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まえがき、第4章全文公開

 まえがき 儲かるだけの仕事ならやらない

 経営者には「始める」人と「引き継ぐ」人の2種類しかいません。世の中的には、新たに会社を始めるスタートアップに注目や期待が集まりがちですが、わたし自身が「引き継ぐ」ことの価値や「引き継ぐ」人々の魅力を再認識したのは、ASEANの経営者を対象に行った研修でのことでした。
 タイ、ベトナム、フィリピン、インドネシア、パキスタン、スリランカ……国はさまざまですが、研修に参加したのはみんなたたき上げの創業者です。自宅の一室や倉庫で事業を始め、創業から20年で4万人の従業員を雇用するようになった人。革命後、職を追われて仕方なく始めた養鶏場から全国チェーンのレストランに発展させた人。いずれもドラマチックな経営者人生を歩んできた方ばかりです。
 東南アジアの新興国には、歴史的な背景から100年企業はほとんどありません。経済の急成長を受けて、自分で会社をつくって成長させた創業社長が多く、事業承継のタイミングをこれから初めて迎えることになります。自国内にはノウハウがないため「世界一の長寿企業大国NIPPONに学びに行け」というわけです。なにしろ、日本には100年企業が3万社以上あり、世界全体の4割を占めているのですから。
 この研修には、日本の長寿企業の経営者が参加してディスカッションをしながら学び合うカリキュラムがありました。フィリピンから来たプラスチック製品メーカーの創業社長は、ある時こんな質問をしました。
「経営判断をする時に大切にしているモノサシは何ですか?」
 日本の鋼板メーカーの社長は「うーん」と唸りながら、「こういう時はその道を選ばない、という基準ならあります」とホワイトボードに書き始めました。

「only for money, only for me, only for now」
(儲かるだけの仕事ならやらない。自社のためだけの仕事ならやらない。今がよければいいという仕事ならやらない)

 それを見た海外の経営者たちの間に感嘆の声が広がりました。ホワイトボードの文字を撮影し、「これが日本の長寿企業だ」とコメントをつけてSNSに投稿していた人もいました。
 またある時には、タイから来日した食品加工業のアトツギがこんな質問をしました。
「日本の長寿企業の経営者はなぜそこまで会社の存続にこだわるのですか? 苦労するくらいなら売っちゃえばいいじゃないですか」
 回答したのは工具商社の3代目社長でした。
「会社は、僕の所有物ではない。先祖と子孫からの『預かりもの』なんです。先祖から預かっているものだから、次の世代に返さないといけないんです」
 印象深かったのは、彼が「子どもからの預かりもの」ではなく「子孫からの預かりもの」という表現を使ったことでした。今から何世代も先までを見据えて、会社を永続させていくという意志がなければ、「子孫」という言葉は出てこないでしょう。「今まで」と「これから」の非常に長い歴史の中で、自分はたまたま「今」を担当しているにすぎない。この言葉を聞いて涙する参加者もいました。
 
 親が営む会社を子どもが引き継ぐ。99%が中小企業であり、そのほとんどが同族経営という日本において、かつてはそれが自然なスタイルでした。時代の変化をはじめ、さまざまな原因で経営が悪化することも少なくないでしょう。それでも再建を果たし、存続する会社が日本経済を支えてきました。
 ところが、現在は「親の会社を継ぎたくない」「子どもに苦労をさせたくない」といった理由で廃業を選ぶ会社が増えました。それに対する危機感から、国は応急処置的にM&A、第三者承継、社員承継、廃業支援といった政策を打ち出していますが、「なぜ子どもが親の会社を継がなくなっているのか」という本質的な問題は放置されたままです。

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 わたしは、2018年に一般社団法人ベンチャー型事業承継という団体を立ち上げて、全国の同族企業の後継者(アトツギ)が新たな事業展開に挑戦するための環境整備に取り組んでいます。
 本業は、小さなデザイン会社「株式会社せんねん商店」の代表として、企業の歴史を活用したブランディングや社史製作を手掛けています。
 その前は17年間にわたり、企業情報誌「Bplatz」の編集長として3000社以上の経営者を取材してきました。順風満帆な成功ストーリーはお断り。会社が窮地に陥った時や、経営者として間違った決断をしてしまった時に、どのように乗り越えていったのかを赤裸々に話していただきました。とりわけ心を惹かれたのが、家族の会社を引き継いだひとたちの話です。「天国と地獄」ということばを地で行くような彼らの劇的な経営再建のストーリーに、取材であることを忘れて聞き入ってしまうこともしばしばでした。アトツギは血を分けた我が子に限りません。先代から経営のバトンを引き継ぎ、それをまた次代へとつなぐまで会社の存続に責任を持つひとを指します。
 そういう取材を続けているうちに、まるで彼らの熱量がのりうつったかのように、わたしは全国のアトツギたちを支援するようになりました。大学のゼミやオンラインの場で彼らが交流できるようにし、支援を本格化するための団体の立ち上げと並行して、挑戦するアトツギたちを支援してくれるよう、まるで道場破りのように、地方自治体や中央官庁に突撃。そんな猪突猛進ぶりを「ジャンヌ・ダルクみたいだね」と笑って力を貸してくれるひとたちに支えられて今に至ります。

 そうした足場のひとつが関西大学で、わたしは現在、親が商売や事業を営む学生を対象に「アトツギ白熱教室」と名付けたゼミを受け持っています。2014年、たまたま親が商売している家に「生まれちゃった」人を主な対象として、社会に出る前に家業に向き合い、家業の可能性を考えてもらおうという趣旨でスタートしました。ケーススタディと議論を繰り返しながら、家業の経営資源を活用した新しいビジネスを考えてもらうのが目的で、講師として来ていただくのは全員が同じ境遇だった先輩経営者です。

