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はじめに、第1話全文公開

はじめに

 長く小説やエッセイを書いて来た。主人公のほとんどは女性で、仕事や友人、家族関係、生きがいややりがい、悩みや孤独感などを絡めて来たが、その中でも、やはり恋愛は大きな比重を占めていた。
 別に恋愛がなくても生きていくことはできる。けれど、人は誰かを想う気持ちを抑えることができない生き物である。人生から切り離せない。
 なぜ人は恋をしてしまうのか。
 そんなシンプルな疑問から始まって、恋愛についてそれなりに考えてきたつもりだったが、正直なところ、答えは見つけられないままである。わかったのは、答えなどない、というもっともな結論だけだ。
 だからというわけではないが、ここ数年、恋愛というテーマから遠ざかっていた。
 今更、恋愛を描く必要などないのではないか。すでに語り尽くされている感もあるし、何より世の中はあまりに複雑になっていて、興味を持つどころか、辟易している方も多いのではないかとの思いもあった。
 そんな時、ある女性と話す機会を持った。
 その女性とは、彼女がまだ20代の頃に出会っている。いい大学を出て、希望の会社に就職して、仕事もばりばりやって、恋もたくさんしていた。毎日を実に楽しんでいた。だから、もしかしたら彼女はもう結婚する気がないのかもしれないと思っていた。
 ところが、彼女は30歳を過ぎて間もなく、短い交際期間であっさり結婚を決めた。
 幸せそうな様子の彼女に、意地悪な私はついこんな質問をしてしまった。
 本音を聞きたいのだけれど、実際のところ結婚の決め手は何だったの?
 彼女はちょっと困ったように首を竦めて「もちろん彼が好きだったからです」と前置きしてからこう言った。「だって、結婚すればもう恋愛しなくていいでしょう?」
 周りからは恋愛を楽しんでいたように見えていたが、実際は違っていたのだろう。
「若い頃の恋愛は挫折と失敗の繰り返しでした。それで恋愛に疲れてしまったという気持ちもあって、ありがちですけど落ち着いた生活がしたくなったんです」
 思いがけない反答に、あの時、少々面食らってしまったのを覚えている。
 結婚生活は順調で、すぐに年子でふたりの子供も授かった。育児に仕事に家庭にと、てんてこ舞いの日々ではあったが、順風満帆な暮らしをしていたとのことである。
 それが徐々に夫婦間に亀裂が生じるようになっていく。
「友人たちの結婚をたくさん見て来たから、何となくわかったような気でいたんですけど、結婚ってやっぱりしてみないとわからないものですね。恋人同士だったのが、夫婦になって、パパとママになって、仕事もして家事もしているうちに、いつの間にか余裕がなくなっていたというか、元夫も私も生活の変化に追いついていけなくなっていたのかもしれません。小さな行き違いから始まって、気が付いたらもうどうしようもない隔たりが出来ていました」
 経緯はいろいろあるだろう。互いに修復に向けて努力はしたようだが、やがて離婚に至る。そして、彼女は30代後半でシングルマザーとなった。
「その時はもう恋愛も結婚もこりごりと思っていました。何より子供たちが大切だったし、この子たちのために生きていこうと決心しました。散々心配かけた親も年をとって、そろそろ介護も視野に入ってきて、もう恋愛どころじゃないって気持ちもあって。
 でも……」
 言葉尻がちょっと濁る。
 どうやら、彼女は今、恋をしているらしい。
「恋愛なんてもう卒業と思っていたんですけど、大人になっても、やっぱり恋ってするんですね。こんなに誰かのことを好きになるなんて、自分でも予想外でした」
 その様子が、20代の頃の頬を紅潮させて恋を語っていた彼女と重なってゆく。
 若い頃の恋と、大人の恋の違いはどう?
