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第二回 蛸狩り＜後編＞
「冴！ その髪ちょーいいじゃん」音の震えをかき分けて頼は冴の耳元に口を持っていく。「いいでしょ、昨日やったの、来週沖縄行くからさ」「それだと根元が黒いから伸びても当分持つしイケてるよ、似合ってる！」「乾杯しよ」冴が近くの黒服にイエガーを3つ頂戴と指を3本立てる。「それにしても頼さぁ、髪ぼさぼさじゃーん、どったの？」「マッサージ行ってきた」一面鏡張りの壁を見ながら頼は自分の耳の後ろで綺麗に切られた短い髪を確認しつつ、全身を映しながら身体を揺らす。隣の卓のソファを跨って乗り越える。テーブルに置いてあった開封されていない500mlのミネラルウォーターの蓋を開け、高く持ち上げて頭に水をそそぐ。びしょびしょになった髪と顔を見ながらポーズを決めて、どんな髪型にしようかなと手をぐしゃぐしゃと動かす。「黒くて綺麗だからさ、ツヤだしてピッチリさせるのもかわいいかもね」後ろから冴が言う。そのテーブルにあった誰かの誕生日ケーキの手付かずのホイップクリームを、頼はすくって擦り合わせて髪に撫でつける。「今日は7：3風にしてみよっと」とザバリと前髪を立ち上げるようにもっていき、サイドは耳の横にピッタリさせた。冴がケーキの横の数本の空き瓶の残骸を眺めながら「ねえ、頼みて。ヴーヴにカフェパリが混ざってる」「景気ヤバいんじゃん」黒服が持ってきたイエガーのショットを手に取りながら、冴が「残りはお前の分だよ」と黒服に言い3人でガラスが割れるほど強く乾杯する。丁度フロアでは花火が上がっていた。花火の赤い光を顔に受けながら「踊りに行こうよ！」と冴が頼の手をとり走り出す。お互いの顔を見ながら音に合わせて手足を動かしていく。音の粒子が手首や腕、太腿、ふくらはぎ、お腹や中耳腔をぴったりと覆って、皮膚から浸透して、頼と冴はお互いの目を合わせ続ける。だんだん、気がつけば音も聞こえなくなって白い光に身体が包まれていく。フロアに光の液体が流れ出していっぱいになっていく。その中に2人は揺蕩いながら足の感覚がなくなっていく。
「何か飲もう」汗にまみれた2人はフロアのバーでジンを飲む。「朝食どうする？」イラン人の友達を見つけて首へ手を回す、赤のギンガムワンピを着たロシア人を見ながら頼が聞く。「蛸獲りに行かない？」「蛸？」「潮が引く時間になると岩場が出現するじゃん？ そこに蛸が残って散歩してることがあるんだって。今日の10時～11時の間がピンポイントなんだって」頼はそれを聞いて胸へ血が押し寄せて前にのめった。「蛸行く」「蛸って肉食で人間の手とか噛むんだって。ドンキで軍手買って行こう」彼女たちはセキュリティや黒服や踊ってる客にじゃーねーいまから蛸、蛸、蛸行くからバイバイと言いながらクラブを出る。カラスが放り出されたゴミ袋をクナイのような嘴で突いて道じゅうに果物の皮や残飯がぶちまけられている。「まぶしー、晴れててラッキー」モアりとした街の熱気に包まれながら彼女たちはクラブと同じ通りにあるドン・キホーテにむかう。蛸に心を囚われた頼は汚れに覆われた足でスキップしている。ドンキの入口には大きな水槽があり頼は顔をガラスにくっつける。「元気でしたか私のペットたち」「ウツボ居ないよ、死んじゃったんだ」「え、ウツボこの間までいたじゃん！」「代わりに偽物のクラゲかなんか取り付けてあるよ」「ニモは生きてる」「ウツボって寿命40年くらいあるらしいよ、蛸は2年だって。