 この授業で、毎年初回にやっている恒例行事があります。黒板の真ん中に縦線を引いて、スタートアップ(起業家)とアトツギ(後継者)という二つのゾーンをつくり、それぞれについて学生たちに自分自身で感じていることや、世間がどう見ていると思うかというイメージを書き出してもらうのです。
 スタートアップのほうは、「夢でいっぱい」「一攫千金」「株式公開」「自由」「カリスマ」「何もかも自分で決められる」「クリエイティブ」「チャレンジ」「イノベーター」などポジティブな言葉が目立ちます。中には「女優と結婚」なんて書かれていたことも。
 一方、アトツギはというと、「先代と力量を比べられる」「親族ともめる」「社員を採用する際に制約がある」「3代目で潰す」「新しいことを始めようとすると社員から反対される」「先代との葛藤」「ボンボンだと思われる」「地味」「将来性がない」「斜陽産業」などネガティブな言葉のオンパレード。
 これを書いた人の中には、家業を継ぐかもしれない若者もたくさんいます。当事者である彼らが将来に夢や希望を持てずにいるなら、いまや日本中で耳にするようになった後継者不在の問題は起こるべくして起こっていると言わざるを得ません。
 わたしは、この根拠のないままに一人歩きしつつある固定観念を崩し、若い世代からの見え方を変えることが、後継者不在問題の解決につながるんじゃないかと考えて、「ベンチャー型事業承継」というスタイルを広めることにしました。アトツギが、先代から受け継いだ有形無形の経営資源を活用して新しい事業領域に挑んでいくことをベンチャーの一つとして再定義しようというものです。

「ベンチャー型事業承継」という言葉を最初に使い始めたのは、バイク・自転車部品の通販事業を手掛けるカスタムジャパンの村井もと社長です。村井さんはおじいさんが創業したバイク部品商の3代目。2005年にご自身で創業したカスタムジャパンでは、先代から受け継いだバイク部品の仕入れルートや多種多様な商品に関する専門知識という経営資源にITビジネスのノウハウを掛け算して、海外にも展開しています。
 村井さんはユニークな経歴の持ち主です。長男として生まれたものの家業を継ぐ気は毛頭なく、家を出てクラブDJやITベンチャーの役員として働いていました。数々の新規事業立ち上げに携わり、多くの成功も収めましたが、ある時担当した事業が思うように伸びず壁にぶつかったことがありました。父親から「戻ってこないか」と声がかかったのが、ちょうどそのタイミングでした。大阪の下町で営む家業はバイク部品の販売。当時は、父親と親戚を含めて社員5人の小さな所帯でした。仕事のやり方は「超アナログ」で、電話で注文を受けて紙の伝票を起こし、軽トラで納品する。「東京のイケイケのIT業界とエアコンもない長屋とのギャップがすごかった」そうです。
 でも、ある日、こっそり決算書を見て驚きました。財務内容が驚くほど優良だったからです。ベンチャーキャピタルから数千万の資金調達をしたものの、あっという間に資金ショートして行き詰ったというIT企業時代の経験があったので、父親が、規模は小さくても堅実に経営を続けてきたことの価値に気づきました。
「これは潰したらあかん」
 村井さんは、自分でつくったチラシを持って、日本各地の整備工場に営業に出かけます。それをふりだしに、自動車部品の通販ビジネスに特化した別会社を31歳で創業、その後、父親の会社の3代目アトツギにもなりました。村井さんの家業を含めたグループ企業は現在、従業員数100人、バイク部品の自社ブランドも展開し、100万アイテムを扱うまでに成長しました。事業拡大の一方で村井さんは父親と同じスタイルを守り、急成長で調子に乗ることもなく、堅実な経営を続けています。
 アトツギ。スタートアップ。
 どちらで呼ばれても、村井さんには違和感があったそうです。銀行や業界団体が主催するような、いわゆる2世会に行くと、よそいき顔でおとなしくしている2世や3世ばかり。一方で、スタートアップの集まりに行くと、株式公開IPOだ、売却バイアウトだとギラギラした雰囲気で、それにもなんだかなじめない。そこで村井さんは、自身のスタイルを「ベンチャー型事業承継」と名付けることにしたのです。
 村井さんからこの言葉を聞いた瞬間、わたしは「これだ!」と思いました。スタートアップとアトツギとの中間領域。これこそが、日本の経済を活性化させる概念ではないか。 
「この概念を新しいジャンルとして定着させよう!」
 そう思い立ったのが2015年。あとは、行動あるのみです。編集長をしていたビジネス情報誌で特集を組んでみたり、政策化を求めて霞が関を行脚したりと、猛烈に動き始めました。
 そして2017年。近畿経済産業局が全国で初めて、中小企業の若手後継者を対象とした「ベンチャー型事業承継」支援を発表しました。ベンチャー型事業承継の定義は、「若手後継者が、世代交代を機に、先代から受け継ぐ有形・無形の経営資源をベースにリスクや障壁に果敢に立ち向かいながら、新規事業、業態転換、新市場参入など新たな領域に挑戦することで永続的な経営をめざし、社会に新たな価値を生み出すこと」。国のベンチャー政策といえばスタートアップ(起業家)を支援するというのが一般的だったところへ、中小零細企業の若手アトツギこそベンチャーの卵だと国が発表したことで、大きな話題となりました。舞台裏にいたひとりとして、それまでの紆余曲折を思い出し、感慨もひとしおでした。
 これで、世の中のアトツギたちが「引き継ぐ」ことの意味や価値を深く感じてくれれば、より力強いパワーが生まれるはずです。

「継続は力なり」という言葉は、会社にもあてはまります。
 逆に言えば、会社が存続するためには、商品・サービスの力やビジネスモデルに優れているだけでなく、時代に適応して自身を変え、顧客に愛され続ける必要があります。また、社会的な存在としてのモラルや、働きやすい労働環境なども求められるでしょう。テクノロジーが進化し、業種や業態の線引きがとっくに崩壊している時代に会社を存続させていくというのは、並大抵のことではありません。
 この本に登場する経営者たちは、すべて誰かが始めた会社をなりゆきで「継いだひと」です。しかも、うまくいかなくなった会社を素人同然の状態で継ぎ、大胆に生まれ変わらせて、長寿企業としてこのさき100年、1000年続いていくような礎をつくっているひと。失敗しても挑戦を諦めず、自分の頭で考えることをやめずに生きているひとたちです。
 倒産危機、全員解雇、顧客ゼロ……絶望しかないようなピンチをどうやって凌いだか。どん底で何を考えたか。どうやって新規事業を始め、新市場に参入し、あるいは業態転換を果たしたか――。自身が味わった地獄を、そして周囲が驚くような未来を切り拓いた舞台裏のすべてを、彼らは赤裸々に語ってくれています。ないもの尽くしの逆境から見事に再建を果たしたという意味でも、この本は「裸の経営再建」戦記といえるでしょう。
 彼らの決断は、時に非合理的です。いや、合理的なやりかたでは、再建を果たし、今の会社として生き残ることは不可能だったというべきかもしれません。
 とはいえ、彼らは決して超人ではありません。さらに言えば、彼らの経験はアトツギに限らず「働くひと」すべてが参考にできるもの。職種や職歴を問わず、経営者でも一般社員でも、もちろん管理職でも、厳しい環境で挑戦を諦めないあなたに語りかけてくるはずです。
 人生と思考の軌跡を本音で語ってくれた彼らの言葉があなたの意識を変え、日本経済に地殻変動が起きる。
 わたしはそう信じて、この本を書きました。