「やっぱり難しいです。若い頃は、好きっていうシンプルな気持ちだけで突っ走ることができましたけど、今は互いに抱えているものがたくさんあるから一筋縄ではいきません。迷いや悩みは、あの頃よりずっと多くて、頭を抱えることばかり」
 世の中には100組のカップルがいたら、100の形があると言われる。しかし実際は女と男、200の形がある。それが大人になるに従って、さまざまな人を巻き込んで、無限大の形に広がっていく。
 大人の恋には、大人の事情というものがあり、責任があり、それなりの心の準備や意識の持ち方、ルールも必要だ。
 彼女からそんな話を聞いているうちに、久しぶりに恋愛に興味がそそられた。
 今回、36~74歳の未婚、既婚、離婚経験者の大人の女性たちに、実際に自身に起きた恋愛を語ってもらっている。女性たちから多様で奥深い恋愛模様を聞き、改めて恋愛の面白さや危うさと向き合うことになった。
 不倫もあれば、恋はもうこりごりという話もある。計算し尽くした末での恋愛もあれば、戸惑うほどピュアな恋愛もある。手酷い仕打ちに遭う女性も、性に溺れる女性も、居場所をなくしてしまった女性もいる。直球の恋愛話ではないケースも含まれる。
 女性は若い頃から恋愛について多くを学んできて、恋愛と生き方がセットになっている。だから、恋愛の選択肢をたくさん持っている女性の恋愛話は面白く、切実である。
 憚りながら、私の対応がやや上から目線のところがあって失礼極まりないのだが、感じたことをストレートに書かせてもらった。また、証言は事実関係を損なわない程度に、構成を含め、適宜改変したことを先にお断りしておく。
 更に、当事者である女性の言い分だけを聞いているので、相手の男性たちにしてみれば、証言内容に異議もあるだろう。けれども男性に女性たちの気持ちを分かって欲しいという気持ちも多少あり、このスタイルを選択した。何より、ちょっと申し訳ないが、男性の恋愛話は面白くない。
 働いている女性が多くなった今、経済力を持つ女性も増えて、独身も結婚も離婚も、女性の心づもり次第で選択できるようになった。そんな今だからこそ、恋する大人の女性のメンタルを知ることが、生きていくための手掛かりにもなるのではないかと思う。
 本書に登場する彼女たちの「落とし前」から、何かしらのヒントを得ていただけたなら嬉しい限りである。

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第1話 不倫はするよりバレてからが本番
  ──不妊治療後にセックスに目覚めた47歳

 彼女、由宇さん(47歳)は初対面でいきなりスマートフォンの写真フォルダーを見せて来た。
 フォルダーのタイトルは「お料理」。料理が得意な彼女は、日々の食卓の風景を写真で記録し、こまめにSNSにアップしているという。
「40歳で仕事を辞めてから、お料理をがんばるくらいしか充実感とか達成感がなくて。これと言った趣味もないですし」
 とは言え、その他にも旅先やお洒落なレストラン、カフェでのショット、最近購入した持ち物、インテリアなどの写真が並んでいる。
 こまめに写真をSNSにアップする人は、承認欲求が強いと聞くが、彼女はどうなのだろう。
 その前に、まず仕事を辞めた理由から聞いてみよう。
「子供が欲しかったんです」
 ああ、なるほど。
「結婚したのは28歳で、彼とは学生時代から付き合っていました。結婚するのはこの人とずっと思っていたから嬉しかったですね。新婚当初は毎日が楽しくて、仕事と家庭の両立も少しも苦になりませんでした」
 まあ、新婚時代はみなそんなものだろう。
「しばらくはふたりで楽しみながら生活の基盤を固め、貯金もして、35歳になったら子供を作ろうって計画を立てていました。仕事は好きだったし、生まれてからももちろん働くつもりでいました。仕事は事務機器の営業で、外回りや接待もあってハードだったんですけど、やりがいも感じていましたし、生活はうまくいっていたと思います。夫とも仲がよかったし。それで35歳になって、いよいよ子づくりに取り組んだんです」
 そこで彼女は小さく溜め息をついた。
「正直言って、すぐに出来ると思っていました。生理も順調だし、健康だし、出来て当然だって。でも、出来ない。検査を受けましたが、私も夫もこれといった問題はなし。2年過ぎて、37歳からは不妊治療も受け始めたんですけど、やっぱり結果が出ない。夫も欲しがっているし、義父母からも、ストレートではないにしても催促されているのがわかっていたし、当たり前のように出産していく友人たちへの焦りもあって、やっぱり追い詰められていきましたね」
