新潮社

新潮」特別試し読み 壺中の天地/エリイ(Chim↑Pom)

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第一回 蛸狩り<前編>

 眼球が押しつぶされて楕円になり、わずかに開いた隙間に先端が触れる。かすかに膜を張っていた水分がパイルに吸収されていく。「オキテクダサイ、オキャクサン」。カーテンの向こう側から投げかけられたその言葉はこれが二度や三度目ではないだろう。オキャクサンとは私のことだと、走り込む光によってくり色に浸っていた脳がずるりと這い出す。うつ伏せのまま鼻と口で呼吸出来るように穴が空いている枕の上のパイルの輪状のループに焦点をあわせながら、簡易ベッドと枕の間に挟んでおいたiPhoneを取り出すと眩しさで顔が歪む。せっかく眠って浄化されたのに悪い光線にまた顔を引っ掻かれたようだが瞼を開くのに役に立った。
 充電器の先をiPhoneから抜きながら3時過ぎたかな、表示時刻は2時48分。カーテンの向こう側から北京語が聞こえてくるが何を話しているか分からない。マッサージ中もよく店員同士で談笑している。どなりあって喧嘩しているように聞こえるのに突然大笑いしだすその内容を知りたいが到底分かるはずもない。死ぬまでにどんな話をしているのか知れるかなあ、食べ物の話かな、私も食べたい、前に横浜のアカスリでハルビン出身のおばちゃんがご飯が美味しい、鍋で何かを煮込んで食べる、デカい雪まつりがあるって言ってたなあ、とパイル地の輪の中を見つめていると「コンデキマシタ、デテクダサイ、オキャクサン」。特に急かしている様子はないが混んできたのは事実だろう。このマッサージ店は前払い制で、起きたらそのまま誰とも話さずにドアを開けて出ていけて、他の客が来てベッドが埋まらなければいつまでも寝ることができる。朝方に来て起きたら夜で、一度帰った店員がまた出勤していたこともあった。
「はーい」と掠れた声で応答しながら、足の裏をゴムカーペットの上に落とす。立ち上がって施術着の茶色いハーフズボンを脱ぐ時に足が絡まりよろめく。クソと自分では発している意識もないまま呟きベッドの上にそれを勢いよく投げつける。籠の中から取り出した黒いクロスホルターのトップスと柔らかい素材で出来たショートパンツを穿く。お尻のポケットに鍵と財布と潰れたタバコの箱を確認して、さらにiPhoneを入れる。充電器を壁がもげそうな力でコンセントから引き抜いて目の前の布を引きちぎりそうな勢いで開けてカーテンだらけの廊下を入口に向かって歩く。ソファと小さな机、その向かいにあるカウンターの中に座ってこちらを見ながら「アリガトゴザマシター」と言う散切り頭の赤いポロシャツを着ている若い男にiPhoneの充電器を返しながら「金魚に餌やりたいんだけど」と言うと立ち上がり、壁際に置いてある小さな水槽の下の棚から「金魚ぱくぱく 色揚げプラス」と二匹の魚の絵の下に和金、コメットなどスレンダーなフナ型体形の魚に適した消化の良い浮上性の餌だということが書いてあるシールが貼られたボトルを無言で渡し、カーテンが並ぶ奥へ消えていった。下に砂利とビー玉が敷き詰めてありそれ以外は水草もなく、絵柄同様ただ二匹の小さい魚が泳いでいる水槽の上から丸くって茶色い小さな粒をパラパラと、お碗の飯の上にふりかけをかけるように手から離す。水面に浮いた粒を一口で包みこんだ金魚の口がコンパスのように開いたのを見届けて、ビーサンを履き重めのドアを開けてすぐ横の、タバコで押しつぶされて溶けて見えなくなった「▽」のボタンを押す。ガコと音を立てて蹴られまくって足の形に黒ずんだ扉が開く。中には白いシャツにベルトをして頬に汗を滲ませたサラリーマンが乗っていた。一つ上の階に風俗店があるのだ。2人は狭い箱の中で揃って前方を向き、654とオレンジ色に光りながら順に下降していく文字盤を見つめながら、鍵先で細かな傷をつけられまくった扉が開くのを待つ。モアと熱気が入り込み隙間があく。ライが先に降り、雑居ビルの外へ出る。顔をあげると建物と建物の間に見える空はまだ暗いが、ぽっかりと雲が浮いている。
 24時間営業を謳っていた海鮮系居酒屋もコロナで灯りはともっていないが通りは人で活気づいていてドン・キホーテのペンギンがプリントされたTシャツを着ている子達が2人で腕を組みながら前のめりで歩いていたり、ハーフパンツに柄シャツの男と女たちがキャンプ用の椅子を持参して路上で車座になり飲んでいるのを眺めながら頼はお尻のポケットからKOOLのブースト8を取り出して、緑色に施された箱のなかからライターとタバコを一本取り出す。硬くて着火するのが難しいライターをカチカチするたびにクソと発する。発されるそれは鯨の潮吹きと同じで生きる為には欠かせない自然現象だ。熱帯夜に1人たたずみながら頼はやっとついたライターの火が長い睫毛を焦がすのも気にせず、身体中が肺になったように煙を深く吸い込んでいく。
 まだ時間が早いし、もう一杯飲みに行くと決めるとこうこうと光るコンビニの横のクラブまで歩く。頼を見つけた1人のビアフラ共和国出身の黒人の顔がぱっと明るくなり「ライ、ヒサシブリジャン、アイテルヨ、Open.」と黒い肌に白い歯と他の肌の部分より明るい掌を見せながら、深い緑色の欄干から立ち上がる。「昨日会ったじゃん」と頼は前を向きながら階段を降りて行き細い入口にはいる。縦長のクラブは奥にバーカウンターがあり、汗にまみれた酔っ払いたちを掻き分けて酒を買いに行く。ビーサンの足を踏まれるような痛い思いは頼はさせない。「レッドブルウォッカ」頼は叫ぶ。ここに来る途中に歩きながら財布から抜いた千円札3枚を胸の間にいれておき、その中から1枚取り出して、顔馴染みのコロンビア人の店員に渡す。イラナイヨと言われるが「チップ」というとウインクしてプシュっと開けたレッドブルとAbsolutを両手で持ち、氷が入った冷たいガラスのコップに半分ずついれていく。黄金色に輝くその飲み物を受け取りながら300円を差し出され、頼は要らないといい奥のVIPスペースに行く。
 頼の顔を見たナイジェリア人のセキュリティがロープパーテーションを開けて、頼は小上がりを進む。タバコに火をつけて、緑や赤のレーザービームに彩られながら身体を震わせる人たちを見下ろしながら、ソファで酒を口に運ぶ。周りを見渡すとアメリカ人のグループが奇声を発しながらシャンパンを回し飲みしていて、机の上のアイスペールには逆さまになった瓶が隙間無くひしめきあっている。コロナで回し飲みとか信じらんない、と頼が自分のグラスをギュッと掴んでいると後ろから首に手が回される。振り向くと「頼!」と笑顔が眩しいサエがいた。冴は身体にピッタリと張り付いた肌に馴染むベージュカラーのタイトワンピースとスキニーパンツのいで立ちで真ん中で分けた長い黒髪の先端を金色になるように脱色していた。

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