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第4章
人生の幸せと、仕事のモチベーション

 ずっと不思議でした。なぜ、資源もない小さな島国の日本が経済大国になれたのか。ほかの国の方と比べて、日本人がとびぬけて優秀だとは思えません。
 わたしは、日本の競争力の礎は、長寿企業がたくさん存在していることだと考えています。
 長く続く企業の経営者に共通しているのは、規模の拡大や事業の急成長以上に「会社の存続」を最優先に考えている点です。会社が存続するために、社員や取引先を大切にしなければならない。変わり続ける社会で必要とされる会社であり続けるために、自分たちも変化しなければならない。そういったことを、長く続いてきた会社の歴史から学んでいるのです。
 世の中の老舗のイメージは保守的で権威的なものかもしれませんが、実際は逆です。遊び心がある商品や新規事業を開発したり、おおらかな社風が根付いていたりと、長寿企業のほうがイノベーティブかもしれません。
 日本経済大学の後藤俊夫先生の調査によれば、200年続く企業の数は日本が断トツで1位です。

 後藤先生によると、諸外国に比べ戦争が比較的少なかったことや、家督や墓を守るという意識が強いこと、農耕民族で土地に根差して生きてきたことによる影響などが理由として考えられるそうですが、いずれにせよ、世界で会社が最も長く続く国であることは、日本の顕著な特徴のひとつといえるでしょう。
 この事実を知った時、これまでに取材してきた社長たちが異口同音に語っていた「引き継いだ会社を自分の代で潰すわけにはいかない」というフレーズがよみがえりました。
 現代では中小企業の後継者不在問題が大きな課題となっています。世界一の長寿企業大国は、近い将来、過去の伝説となってしまいかねない状況です。しかし、厳しい条件下でも家業を生まれ変わらせ存続させようと孤軍奮闘しているアトツギたちが今もいることも確かです。
 彼らはなぜ家業を継ぐのか。彼らはなぜ挑戦をするのか。彼らの内発的な動機を周囲が理解し、彼らの挑戦を応援する環境づくりが求められています。

 アトツギ最大の経営課題は「ヒト」

 わたしが主宰する学びのプラットフォーム「アトツギファースト」には、新規事業開発や業務改善を目的に若い世代の経営者が集まっています。彼らが最も悩んでいるのは「ヒト」の問題――つまり組織づくり、チームビルディングです。
 ともに働くメンバーを一人ひとり自らが選んで船に乗せていくスタートアップと違い、親の時代からの社員がすでに船には乗っていて、そこに自らが新しい船長として乗り込むのがアトツギです。
 多くの場合、これまでの船長(先代)もまだ船を降りずに、現場を取り仕切っている。新規事業のために人材を新たに採用できるような体力がある会社は少ないので、昔からいる船員(社員)のモチベーションをいかにあげていくかがカギですが、これが本当に難しい。年上の社員ばかりで、危機感を共有してくれるどころか、「ただでさえ毎日の仕事が忙しいのに」と、業務改善や新規事業を始める意味すら理解してもらえない。新規事業で孤軍奮闘していても「遊んでいるみたいなもの」と思われる。このプロセスで心が折れる人は少なくありません。

 本章では、わたしが全国のアトツギにお手本にしてほしいと思っている経営者を紹介します。木村石鹸工業の4代目社長、木村祥一郎さんです。
 木村石鹸工業は「洗う」を徹底的に究めるユニークな会社です。
 1924年の創業以来、職人が五感をフル動員する「釜焚き製法」で石鹸を丁寧に手づくりし続けてきました。
 従業員は現在58名。「スニーカー専用洗剤」「製氷機専用洗剤」「白Tシャツ専用洗剤」などの用途別洗剤だけでなく、そもそも石鹸で落とすべきカビが生えないようにする「アロマで防カビ」などの画期的な自社製品を次々に開発・発売。新しい製品が出るたびに、「ニッチ過ぎる! でもこういうのが欲しかった!」とSNSを中心に話題になり、熱狂的なファンが増え続けています。

 「リベラルアーツ経営」と名付けた経営哲学

 木村さんが4代目社長として家業に戻ったのは2013年。以来、画期的な自社製品を次々と送り出しているのですが、木村石鹸工業が注目されているのは、「非効率」で「古臭い」と同業他社はやらなくなった釜焚き製法を前面に押し出して、会社のリブランディングを成し遂げたこと。その根底には、利益の向上や規模の拡大といった目に見える成果ではなく、「社員が幸せに働ける会社」を目標にした、ボトムアップの組織づくりがあります。
「社員が幸せになることに手を抜かず集中したら、結果的に会社の業績が回復したんです」
 木村さんは、なんでもないことのように、そう語ります。
 40代で家業に入った木村さんは石鹸に関する知識も技術も持ち合わせていませんでした。何か新しいことをやってやるぜというようなギラギラしたところもなく、決して強いリーダーというわけでもありません。ただ、自分自身がスタートアップで取り組んできた組織づくりに力を注ぐことに集中します。その際に意識したのがリベラルアーツの領域でした。リベラルアーツとは、現代では一般教養や人文科学と訳されることが多いのですが、もともとは古代ギリシア・ローマ時代に誕生した「自由になるための学び」という概念です。
「リベラルアーツという言葉の定義は難しいけれど、人がより良く生きるために必要な考え方や知識だと僕はとらえています」
 