 不妊治療は肉体的にも精神的にも、もっと言えば経済的にもきついと聞く。
「まさにそうでした。覚悟はしていましたけど、想像以上でした。体調が悪くて仕事に支障が出ることもありましたし、気持ちのストレスは相当だし、何十万単位の費用もかかって貯金も減っていきました。こんなつらい思いをするなら、子供のいない人生だっていいじゃない、と考えた時もあったんです。でも自分の気持ちを突き詰めていくと、やっぱり我が子をこの腕で抱きしめたい、むしろ、その思いは強くなる一方でした。不妊治療はニュースやネットでよく見聞きしていたんですが、周りにはそういう人がいなくて、辛さを共有できる相手もいなかったから孤独でしたね。5歳年下の妹が妊娠したと知った時は心底落ち込みました。みんなができることが何故私にはできないんだろうって、劣等感というか敗北感というか、自分に自信が持てなくなってしまいました」
 聞けば、彼女は子供の頃から成績もよくスポーツも得意で、周りから優等生と言われる存在だったとのこと。きっと初めての挫折だったのだろう。
「40歳になった時改めて考えました。自分はとことん治療に取り組んだろうか、真剣に子づくりと向き合っただろうかって。答えはNO。でも今ならまだ間に合うかもしれない。知り合いに42歳で出産した人がいるんです。仕事はまた見つけられるかもしれないけれど、出産にはタイムリミットがある。それなら今、すべてを賭けてみようと決心したんです。夫も賛成してくれました。それで退職を決めたんです」
 仕事も大事だけれど、人生も大事。子供を持ちたいという願いは、彼女の本能の叫びのようなものだから、それを否定する気はない。もちろん、彼女が働かなくても経済的に困らないという、恵まれた環境もあっただろう。
「夫は最初、喜んでくれたんですよ。専業主婦になって、手の込んだ料理を作るようになって、お弁当も作って、家事もすべてやって、おかえりなさいって毎日出迎えてあげて、とても気分がよかったみたいです。でも私の頭にあったのは子づくりのことだけでした。仕事を辞めたら、なおさら焦る気持ちが強くなったというか、今までのように『仕事があるから』という言い訳が通じなくなってしまったせいもあって、とにかく何がなんでも妊娠しなければってそればかりでしたね」

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 人は自分を納得させるために、それ相応の言い訳を必要とする。それは自分を守るための手段でもあるのだから、追い詰められた彼女の気持ちはよく理解できる。
「でも、その頃からかな、夫とのセックスが味気ないものになってしまったのは。夫も同じだったと思います。愛情とは関係なく、もう義務でしかないんですから。終わると、どうせまた出来ないんだろうなっていう空しい気持ちになるし、生理が来ると、ああやっぱり駄目だったって泣けちゃうし」
 そして先が見えない闘いに入っていったと、彼女は言った。
「諦めが付いたのは45歳の時でした。世の中には40代後半でも妊娠する女性がいるんだから、私ももう少し頑張れば何とかなるんじゃないかって、自分を励まして調べたりもしていたんです。でも生理が止まってしまいました。医者から閉経ですって言われた時はショックでした。いくら何でも早過ぎると思ったんですけど、最近は40代で閉経する人も多いみたいですね。それを宣告されて、さすがに諦めるしかないと思いました。やれることはみんなやった、閉経は自然の摂理なんだからこれが私の運命なんだって、ようやく受け入れることができたんです」
 子供のいない私も、若い頃に葛藤した時期がある。生き物として命を繋げられなかったのは、生きる意味がなかったのと同じではないか。女としての機能を無駄にしてしまっただけなのではないか。 けれども、ある時こんな話を聞いて納得した。すべての生物が子孫を残せるわけではない。動物だろうと昆虫だろうと植物だろうと同じである。残せなかった、もしくは残さなかったことで、自然界のバランスが取れているのだ、と。
「夫も、これからは夫婦ふたりで人生を楽しもうって言ってくれました。たぶん夫もホッとしたんじゃないかな。そりゃそうですよね。義務からの解放ですから。それ以来、別に仲が悪くなったわけじゃないんですけど、夫とはセックスしなくなりました」
 それに不満は?