ここのウツボ、私が子どもの時から居たけど死ぬの早すぎる」「アーメン」ドンドンドン、ドンキードンキホォーテェーなーんでも揃って便利なオミセーの歌の合いの手を2人はジャングルだぁと合唱する。「あー涼しい」「私、ヒールで足痛い。岩場ってビーサンだと脱げるからマジックテープで留められるサンダル必要だよね」「じゃ、お揃いにしよう、このカーキ色違いが正解」と入口すぐの陳列棚には思い描いた欲しいものが並んでいる。「水着は？」コロナに負けない！ やるなら今！ と独特の丸文字で描かれたポップを見ながら冴が言う。「この下、水着着てる、だって夏だもん！」「私はこのままでいいや、濡れても暑いからすぐ乾くし」「ねえ、蛸ってどうやって食べるの？ やっぱ茹でるよね、鍋とか必要じゃん」「5階の生活用品売り場へ行こう」エスカレーターで登りながら「頼、知ってる？ スーパーってさ、蛸を置くことによって他の商品が売れるんだって。蛸自体が売れるかどうかはさておき」「じゃあ蛸が客寄せパンダの役割で、みんな貝とかメバチマグロとか秋刀魚とかを買うってこと？」「やっぱ人は蛸に魅せられるんじゃん、形状変だし」「タコ焼きも大好き。今すぐ食べたいけど新鮮な蛸の足に齧り付くのを今日のファースト口に入れるものにしよっと」「5階ついたよ、まずは茹でるための鍋でしょ、カセットコンロと、解体するのは鋏でいっか、あと重要なのは軍手。布よりビニールとかで出来たやつがいいよ」「あったよ、菜園用のだけどいいよね、あとストロング買わないと。1階で会計するからエレベーターで降りよう」レジの近くにあるドリンクの陳列棚で頼はドライ、冴はレモン味を取り出してプシュッと開けて乾杯する。「電車で飲む分と浜辺で乾杯する分も買わないと、今開けたのはあとからお金払えばいいでしょ」「あーストロングめっちゃ美味い。なんか買い忘れがある気がするなー」「あ、レモンとか塩とかは？」「調味料コーナーまでいくの面倒だね、蛸は海水に浸かってるから良い感じなんじゃない」「そうだね、じゃあいっか」と話しているとレジの横にヒマラヤ岩塩が配置されていてそれも籠にいれてレジで箸をもらう。ドンキを出た2人は、路上で相撲をとりながら次のクラブへ移動するアメリカ人の軍団をくぐり抜けて駅にむかう。電車の中はポツポツと人がいて寝たり新聞を読んだりしていた。2人はシートに座って、黄色い袋からストロングを取り出して乾杯する。「うちらの身体の水分って殆どストロングで摂取してるよね」「そうだね、もし蛸が獲れたら血になって身体中をめぐるよ」「蛸獲れなかったらストロングで終わりじゃん」
乳白色と蘭茶の砂粒が僅かに開いた瞼の縁にこびりつき、光が屈折してまるで日暈のように見える。波打ち際に横たわる頼の至るところに砂達は入り込む。噛みしめた奥歯を鳴らし、首筋をざらつかせて、臍の奥に達し、尻の肉を覆い、膝裏の皺に食い込み、足の水掻きに溜まった。顔面に波がかかり鼻に海水が入った反射でうつ伏せの躯体の頭が僅かに上がる。一定の間隔でうねりに襲われ続けた頼は匍匐前進をし、波に自ら頭を突っ込み海中に躍り込む。頼の太陽に振るわれた暴力の跡が激しい皮膚を海水が冷んやりと包んで鎮火させていく。細胞のドアを叩いて一つ一つ起こしていくようだ。海底から巻き上がった砂が黄金色に見える海面から、目だけを出す。岩と雲が点在する水平線から180度振り向くと、ストロングの空き缶と冴が砂浜に転がっていた。