 わたしが、木村さんと初めてお会いしたのは、2015年。現在の主力製品となった、木村石鹸初の自社ブランド「SOMALI(そまり)」の発売を数か月後に控えたタイミングでした。
 八尾の工場団地の一角にある古い建物に到着すると、2階にある会議室に案内されました。階段を昇り、靴を脱いでスリッパに履き替えます。顔を上げると、壁には「履物は揃える」とか「きちんと挨拶をしよう」とか、随所に標語のようなものが貼られているのが印象的でした。
 そして、社員の皆さんがとても楽しそう。誤解を恐れずにいえば、なんだか大学の文化祭かサークルのようなノリ。楽しいのはいいことです。でも楽しいだけでは会社は成り立たないんじゃないの? ところが、木村さんが家業に戻ってから売上は倍増しています。いったい、どうしてなのでしょう? 木村さんの話のなかに、その答えを探してみましょう。

【CASE 4】木村石鹸工業株式会社 代表取締役社長  木村祥一郎
        究極に無難な石鹸で世界を変える
        「ずぶの素人」だからできる最強のチームビルディング

 自由に強くあこがれた子ども時代

 小学生の頃の作文で「将来なりたいもの」として、父親と一緒に町を歩いていた時に見かけたホームレスについて書いたという木村さん。自由に生きられてうらやましいと思ったのだという。作文を読んだ担任の先生からは相当激しく怒られたが、ふざけたわけではなく「本心だった」。たった10歳くらいの子どもが「自由」のためなら家を捨てたいと本気で願うほど、家業の呪縛、4代目としての未来への束縛に苦しんでいた。
 物心がついた時には当たり前のように「家を継げ」と聞かされていた。長男だから当然だという親に対して、なぜ自分じゃない人が勝手に自分の人生を決めるんだろうという疑問と反発をずっと抱えていた。
「なんでこういう家に生まれてしまったんだろう」
 当時の木村少年は、父が社長であることに対してネガティブな気持ちしか持てなかった。
 父親は何でも自前でやるタイプ。木村さんが小学1年生の時に、当時1階だけだった工場を3階まで増設した際には、鉄板を買ってきてネジをつくり、溶接から配管までを家族総出でやりきった。家族で過ごす時間がたくさんあったことには感謝しつつも、自分の人生を家業に重ねることはできなかった。
「『継げ』と言われて育ったけど、家業を継ぐ気は一切なかったんです。レールを敷かれていることに反発もあった。それに、今は大好きですけど、当時は八尾という町も好きじゃなかった。道を歩けば金属を削った端材がそこら中に落ちているような工場街。文化みたいなものが感じられなくて、とにかく大学からは家を出ようと思っていたんです」
 高校卒業後、計画通りに京都にある同志社大学に入学し、家を出た。アートや文学が好きだったので、文学部で芸術学や美術学を専攻した。映画や音楽に没頭する毎日。「モラトリアム学生の典型」で、仕事をすることに対しては非常にネガティブだった。映画サークルの二つ上の先輩と一緒に「自分たちで撮った映画をインターネットで流せたらいいよね」くらいのノリで起業する流れになった時も、ビジネスを始めるという感覚ではなかったという。当時はインターネットビジネスの黎明期。コンピュータを持っている学生はまだまだ少なかった頃で、大学でコンピュータをいじっている木村さんを見た先輩から「コンピュータ得意なんやろ?」と誘われたのが始まりだった。
 こうして大学在学中の1995年に起業したのが、日本では初めての本格的な商業検索サーチエンジンを開発した「ジャパンサーチエンジン」(現株式会社イー・エージェンシー)だ。マイクロソフトの「ウインドウズ95」が発売され、米国で Yahoo! が創業した年。木村さんの会社の初めての売上は、ある映画イベントのパンフレットをウェブサイトに掲載する仕事だった。
 サークルのノリの会社で10数人の学生が集まっていろいろなことを手掛けたが、卒業後はみんな就職していった。創業メンバーの木村さんと二つ上の甲斐まささん(現株式会社イー・エージェンシー社長)だけは就職を選ばずに会社を続けることに決めた。
「食べるのも精一杯だったけど、夢中で楽しかった」
 検索エンジンを開発している会社が他になかったということもあって、木村さんたちの会社はどんどん成長していった。驚くような大企業から直接仕事を受けることもあった。
 ITベンチャーブームに乗り、会社はデータ解析やデジタルマーケティングの領域で急成長。甲斐さんが社長、木村さんは商品開発やマーケティング担当の副社長として、米国企業との業務提携の話をまとめにニューヨークへ飛んだり、年に何度も新サービスを公開したりする忙しい日々を送った。勃興期のインターネット業界にはベンチャー志向の優秀な人材が次々と集まり、国内外に150人の社員を抱えるまでになった。

 「何をするかより誰とするか」

 どんなに大きな組織になっても、いわゆる「普通の会社っぽく」はしたくなかった。というのも、会社というのは何かを成し遂げるためにあるのではなく、一緒にいて楽しいと思える人たちとの「場所」でありたいと考えていたからだ。お金がなくて生きていくのが精一杯で、会社の未来に関する構想さえ描けない時も「その感覚を忘れずにやっていきたいよね」と、甲斐さんと二人で熱く話し合っていた。
 だが、創業から10年を超えるようになって、取引先から「君らは大人の会社じゃない、大人になれ、このままでは会社としてダメだ」と言われることが増えた。学生起業だったので、当然、他の会社で働いた経験はない。返す言葉がなかった。会社の成長につれて他社でキャリアを積んだ人を中途採用で採ることも増えていった。彼らから会社のありかたを批判されることもあって、「面白かったらいいやんか」というサークルのノリでやってきたことに迷いを覚え始めた。
 株式上場を考えたこともあったが、うまくいかなかった。「とにかく成長だ!」と社員を300人にしようなんていう目標を設定した時期もあり、1年で80人を採用したりもした。成長を最重要視すると、規模の拡大、売上拡大が目的になる。採用基準が企業の価値観に合うかどうかというカルチャーフィットよりも能力を優先するようになって、次第に社内の雰囲気がおかしくなっていった。会社のカルチャーが好きだからという理由で長年一緒に働いてくれていた仲間が次々に辞めていった。
「やっぱり自分たちが組織というものを知らないからだ」と思わざるを得なかった。外部からアドバイザーを迎えて、いろんな制度やルールを導入しての試行錯誤が始まった。

 2度の事業承継に失敗!