「別になかったです。悪い意味じゃなくて、卒業って感じでしたね」
 ここらでテーマの本題に入らせてもらおう。
 そんなあなたが大人の恋におちたわけだけれど、そのきっかけは?
 彼女の頬がわずかに紅潮する。それは恋する女の顔である。
「1年半ほど前、勤めていた会社の同期会があったんです。退職者も来るっていうから私も参加しました。そこで以前、一緒に営業で仕事をしていた同僚と再会しました。話が弾んですごく楽しかった。みんなで2次会に行って、その後ふたりだけで3次会に行って。酔った勢いもあって、何となくそんな雰囲気になってホテルに入ってしまったんです」
 再会したその日に?
「はい」
 かなり大胆な行動である。
「私もそう思います。自分がそんなことをするなんて、今思い返してもびっくりしてしまいます」
 それで、彼とはどうだった?
「何て言えばいいのかな」
 気のせいでなく、彼女の表情に華やぎが広がっていく。
「夫以外の人とそんなことをするのは初めてだったし、セックス自体をするのも久しぶりだったし、もう二度と自分にはないかもしれないって思っていたから、初体験の時みたいにドキドキしました」
 よかった?
「いいとか悪いとかというより、自分は今この人とここでこんなことをしているって、その高揚感の方が強かったですね。それと、もう妊娠のためのセックスはしなくてもいいんだってことを実感しました。だってほぼ10年、そればかり考えて生きていましたから」
 彼とはその一度だけなの?
 解放されたって感じ?
「はい、まさにそうです」
「その時は一夜だけのことと思おうとしたんです。でも、すぐ彼から連絡があって、また会いたいって言われました」
 その時、どう思った?
「本音を言うと嬉しかったです。私は一夜の過ちと思っても、彼に軽い遊び相手だったと思われるのは傷つくっていうか。もう女としての自信もなくしていたから、少なくとも彼に、一度だけで終わらせたい女と思われなかったことに安堵しました。馬鹿みたいですけど、プライドが保たれたんでしょうね」
 厄介なことに、男と女の間には自尊心が絡んでくる。特に、始まりと終わりには。
 で、会った。
「はい」

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 それが得策かは難しいところである。プライドなんかにこだわらず、あのまま一夜の思い出にしておけばどんなによかったかと、後でため息をつく女性がどれだけいることか。
 彼のことは以前から好きだったの?
「そういうわけではないです。入社の頃はもう夫と付き合っていたし、結婚してからも、他の男性に目が向かなかったので、そんな目で見られなかったというか。でも話してみたら気が合うし、一緒にいてとても楽しくて。結局、それから会うようになりました」
 彼は既婚者?
「はい、お子さんもふたり」
 どのくらいのペースで会っているの?
「月に二度か三度ってところです。彼は営業職なので、昼間時間が取れる時はラブホテルで待ち合わせています。最初の頃は外で食事をしたり、デートみたいなことをしたんですよ。でも、やっぱり誰かに見られるんじゃないかと思うと落ち着かないし、時間を調整するのも難しくて。一度、友達と行くって夫に嘘をついて、ふたりで温泉旅行をしたことがあるんですけど、その時も人目ばかりが気になって疲れただけでした。今はふたりきりになれるだけでいいんです。もちろんセックスは大事だけれど、それだけじゃなくて、会っていると素の自分に戻れるんです。彼とじゃなかったらこんなに続かなかったと思うし、今も会える日が待ち遠しい」
 彼と関係を持つことで、何が変わった?
