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町田そのこ『あなたはここにいなくとも』

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おつやのよる

 えー、うちの『ごちそう』って何かって?
 わたしの家は断然、すき焼き! 家族みんな大好きやもん。わたしは皮が特に好き。くたくたに煮えた白菜を皮で巻いて食べるのが最高と思……え? 何? 皮は皮やろ。とり皮。うちね、わたしが好きやけん鶏皮だけ買い足すと……え。何で笑うん。牛? いやそれは東京の話やろ。違うと? そりゃ、学校の給食もそうかもしれんけど、でも『普通』は鶏肉やろ? え、違う? みんな何で笑うん。失礼やない? ねえ、失礼やって!
 小学五年生のわたしが、顔を真っ赤にして叫んでいる夢を見た。あれは、昼休みのくだらないやりとりでのことだった。
『みんなの家のごちそうは何?』
 それぞれがビーフシチューやお寿司、豚の角煮などを挙げる中でのすき焼きは、決して悪いメニューではなかったはずだ。けれど、鶏肉を使うと言った上に『鶏皮』が好きとドヤ顔で言ってしまったがゆえに、めちゃくちゃに笑われた。そして小学生特有の残酷さで、わたしは卒業まで『トリカワ』という不名誉なあだ名で呼ばれたのだった。
「何で今頃、こんな夢を見るかな……」
 天井を眺めながら、苦く笑う。くだらない記憶が蘇ったものだ。二十七になったいまなら鼻で笑い飛ばせることだけれど、あの当時のわたしには天地がひっくり返るほどの事件だった。大好きな料理が正しくないと笑われ、しかも初恋のひとだったふくもとくんに『貧乏くせえ』と言われて、どうして平気でいられるだろう。明日から学校に行けない、と泣きながら帰ったのを覚えている。結局、福元くんはわたしのことを最後まで『トリカワ』と呼んで、そのしつこさに恋心は消え、逆に憎しみに変わったんだったっけ。
 そしてあの事件は、わたしに大きなトラウマを植え付けた。あれ以来わたしは、我が家の常識が世間の常識と違うのではと、びくびくするようになってしまった。世間との『ズレ』を見つけては絶望し、ひとり泣きむせんだ。他の家に生まれていたらきっとこんな思いはしなくてすんだのに、と。
 よそはよそ、うちはうち。そんな言葉を何度となく聞かされて育ったし、それは正しいと分かっているけれど、トラウマは長くわたしを苦しませた……って、たかが夢のことで何をしんみりしちゃってるんだ。
「ああ、そうか」
 ふと気付いて体を起こし、ベッド脇のチェストに置いていた葉書を手に取る。きっと、昨日これが届いたから、古い記憶が表に現れたのだ。
 絵手紙用の和紙葉書で、表書きには達筆な字でわたしの名前が書かれている。裏返すと手描きの水彩画が目に飛び込んでくる。わたしの地元である港の風景だ。空と海、質の違ううつくしい青を、関門橋が分けている。透明感のある空の部分に、やはり綺麗な字で『あなたのしあわせな顔を見せてちょうだい』とある。送り主の名前は『いけがみはる』。わたしの祖母の名だ。
「こんなので、里心が湧くと思うなよ」
 小さく呟いてみるも、いまごろの海は綺麗だろうなあと思う。コバルトブルーの水面を渡る、やわらかな潮風。この時期だとあじが美味しいはずだ。しかし祖母はいつも、やたらに酸っぱい南蛮漬けにしてしまうのだ。それも大量に。実家にいた当時は嫌で仕方なかったけれど、いまは少しだけ食べたい気がする……ってダメだダメだ。思い出すな。
 祖母は今年で九十四になるが、スマートフォンやSNSをも使いこなす。頭も体もしっかりしていて、趣味は水彩画とフラダンス。そんなひとがメールではなくわざわざ手紙という形をとったのは、紙の質感や重みがどれだけ心に残るか分かってのことだろう。すぐにデリートしてしまえるメールにはない存在感を、あのひとはよく知っているのだ。
「くそう。してやったりの顔が目に浮かぶわ」
 お蔭で嫌な思い出まで夢に見たわ。葉書をチェストの上に置いて、ベッドから這い出た。カーテンを開けると、窓の向こうは曇天が広がっていた。九州では梅雨明け宣言がなされたと、昨日のニュースで言っていた。門司港の空は、きっと青く澄んでいるのだろう。帰りたいとも思うけれど、帰れない。祖母はきっと、わたしがひとりではなく恋人を連れて帰って来るように願っていて、わたしはどうしてもそうすることができないから。