 木村さんが共同経営者の一人として東京で「経営」に没頭している間ずっと、木村石鹸3代目社長である父親は、息子が実家に戻り家業を継いでくれる日を辛抱強く待っていた。
 1985年、当時会長だった祖父が突然病気になり、その看病と経営の二足のわらじで細やかに手が回らなくなって事業で赤字を出してしまった。100年近い歴史で初めてのことだった。その時父親は、仕事は社員に任せ、自分は父の看病に力を入れようと決断した。当時の社員たちに経緯や想いを包み隠さず話したところ、反発されるどころか、全員が一丸となって新製品開発や販路拡大に奔走した。父親はあまり会社にいられなくなったが、業績はすぐに回復したという。
 その後、父親は当時の工場長に社長の座を譲る。2001年のことだ。自身の健康状態があまり良くなかったが、いつまで経っても「あてにしていた息子は帰ってこない」。そろそろ本気で後継者を作らないとまずいと考え、息子が帰るのを待つことを断念し、いわゆる社員承継をしたのだ。
 これが、うまくいかなかった。
 新社長は売上至上主義で、業績はそれなりに上がったが、「失敗したら責任を取らされる」「ミスをしたら怒られる」というムードがまん延し、のびのびと仕事ができないような雰囲気に次第になっていった。当時を知る社員は、「暗黒時代だった」と振り返る。経営方針が売上至上主義に変わってからの7年間で社員はすっかり憔悴し、不平や不満が溢れていた。
「助けてくれ」
 どんどんギスギスしていく会社の状況を見かねた父親が、ある時東京にいる木村さんを訪ねてきて、そう訴えた。
 相談を受けた木村さんは、自分が帰ることは考えられなかったので、組織づくりが得意な知人を経営者候補として紹介した。外資系企業やベンチャーで経験を積んだ人で、中小企業の経営に興味を持っていたからだ。それなのに、残念ながら今度もうまくいかなかった。町工場の木村石鹸に外資やベンチャーの制度やマネジメントスタイルを導入しても、混乱が深まるばかりだったのだ。
 2度の事業承継に失敗して、いよいよ途方に暮れる父親。その姿を目の当たりにして、ついに自らが家業に入るしかないと考えるようになった。とはいえ、東京での仕事を辞めるつもりはなく、共同経営者の甲斐さんに「今の仕事を続けながら、家業も助けてやりたい」と相談をした。
 ところが、甲斐さんからはこう言われた。
「家業をやるのなら、それだけに専念すべきだ」
 家を出て東京のITベンチャーで仕事をしていた息子が、本業の片手間に助けに来たなんていうのは木村石鹸で働いている人たちに対して失礼だ。しかも、そんなスタンスでは苦境に陥っている会社をまとめることはできない、と。
 その言葉に納得してうなずきつつも、この時、木村さんは、正直なところ「なんで自分が戻らなあかんねん」と思っていたという。
(結局、自分が生まれ育った環境、つまりアトツギであることに人生を左右されてしまうのか……)
 とはいえ、もめごと続きの家業をこれ以上放っておくこともできなかった。会社を辞めて実家に戻る決心をした木村さんは、その時、こう考えていた。
「3年くらいで家業を整理して、けりをつけて、また元の仕事に戻ろう」

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 事業の根底にある想い

 2013年、木村さんは家業に入った。
 2度の事業承継に失敗していた当時の木村石鹸の従業員たちは、「都会」から戻ってきたアトツギを「会社のことをいろいろとわかっている身内の後継者がやってきた」と、温かく迎えてくれたという。それほどに、事業承継に失敗していた数年間は「暗黒時代」だったのだ。
 当時の社員は20数名、7億円前後の売上は、主にOEMによるものだった。年によって増減は多少あるものの、売上は、ほぼ横ばい。にもかかわらず納品先の企業からは、毎年値下げを要求される。原料費の高騰という事情もあり、利益を出すのが年々難しくなっていた。帰ってきた木村さんが最初に直面したのは、悪化する一方の厳しい経営状況とともに、「自分は会社のことをまったく知らない」という現実だった。
 子どもの頃から手伝いをさせられていたので、会社(工場)は身近な存在ではあった。だが、石鹸の製造には興味がなかったし、詳しく知りたいと思うこともなかった。木村石鹸の製法の大きな特徴でもある「釜焚き」についても、言葉だけは知っていても意味を知ろうとはしなかった。アトツギであることがとにかくイヤだったので、意識から遠ざけていたということもあったかもしれない。
 戻ってきたからには、そんなことは言っていられない。会社の数字を見る限り、すぐにでも何らかの手を打たなければならない状態なのだ。会社のことを知らないままでは、どんな手を打つべきかなど決められるわけがない。父と、はじめてゆっくりと会社について話をする時間を持った。
 木村石鹸を興した初代の曾祖父は、最初は石鹸ではなく歯ブラシの製造を行っていたが、ある時銭湯で「石鹸は油からできている」ことを教えられて、汚れ(油)を石鹸(油)で落とせることに感動し、石鹸づくりの修業を始めたという。
 創業のきっかけを得たのが銭湯だったからというわけでもないだろうが、初代から数えて3代目となる父親は石鹸の製法による業務用浴場洗浄剤の開発に取り組んだ。その頃、銭湯の床を洗う洗剤は強い酸性のものが主流で、作業する人への負担が大きかった。それを石鹸で代用できないかと考えたわけだ。だが、風呂床の汚れのほとんどはアルカリ性。それを同じくアルカリ性の石鹸で落とすというのは「常識外」で不可能だと思われていた。それでも父親は銭湯に通い詰めて研究を重ね、数年後に商品を完成させた。使う場所にも、人にも優しく、さらに安全性が高いということで、この洗浄剤は一気に普及し、木村石鹸の名を高めたという。会社の事業の根底に、使う人や環境に「安心」や「優しさ」を提供するという想いがあることを、木村さんはこの時初めて知った。
「釜焚き」製法についても、同様だ。植物性油にアルカリ剤を混ぜ、熱を加えて反応を促すこの石鹸製造方法はとにかく経験や職人の感覚が求められる。天然の油はロットや季節によっても微妙な違いがあり、職人は毎回、湿度や温度、油の状態などを加味して微妙な調整を繰り返す。石鹸が焚きあがるまで毎日約7時間、熱い釜に職人はつきっきり。手間がかかるので、今ではやっているところは少ない。それなのに、木村石鹸が釜焚きにこだわってきたのは「単に親父が釜焚きを好きだったからです。一度止めてしまったらまたやろうと思っても復活させるのは難しい。親父はそう考えていたので、社内的には釜焚きは止めたほうがいいんじゃないかという声もあったのですが、頑として首を縦に振らなかった」と木村さんは明かす。
「石鹸」は、洗浄剤の中ではとても重要な原料の一つだ。しかも、他の原料に較べて歴史が長く、その歴史の長さが安全性の保証にもなっている。木村さんの言葉を借りれば、石鹸には「ある種、究極の無難さみたいなものがある」のだ。その原料を自社で製造し、性能を調整できる木村石鹸は、他の会社が「石鹸」でやらないことをできる。これは大きなアドバンテージだった。
 ところが、父親をはじめ、木村石鹸の社員たちは誰も、そのことを何か特別なことだとは考えていなかった。石鹸というのは、人の生活の中であまりにも当たり前のようにふんだんに使われる商品なので、いちいち立ち止まって「石鹸とはどうあるべきか」なんて考える人は少ない。消費者が石鹸について知っていること(あるいは、知りたいという気持ち)がそもそも少ないことに木村さんは気づいた。
 そして、つくっている側も、そのことを当然だと思っている。石鹸づくりに込められた思いを伝えようなんて、これまで木村石鹸の誰も考えなかったのだ。これほど丁寧に、いわば哲学を持ってやってきたというのに。
「これを、どうにかして伝えたい」
 戻ってきて初めて、やりたいことが見つかった。