「そうですね、シンプルにセックスを楽しめるようになりました。楽しむなんて感覚を長く味わっていなかったから、尚更そう感じるのかもしれません。彼の前ではただの女であればいいって思うと大胆なこともできるし、もっと言えば、まだ私も女でいられるんだって自信がつきます。若い頃は、47歳の女なんて恋愛どころか、性欲もなくなったオバサンだと思ってましたけど、ぜんぜん違うんですね。やはり恋の力ってすごいなって思います」
 恋? 今、恋と言った?
「え?」
 話を聞いている限り、恋というより、セックスの関係だけのように思えるのだけれど。
「私は恋だと思っています。不倫だって恋は恋ですよね。この年の女が恋をするのはおかしいですか」
 そんなことを言っているのではない。仕事の合間にラブホテルで待ち合わせて、食事をするわけでも、話し込むわけでもなく、セックスだけするなんて、結局はお手軽な遊び相手でしかないのではと思えるのだけれど。
「他人にどう思われようといいんです。私は恋だと思っているし、今の私たちには必要な時間なんです」
 性的に満たされると、心も満たされるのだろうか。それとも、心が満たされたから、性的にも満たされているのだろうか。
 彼女が「恋」だと言うなら、そう受け止めよう。
 それで、これからどうするつもり?
「できるだけこの状態を続けられたらと思っています。彼のことはすごく好きですけど、結婚を望んでいるわけではないし、彼の家庭を壊す気もありません。ただ今は、自分が女であることを実感していたいんです。不妊治療であれだけ苦労して、長い時間を失ったんだから、これは神様がくれたご褒美なんじゃないかって」
 ご褒美……。
「でも、いつかは終わらせなければいけないこともわかっています。このまま続けられるわけがない。どんなに辛くても、夫がまだ何も気づかないうちにケリをつけなければって、それはいつも考えています」
 そのセリフは少々悲劇のヒロインがかっているようにも感じてしまう。と同時に、彼女は口では「いずれ別れる」と言っているが、話を聞いている限り、そんなつもりはなさそうにも思える。
 何より、どうして夫が気づいてないと信じられるのかが不思議である。
「そういうことに気の回る人じゃないんです。それにバレないよう細心の注意を払っていますから」
 それはあまりにも楽観的過ぎるのではないだろうか。実際には、夫を舐めてかかっているだけのようにも思える。確かに夫はいい人のようだが、いい人と、ただのお人好しは違うのだ。
 うしろめたさは?
「もちろん、あります。世に言う不倫ですから。でも、今の私にはやっぱり彼が必要なんです。彼の存在があるから、よりいっそういい妻でいようと頑張れるんです。夫に優しくなれるし、お料理や家事も手を抜かず、家で夫が快適に過ごせるように部屋も整えています」

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 この言い訳は、浮気をする男とあまり変わりはないようである。
「妊娠を諦めた時、仕事に出ようかって言ったんですよ、でも夫はこのまま家にいてほしいって。今の状態が夫にも心地いいみたいです」
 妊娠を期待して、ずっと味気ないセックスを繰り返してきたのは夫も同じのはず。だとしたら夫もあなたと同じように、他に女性がいるという可能性だってあるのでは?
「そうですね、確かに絶対にないとは言えませんけど、そうなったらそれも仕方ないかなって気持ちもあります」
 許せるということ?
「自分もこういうことをしているわけだから……。私にバレなければ、ないと同じかなって。夫も辛かったのはわかりますし」
 つまり、自分は夫を許せるから、夫も自分を許せるはずと?