 がたんと音がして、驚いて見ればリビングに続くドアの隙間からしょうが顔を覗かせていた。ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「わあ、びっくりした。いつ来たの、章吾」
「さっき。よく寝てたから、起こせへんかった」
 手にしていたマグカップのコーヒーを音を立てて啜り、「きよもコーヒー飲む?」と言う章吾は、わたしが三年ほど付き合っている恋人だ。勤めている広告代理店の、先輩でもある。飲む、と言いながらリビングに行くと、テーブルの上にたくさんの袋が置かれていた。覗きこむと、わたしの好きなものが詰め込まれている。
「おお、わたしのお気に入りの赤ワイン。こっちはチーズとローストビーフ。あ、ギッフェルのパストラミサンドに胡桃ベーグル! 何これ。最高の休日が約束されてるじゃん」
 思わず顔がほころぶ。わたしたちは営業職で、お互いいつも仕事に追われている。隙間を縫うようにして会っていたけれど、ここ二ヶ月はそれもできなくなっていた。章吾がエリア拡大を目的とした新規の支店に異動になり、立ち上がりのための業務に忙殺されていたのだ。ようやくまとまった休みが取れそうだと連絡がきて、ふたり揃って二連休を取った。せっかくだから温泉旅行に行くのもよかったけれど、疲れが残っているであろう章吾に無理をさせたくないので、わたしの部屋で好きなものを食べて飲んで、観たかったゾンビドラマをだらだら観ることにしていた。
「一緒に買い物に出るつもりだったのに、もう行かなくっていいね。章吾、ありがとう」
「これだけ食料があれば、二日間引きこもり可能やで。社用電話も既に電源を切ったった」
 ふはは、と章吾が笑う。清陽も切っておき。ゾンビに喰いつかれる瞬間に着信するほど無粋なもんはないで。わたしはそれに、「もう切ってるし」と親指を立てて返す。この二日間を、わたしがどれだけ楽しみにしていたと思っているのだ。章吾もそうであるといい、と願いながら昨晩必死で部屋を片付けた。
 章吾の持ってきてくれた目の前の品々を見るだけで、にやにやが収まらない。きっと、わたしと同じくらい楽しみに思ってくれていたに違いない。
 章吾がコーヒーの入ったカップを渡してくれ、それを受け取る。飲んでひと息ついたところで、寝室でプライベート用のスマホの着信音がした。カップを片手に寝室に戻り、枕元に転がっていたスマホを取り上げる。表示された名前は、母だった。考えるより先に通話ボタンを押していた。嫌な予感、というものを感じたような気もする。「もしもし」と言うより早く、静かな母の声がした。
『清陽。おばあちゃんが、亡くなったよ』
 体温なのだろうか、何かがひゅっと落ちるような感覚があった。視界が一瞬、色彩を無くす。まだ夢の中だったか。だって、そんなことあり得ない。でも、母は淡々と続ける。朝ご飯を一緒に食べて、おばあちゃんはワイドショーを観はじめたんよ。私は自分の通院支度をしてて、さあ出かけようと思っておばあちゃんに声を掛けたら、寝とってね。でもちょっと様子がおかしくて口元触ったら息してなくて、慌てて救急車呼んだんよ。老衰って、病院の先生が。
 つい二時間ほど前に、祖母はこの世を去ったのだという。呆然としたわたしに、帰って来いと母が言う。葬儀社さんとの打ち合わせはこれからやけど、今晩がお通夜で、明日がお葬式ってことになるんやないかな。あんたも早よ帰って来て、手伝って。
 それから一時間後。わたしは、クローゼットの隅に押し込まれたままだった喪服を詰め込んだバッグを持って、新幹線に乗っていた。トンネルを通過するたびに、窓ガラスに自分の顔が現れる。化粧をしていないせいか生気がなく、泣き出しそうにも見える。いや実際、泣きそうだった。
 新大阪駅まで送ってくれた章吾と、別れ際に喧嘩をしてしまった。祖母の通夜の席だけでも出たいと言った章吾を、わたしが断ったのだ。そういうの、いいから。やめてよ。
 その言い方が悪かったと思う。あまりにつっけんどんで、吐き捨てるという表現がぴったりな口ぶりになった。でも、祖母の死に動揺していて、そして章吾の言葉が怖くて反射的に言ってしまったのだ。
『へえ。迷惑ってことやな。そういうつもりなら、ええよ』
 章吾は怒ると無表情になり、声がとても静かになる。いままで聞いたことのないほど低く平坦に言った章吾は、慌てたわたしの言葉になどもう耳を貸す気はないようだった。