 「メーカーは消費者に誠実でなければならない」

 前職のITベンチャーでクライアント企業のマーケティングにかかわる仕事をしていたことが役に立った。ある商品を好きになりファンになるためにはストーリーが必要だ。モノがあふれている現代では、単純にスペックの優位性だけではさほど興味を持ってはもらえない。木村石鹸が長く続けてきた釜焚き製法を、ストーリーとして発信しよう。まずはそう決めた。「外の人の目」を持ったアトツギが家業の価値を再発見するところから、木村石鹸の初めての自社ブランド「SOMALI」プロジェクトは始まった。
 石鹸の歴史は、非常に長い。紀元前からあったようで、その安全性は長い歴史によって証明されている。最近では石鹸に代わる成分が次々と開発され、どんどん進化しているが、それら新しい成分の歴史はせいぜい100年程度。その使用によるアレルギーや遺伝的な影響については、今の時点ではまだ誰にもわからない。
「メーカーは消費者に誠実でなければならない」というのが、木村石鹸の終始一貫した態度だ。世に出回っている商品には、化学成分や添加物の不使用をうたう一方で、それらの効能を補うために別の、より刺激が強い成分を使っているケースもある。消費者が知らないのをいいことにそういう不誠実な商売が横行している現状に何か一石を投じたくて、木村石鹸では、本来メーカーとしては「守秘」対象である作業工程や原料をほぼすべて公表している。
 素材に自信があるからこそたどりついたのが「素材のかたまり」という意味を込めて命名された「SOMALI」だ。純石鹸(100%無添加で、脂肪酸ナトリウムと脂肪酸カリウムが98%以上の石鹸)と天然素材のみで、多様なラインナップ商品のすべてがつくられている。ハンドソープ、ボディソープ、台所用石鹸、バスクリーナー、トイレクリーナー、洗濯用液体石鹸、衣料用のリンス剤など多岐にわたって展開されているが、いずれも油を焚く伝統的な製法で石鹸をつくり、洗浄する場所に合わせて脂肪酸の配合率などを変えて、異なった商品に仕上げている。
「SOMALI」の開発は、木村さんを含めた3人だけでスタートした。つくろうとしている商品を扱える既存の販路はなかったため、ネットでの直販をメインにしようと考えた。木村さん以外の二人のメンバーはネット担当の20代の女性、そして、製造業務担当の男性だ。商品開発のことが当時はまるでわからなかった木村さんに代わり、彼がプロジェクトを実質的に回していくという重責を担ってくれた。
「SOMALI」シリーズの最初の商品には、石鹸を選んだ。それは、自社ブランド「SOMALI」を通して木村石鹸という会社をブランディングするという、帰ってきたアトツギである木村さんの決意の表明だった。だから、この石鹸の売上で大きな数字のインパクトを出すということはあまり意識していなかった。
「そんなちっぽけな売上のために、自社ブランドなんか意味があるの?」という批判的な意見も、社内には当然あった。それに対して、自社ブランドはOEMに比べて利益率が高いこと、また、自社ブランドによって会社のプレゼンスが上がればOEM事業の仕事のバリエーションも増やせることなどを丁寧に何度でも説明した。「とにかく、やってみようよ」と。
 だが、この時、表面的には失敗を恐れないチャレンジだと見せながらも、絶対に失敗するわけにはいかない切実な理由が実はあった。木村さんが戻る前に、かなり大きな資金を投入して始めていた新規事業が大失敗し、大変な量の在庫を抱えてしまっていたのだ。「SOMALI」の開発は、この失敗の処理と同時進行で進めざるを得ず、「かなりキツかった」と木村さんは振り返る。社内には、「今度も失敗するんちゃうか」という不穏な空気が漂っていた。
 もしも「SOMALI」が失敗したら、新しいことに挑戦するという気持ちを社員が2度と持てないのではないか、という深刻な懸念があった。
「失敗するわけにはいかない」
 そのプレッシャーを木村さんは一人でひっそりと抱えていた。