海を前にした砂浜の道路を挟んだ左後ろには緑が溢れた山がある。しばらく続いた砂浜から右手は海に向かって岩群がはみ出ている。完全に目覚めた頼は海から上がって冴をのぞく。手加減なしに砂が絡む冴の長い髪の上に頼から滴った海水がぽたん、と落ちる。冷やされた両手で熱くなった冴の頬が包まれて、金襴緞子の帯のようなアイシャドウがのった上瞼と、マスカラが黒く落ちたふっくらした下瞼が微かに開いて頼の姿を捉えた。そのままゆるりと冴は頼の太ももに頭をのせて、ホテルの羽毛布団を丸めたような真っ白で肉厚の積雲の輪郭を目で追いかける。頼は濡れた砂を左手ですくって、右手の人差し指にそれを付ける。冴のおでこから眉間を通って鼻の頭までなぞって一旦離して、唇の下から顎まで押し付ける。左目の下から鼻背を通って右目の下まで一直線に引く。親指でこめかみから頬にかけて渦をつくっていく。冴が上体を起こして、砂を指につけて頼の目の周りを点で囲んでいく。唇の両端から両耳の付け根に向かって、放射線を描く。太陽に顔を向けて、砂が乾いて定着するのを何も話さずに待った。
潮が引き海に隠れていた岩肌が露出した。潮だまりにカメノテ、海藻、栄螺や小魚が見える。2人は岩の突起を蹴り上げながら藻に足を取られることなく進んでいく。その間も目は標的を探し続ける。頼は岩の穴や底にびっしりと生息している海栗の一つを選んで、軍手をはめた手に取る。棘を折って両耳に空いているピアスの穴に刺す。冴はアカモクを結んで繋ぎ合わせ、ハワイの空港に売っているレイのようにして首にかける。
何千もの潮だまりに放たれている頼と冴はひたすら蛸を目指す。波が巻き込む岩間に頼は顔を着けて栄螺たちの声を聞く。蛸は何処？ 蛸はいないよ、と渦を巻いた殻が背を向けて言い放った気がした。頼は目を瞑って波に打たれる。もし自分が蛸だったら何処に身体を揺蕩わせるだろうか。蛸は知能が高い生き物だ。私と一緒でどんな時だって快適さを求めるに違いない。こんなに眩しくファンタスティックな日に、岩の裏でじめりとしていては気分が台無しだし、岩の上に登って蛸煎餅になるような過ちは犯すはずがない。小学生のとき、学校のベランダの水槽の石に1センチにも満たない蛙を置いて、次の日登校したら干からびて潰れていた姿が目に焼きついている。下には水がたっぷりとあったのに。あの蛙にこの海の水を垂らしてあげたい。不穏な思い出の蘇りによるものか、見つけることの出来ない苛立ちが先か、衰運の影に忍び寄られた気がする。頼の目は霞み、胸が弾んでいた狩猟場が嫌いになってきた。やり遂げられない。それは拭えないように決定づけられている気がした。何処にいるんだろうか。気配は感じている。近くにいるんだ。岩の向こうから冴がやってくる。冴も蛸を携えている様子はない。冴の軋みながらも靡く髪を見て、頼は自分の心が意気地を失っている事に気がついて岩肌にそっと触れる。気を取り直して蛸の気持ちと自分を同化させることに努める。蛸は私で私は蛸、頼は呟く。私だったらスイスイと泳ぎたい。蛸の足と自分の腕が重なりあい、指が触手と化す。岩肌を舐めるように這って吸盤をぱっと離して海の中を進む。頼の頭の中に光明が差した。あっちだ。岩を乗り越えて来た岩を戻る。その場所は、頼の膝より下に雲を映しぽっかりと穴が開いているように見えた。後をついてきた冴に頼は目で合図を送る。透明の海水の下で長いものが進んでいる。躯体を伸ばして気持ち良さそうに泳ぐその物体のさきに見えるのは吸盤だ。蛸はその潮だまりの中を勝手知ったる街中を移動する頼のように如意自在に進んでいた。