「何より、私たちは夫婦としてうまくいっている自信があります。だって今の私ぐらい、夫のために尽くせる女は他にいないんですから」
 もしバレたら?
「その時が来たら、その時に考えるしかないと思っています。それでも、今の私にはやはり彼が必要なんです」
 その返答に開き直りを感じたのは、私の思い過ごしではないはずだ。
   *
 よく聞く不倫脳とはこういうことを指すのかもしれない。
 何だかんだ言いながら、彼女は自分のやっていることを肯定する言葉しか持ち合わせていない。そして当然のように夫と同期させて、納得している。
 夫が妻の不倫を知った時、果たして彼女と同じ考えを持つだろうか。腹立たしさ、屈辱感、裏切られたという失望。何より、他の男とセックスしている妻に対する嫌悪感。生理的感情は女独特と思われがちだが、男にだってあるはずだ。いやむしろ強いかもしれない。
 彼女の「バレない」「たとえバレても離婚はない」との自信は、単なる願望でしかないことを、彼女はどこまで自覚しているのだろう。
 個人的に、不倫をとやかく言うつもりはなく、それは夫婦や家族の問題であって、部外者が正論を振りかざす権利はないと思っている。
 世の中には不倫なんてものに縁のない夫婦もいるが、不倫に走っている夫婦もそれ相応にいる。不倫していないから仲がいいかといえば、完全に壊れてしまっている夫婦もいるし、妻が、夫が、もしくは双方が不倫していても、それはそれで仲良く暮らしている夫婦もいる。婚外恋愛を互いに公認しているという、特殊なケースも知らないわけではない。
 しかし不倫は、することより、バレてからが本番である。
 その時は不意にやって来る。もしかしたら彼女の場合も、すでに夫は気付いていて、水面下で動き出しているかもしれない。
 その時、今まで恋に浮足立っていて、気が回らなかった自分の立場と直面することになる。自分だけじゃない。夫の感情、不倫相手の本音、さらに相手の妻の言い分、それらが具体的な形を持って目の前に突き出される。
 もし夫から離婚を切り出された時、彼女はどう対処するつもりだろう。婚姻関係が解消されるということは、ひとりに戻るということ。すでに仕事を辞めてしまった彼女は、もう専業主婦でも扶養家族でもない。住む場所は? 仕事は? 収入は? これからの生活は?
 調べてみると、結婚20年くらいの夫婦で、妻の不貞が原因での離婚の場合、一般的な慰謝料は100万から300万くらいが相場らしい。仕事をしていない彼女は、その金額をどう用意するのだろう。財産分与と相殺するという手もあるようだが、あくまで、財産を折半してもそれくらいの額が残る場合の話である。
 また、当然ながら彼女は相手である彼の妻からも慰謝料が請求される可能性がある。更に、夫は彼女の不倫相手に慰謝料を請求する権利がある。
 そうなった時、不倫相手である彼はどのような態度を取るだろう。妻と別れ、彼女と結婚する。確かにそれもないとは言えないが、ふたりの状況を聞く限り、その可能性は極めて低いのではないかと推察する。彼女は恋と言ったが、彼にとっては単なる浮気でしかないという気がしてならない。
 きついことを言うようだが、彼がバレないよう慎重だったのは、彼女のことを思ってではない、自分を守るためである。それは当然で、男は社会的な生き物であり、夫として、父親として、会社員としての立場を何よりも優先する。それはとても分かりやすい構図だと思うのだが、今の彼女は思い至らないようである。
 不倫は他人が口出しするものではないと、先に書いた。
 それでも、これだけは言わせてもらいたい。
 この先に待っているものは何なのか、その想像力だけは失わないで欲しい。ひとりの女でありたいという願望の代償として、何を失い、誰を傷つけ、ダメージはどれほどのものなのか、それらをすでに考える時期に来ていることを自覚しておいて欲しい。
 と同時に、それを踏まえた上での落とし前のつけ方を、今のうちから準備しておくことをお勧めしたい。

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