 自分がやり始めたことを最後までやり切るのが責任

 2015年、「SOMALI」リリース。
 販路の開拓先として、大手メーカーが敬遠する小規模の雑貨屋やインテリアショップを狙おうと決めた。デザイン性を重視した商品を扱う展示会「DESIGN TOKYO」に出品したところ、多くのバイヤーから高評価を受けることができた。「SOMALI」ブランドは、順調なスタートを切った。
 そして、1年後。会社の変化が肌感覚で感じられるようになった。まず、開発に対する意欲が会社全体で盛り上がっていった。木村さんが戻ってきた2013年には年間10件程度だった開発案件数が、いつのまにか50件を超えるようになっていた。これは、自社で開発した商品が街中で売られるようになったことが大きかったようだ。センスの良い雑貨屋などで売られているのを見つけて、社員が家族にドヤ顔で自慢しているといったエピソードも漏れ聞こえてきた。営業担当と開発担当の関係が密になり、活発なコミュニケーションのおかげもあって、社内の人間関係がどんどん深まっていった。
 この変化は、木村さんにとって、本当にうれしいものだった。というのも、戻ってきたころのどんよりした社内の雰囲気が頭を離れなかったからだ。社員一人ひとりに意欲がまったく感じられない。笑顔もほとんど見られない。なんだか会社全体がピリピリしている。古参の社員の一人に「なんでこんなことになってるの」と聞いた時に返ってきた答えは今も忘れられない。
「うちの会社は、言ったもん負けなんですよ」
 なにかチャレンジしたいことがあっても、その結果失敗したら、言いだしたものが責任をとらされる。だから、営業が出す開発依頼書を開発部門は受けたくない。何かとケチをつけて差し戻す。営業部門も、責任が降りかかってくることを恐れて強気に出ることができない。20数人(当時)の会社なのに、稟議書の決裁のハンコの欄には五つ以上のハンコが並んでいた。誰もが自分が責任をとることから逃げていた。
「そうか、失敗することよりも失敗の責任をとることが怖いのか……」
 そう気づいた時、責任の定義を変えることを決めた。
 自分が決めたことでトラブルになったり失敗したりした時に、その結果について罰を受けることは責任ではない。
「自分がやり始めたことを最後までやり切ること、それが木村石鹸における責任だ」
 木村さんは、社員みんなにそう伝えた。同時に、稟議書も撤廃。開発依頼書も廃止した。
 今、木村石鹸では、つくりたい商品のアイデアがある人は、部署や年次に関係なく、チャレンジすることができる。自分だけではつくれないと思ったら、開発担当者を自分自身で口説けばいい。売ることからの逆算で製造方法や成分を決めるのではなく、まず、自分が本当にいいと思えるものをつくり、その上で、それをどう売るかを考える。「SOMALI」の成功がきっかけとなり、そんなスタイルが次第に浸透していった。

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 チャレンジの過程で思わぬ副産物が生まれる

 2016年、木村さんが4代目の社長に就任。その後も、開発着手件数は常時50件くらいで推移している。この数字は、社員数40名程度の規模の町工場としてはかなり多い方だろう。
 そして、この開発案件の内容に、社長である木村さんは「ほとんどノータッチです」という。詳しいことは知らないし、打ち合わせに顔を出すこともない。途中で社長が口を出してもいいことなんてないですよ、と笑う。
「なんか楽しそうにやっているなあって眺めています」
 だからなのか、時折、「誰が使うねん!」という、とんでもなくニッチな製品が出てきたりもしているという。
 社員それぞれがつくりたいものをつくる。当然、商品化には至らないケースも多い。だが、それは失敗ではない。その意識をみんなが共有して「目指しているもの」に向かってとことん究めようとしているということが重要なのだ。チャレンジの過程で思わぬ副産物が生まれることもある。
 たとえば、結露防止剤。木村石鹸でも長年の課題として開発を続けているが、まだまだ完成はできていない。けれども、チャレンジをくり返す中で蓄積した親水と撥水の技術を組み合わせて、速乾性の浴槽洗剤や鏡の曇り止めが生まれた。これらは、どちらもヒット商品となっている。
 小さな会社なので、基礎研究部門を独立して持つことはできないが、開発に着手した案件がたくさんあるおかげで、リアルなノウハウや知識がどんどん蓄積されている。営業担当者の「引き出し」も増えるので、OEMの提案の幅も広がっている。

 八尾の町工場に、京都大学の院卒博士が入社!

 採用の場面でも大きな変化が現れた。2019年には京都大学の大学院で博士号を取った学生が木村石鹸に入社した。学歴から考えれば、他にも多くの選択肢があったに違いない。それなのに八尾の町工場に就職することを決めた理由は何だったのか。木村さんの問いに、彼はこう答えたという。
「ここは、自由だから」
 木村石鹸の採用基準は、ただひとつ。「いい人」であること、だ。
 そう考えるようになったのは、過去に手痛い失敗をしたことが大きい。ある年、必要としている分野で高い能力を持っている人を採用できた。ところが、この人は、自己承認欲求がものすごく強かった。結局、その人ひとりに社内全体が振り回されることになった。
 誰彼となくつかまえては「自分は評価されてない」という愚痴をこぼす。他の社員のスケジュール表を見て、働きかたに文句をつける。挙句の果ては、社員に関するうわさをあることないこと触れ回ったりしだした。仕事の能力はすごく優秀だったが、周りの人の時間を奪い、疲弊させ、組織をギクシャクさせてしまう人だった。
 小さな会社ゆえに、たった一人のために、組織が混乱してしまうことを身に染みて実感した。前職のITベンチャー時代、会社が急成長するタイミングで価値観の共有よりも能力を優先してしまったことがあり、会社が大混乱に陥ったことも思い出した。2度と同じ轍は踏みたくない。「いい人かどうか」「いい人柄かどうか」を能力よりも技術よりも、最優先することを決めた。
 木村石鹸では、採用試験の際の一次面接を基本的に社長の木村さんが担当している。「うちはこういう会社です」と、ネガティブなことも隠さずに伝えている。小さな会社ゆえに、社内環境の整備や教育制度など、まだまだ十分にできていないことも多い。基本的に残業をさせないというのも、嬉しいメリットだと感じる人もいる一方で、もっと仕事がしたいという人は別の感じ方をするかもしれない。様々なデメリットを知ったうえで、それでも入社を希望する人だけが残るので、入社してからのミスマッチはほとんどないという。
「うちの社員はみんな『いい人』なんです」
 木村さんはにこやかにそう語る。社員同士が互いに好感を持ち合っている。ビジネスの場においても、仲間を好きになれるかどうかはとても大事なことだ。相手への好意があるからこそ自然に助け合ったり、許し合ったりできる。
「うちの会社にはこれからも危機が訪れることでしょう。その時最終的に力になるのは、働いている人同士の関係、働いている人と会社の関係だと思います」