頼が蛸の軌道上へ手を伸ばす。追いかけられていることに即、気がついた蛸は身体を旋廻させる。満天の星空に一筋の流れ星が弧を描くように、転がる岩の下に隠れた。頼は目を岩から離さない。岩も静かな海面も何事も無かったような佇まいだが、そこに居る。冴が降りてきて岩を斜めに持ち上げる。岩の隙間から矢のように飛び出た軟体の頭を頼はがっしりと掴んだ。顔より高く持ち上げて、蛸の本拠地の海から離す。吸盤が手首に吸い付いて腕を締め上げる。叫ぶ頼の手から冴は一本一本吸盤をはがしていく。剥がしてもまた命へ縋り付く。その作業を繰り返すと、蛸の吸引力は少しずつ失われていった。腰に挟んでおいたドンキの袋に海水と蛸を入れて口を縛る。ぶりゅりゅりゅと鳴き声をあげながら、吸盤が黄色いビニールに張り付いてこちら側を観察しているかのように、名残惜しさを醸していた。浜辺へ戻った2人は砂の上に蛸を放つ。蛸の黄色い虹彩の中の長方形の瞳孔と、頼の少し血走った白目に縁取られた大きな黒目が合った。蛸の瞳孔は細まったり開いたりしながら頼を捕らえる。頼は蛸の目と目の間にある急所の場所を確認するように指先でひと撫でした。鋏を手に取って、刃を入れる。鋏の先は跳ね返された。頼の予想よりも弾力があった。蛸は怒っているのか身体を伸び縮みさせ、乾燥した棗椰子のようにギュッと頭に力を入れた。8本の足が波を打つ。頼は叫びながら力を入れて振り翳す。ぷつり、と膜の向こう側へ通過した振動は消える命の震えだった。蛸の身体が灰茶色から象牙色へ変化していく。力を置き去りにしていったような動かぬ躯体となり足がだらりと伸びきった。2人は砂を上からまぶして、4本の手で吸盤の間や入りくんだ頭の滑りをしごいて取っていく。頼は胴体を裏返して筋を指で引き千切る。破れた袋から流れでた墨汁が頼の手や内臓を染めた。最後に2つの目玉が残った。表にして見ると金の玉の中に下弦の月があった。裏から指でくり抜いて海に投げる。中身を失った躯体を波で洗い流す。蛸は深夜にロードスイーパーが通ったあと、明け方に光る道のようだった。冴は一本の足を鋏で細かく切って、頼の口へ入れる。噛み締めた頼は目を見開いてぴょんと跳ねた。残りの足と胴体を切り離して、少しの海水と一緒に鍋へ入れてコンロの上へ置いて火を着ける。温度が上がると蛸の紫黒色の色素が染み出して海水がワイン色へ変化した。蛸の足も深い赤と紫を混ぜた色へ変わり、くるんと丸まる。私たちが良く知っているいつもの蛸になった。親しみのある、食卓に並ぶ色と形状になった足。鍋から箸で取り出して、2人は一本ずつ手に取る。太い方からがぶりと噛みちぎる。蛸から滲み出る汁が溢れて、蛸が活き活きと生活していた太平洋を丸ごと呑み込んだようだった。太陽で真っ黒になった2人は並んで座って水平線を見ながら齧った。
残った足をドンキの袋に入れて口を結ぶ。頼がコンロや鍋を持ち、冴が蛸を腰に携えて海岸の横にある小道を抜けて、アスファルトの道へ出る。来た道を戻りながら2人は暑いとも言わずに背筋を伸ばして歩く。駅前のコンビニでストロングを買う。改札を通過して東京へ向かう誰もいない車内でぷしゅとプルタブをあけて祝杯をあげる。袋から蛸を取り出す。こんなに美味しい蛸を食べるの初めてじゃん、と頼が言いながら蛸の丸まった足を指でそっと伸ばす。冴が何か言ったが感染対策で開かれた窓から入る音で、頼には聞こえなかった。車輪が秋の気配を含んだ風を撥ね退けながら、彼らを運んで行く。
（この項了）