 会社の「文化」は無上の財産

 突然戻ってきたアトツギという立場ながら、決裁処理を撤廃し、社員に好きなようにものづくりをやってもらう方針に切り替えられたのは、社員を心の底から信頼できたからだ。社員には、とにかく真面目な人が多い。生真面目というくらいに本当に真面目な性格の人ばかり。こういう社員、社風を時間と手間をかけて丁寧に育ててきたのが先代である父親だということに、木村さんはある時気づいた。
「文化」づくりや社内の雰囲気づくりというのは一朝一夕にできるものではない。前職時代も経営陣の一人としてかなりの労力を投じて取り組んだが、社員の意識を変えるのは非常に難しかったという経験がある。それなのに、木村石鹸には確かな「文化」があった。
「時間を守る」「嘘をつかない」というような、人間として大切にしたい基本的なこと。親孝行をする、先祖を大事にするという、過去の先人たちへの感謝。また、関わる人すべてに感謝の気持ちを持つというようなことの価値を、父親はじっくりと時間をかけて社内に根付かせてきたのだ。
 たとえば、木村石鹸では、毎年4月を親孝行強化月間と称して、親孝行や家族のために使う資金として一律1万円を全社員に支給している。これは先代の時代に始まり、いまや恒例行事となっている。「社員を幸せにしたいという想いが、父親は、尋常じゃないんです」。経営から退いた今も「社員を幸せにしたってほしいねん」と繰り返すという。
「親父はまさに昭和の父親です」
 理不尽なこと、不条理なことにはすぐに怒る。でも、すぐに忘れる。切り替えが早い。そして、誰よりも社員や社員の家族のことを大事に考えている。残業や休日出勤なんてさせようものなら大変だ。「社員の生活を犠牲にするな、家族を犠牲にするな」と詰めよってくる。社員が幸せになるかどうかが常に判断の最上位にある。業績がよくなかった時期に、社員の昇給について相談した際にも「1円でもいいから上げたってくれ、かわいそうやんか」と懇願する。経営者として社員を守るという範疇を超えて、父親にとって社員は本物の家族みたいな存在であることを痛感した。
 お互いを信頼する関係性の素晴らしさに気づけたのは、いったん外に出て、揉まれたからこそかもしれない。社員も文化も含めた木村石鹸という会社を守っていきたい。子供のころに感じていた父親への反発が、いつしか尊敬に変わっていった。
 今も木村石鹸では、社員の幸せは会社の論理よりも上位に置かれている。
 たとえば「子どもの具合が悪いので、今日は休みます」という社員に対して、だれも違和感を持たない。それどころか、家庭の事情を押して無理して出勤しようものなら「もっと家族を大切にしろ!」と言われてしまう文化が根付いている。
 社員間だけの話ではない。仕入先に対しても、「あなたの幸せの方が大事」という想いが同じように働く。だから、値引き交渉はしない。相見積もりも取らない。支払い条件はきっちりと守る。どんな人も、自分が組織の一部品ではないこと、また、会社の論理に個人の幸せが埋没しないことを体験することで、自発的に助け合いが生まれ、会社に対する愛情やコミットが育っていく。

 「しんどい時は一回笑え」

 今のどっしりとした落ち着きと穏やかな優しさを併せ持つ木村さんからは想像しにくいが、子どもの頃は、メソメソと泣いたり、いつまでもうじうじと引きずっていたりするようなタイプだったという。
 そんな時、父親は「笑え! 今すぐ笑え!」と怒った。「今から10秒数える。10秒で笑えへんかったらシバく!」と。子どもながらに辛いことがあってへこんでいるのに、「笑え」と強要される。うっとうしいなぁと思いながらもゲンコツが飛んでくるのは避けたい。仕方なく「ハハハ」と小さく笑うと、「もっと笑え、もっと腹から笑わんかい!」とさらに追い討ちをかけてくる。だんだんやけくそになった木村少年が「ワハハハハハ」と声に出して笑う。そうすると父親も一緒になって「ワハハハハハハハハ」と笑い出す。
「なんだかどうでもいいやという気持ちになって、そのうち本気で笑ってました」
 無理矢理笑わされているのに、最後は心から笑っていた。面白いから笑うのは当たり前。でも笑うから楽しくなるというのも真理だということを子ども心にも感じたという。気がつけば、いつの間にか切り替えの早い人間になっていた。嫌なことや腹が立つことがあっても、一晩寝て起きたら気分が一新している。

 そのような体験があるので、経営者となった今、なるべく笑っていようと木村さんは決めている。経営者としての日々の中では、心配事は際限なく生じる。新工場の建設に際してはかなりの金額の個人保証もしているし、進出を決めた中国市場の動静からも目が離せない。それでも社員の前では笑っていたい。あんなにのんきで大丈夫なのか、と言われるくらいがちょうどいいのではないかと考えている。
「こういう社長がいてもいいんじゃないでしょうか」
 アトツギというのは、たまたま親が商売をしている家に“生まれちゃった”人だ。その多くは、リーダー気質ではないのに経営者にならざるを得ないというプレッシャーを抱えている。だけど、強さだけがリーダーの条件ではない。いつも笑いに満ち溢れていて、社員が心から楽しいと思える会社、好きだと思える会社をつくることで、結果的に家業を新しいステージに導いた木村さんの在り方がそれを証明している。
「何をつくるかということよりも、会社としての『状態』を大事にしたい。木村石鹸で働いている人がモチベーション高く働くことができている状態。夢や未来を語っている状態。社員が幸せな状態で、いかに長く会社をつづけることができるか。それをいつも考えています」

「家族を愛し仲間を愛し豊かな心を創ろう」
 これは木村石鹸が掲げる社訓の一つです。本気で社員を幸せにするということに取り組んだら、会社が復活したという事例は多くのアトツギたちを勇気づけるのではないでしょうか。
「拡大」を目指す経営者はたくさんいます。もっと会社を大きくしたい。もっと売上を増やしたい。もっと、もっと、もっと……。けれども、拡大や成長や効率を極めた先には一体、何があるんだろう。そこで人は、幸せなのだろうか。木村さんと話しながら、そんなことをふと思いました。
 規模の大きさより、しなやかで強くあること。みんなが幸せであり続けるために、変化を恐れないこと。木村石鹸工業という会社を一言でいうと、まさに「いい会社」。社員、社員の家族、取引先、消費者、仕入先、そして地域。大げさではなく関わる全ての人にとってのいい会社です。こんな会社が100社、1000社と誕生したら、ユニコーン企業が1社できるより、日本はよっぽど豊かになる。心からそう思います。

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