『清陽にとってのおれって、どうでもいい存在やねんな』
 章吾はきびすを返すと、一度も振り返らずにひとごみの中に消えていった。追いかけなければいけないと思ったけれど、わたしは動けずに背中を見送って、それから新幹線に乗った。
 ありがとう、ついてきて。そう言うべきだったのは分かっている。章吾の申し出をありがたく受け入れればよかったのだ。章吾の気持ちは嬉しいし、何よりも祖母はとても会いたがっていた。地元を離れて大阪に住まうわたしが誰とどんな風に暮らしているのか、知りたがっていた。
 でも、わたしにはそうする勇気が出なかった。こんなときでさえ。

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 二十五を超えた辺りから、帰省するたびに家族から『結婚』という言葉をちらつかせられるようになった。従妹のは三人目を妊娠したとか、中学のクラスメイトだったなつちゃんは博多の大きなホテルで華やかな挙式をしたとか。
『千夏ちゃんはグァムだかでふたりで式をあげたいって言ったらしいんやけどね、ほら、あの子の家は親が見栄張りやけん。町議会議員さんや商工会の会長さんを呼んで、そりゃ賑やかしい状態やったとって。でもあたしはね、そういうのはどうでもいい。記念写真を見せてくれたらそれでいいと思っとる。清陽のハレ姿を目に焼き付けて逝けたら、それで』
 一番熱心に、真正面から言ってくるのが、祖母だった。
 半年ほど前の、年末年始の帰省のときのことだった。昼ごはん代わりの雑煮を啜っていたわたしの横につつ、と座った祖母は『もういい加減に考えてくれんね』と神妙に言い、『清陽の結婚の前にあたしは死んでしまうよ』としょんぼり俯いた。ねえ、好いたひともおらんとね? あたしはせめて、あんたが選んだひとに会いたいんよ。あんたのしあわせを見届けんと、死ぬに死なれんとよ。
 祖母がいつもからだのどこかに貼っている湿布薬の匂いが鼻を擽る。頭の毛はタンポポの綿毛のように真っ白で頼りなく、ピンク色の頭皮が透けて見えた。膝の上で結んだ両手は皺とシミだらけで、模造紙で作られた模型のようだ。ああ、年を取ったんだなあと思った。かつてわたしと唐揚げの大食いレースをして大差で勝ったひとは、もう老いているのだ。
 祖母不孝をしているのかもしれない、と心がぎゅっと痛み、だからわたしは『ごめんね』と祖母に素直に謝った。彼氏もいるし、そのひとと結婚したくないわけではない。でも、わたしにだって会わせられない事情がある。そういうことを、言葉を探しながら言うと、肩を落としていた祖母が、がばっと顔を上げた。
『じゃあ連れて来んさい。結婚したいち考えとるひとがおるってだけで、上等だ。顔くらい、見せてよ!』
 その顔には艶と張りがあって、まだしっかりとした黒目がキラキラしていた。
『くそう。ばあちゃん、はかったな……』
『あたしの命でも差し出さんと、あんたはのらりくらりとかわすでしょうが』
 むし歯ひとつないという自慢の歯をむき出して、祖母が言う。だいたい、そういうひとがおるんなら、何で連れて来んとね。どういうひとがあんたとお付き合いをしとるとか、あたしは知りたいし、話してみたいんよ。紹介してくれたって、いいやろうもん。
 わたしはそんな祖母を、どうやって穏便にやりすごそうかと考える。いつかはと思っているけれど、でもそれはいまではないし、いつになるかも分からない。まだその時期じゃない気がするからもう少し待って、そんな感じで終わらせようと思っていると、わたしの向かい側で酒を飲んでいた父が、鼻を鳴らして笑った。
『どうせ親に見せられんような、下らねえ男なんだろ』
 面倒くさそうに言って、大きくげっぷをする。遠慮のない下品な音が、耳に大きく響いた。ざわりと感情が波立つのを感じながら、『何て?』と努めて穏やかに訊き返す。父はぐい呑みの中身をきゅっと飲み干して、手づかみでおせちの栗きんとんを摘まんだ。べろ、と舌で舐めとるようにして食べる。
『親に紹介もできんような、箸にも棒にもかからねえ下らねえ男だろって言ったんだ』
 けっけ、と父が笑う。そんなもん、会うだけ無駄だ。連れて来るんじゃねえぞ。アルコールで赤くなった鼻先と、とろりとした目が酔いの深さを教えていた。その、昔から見慣れた顔を前に、すうと感情の波が引いてゆく。気付けば、わたしは手にしていた箸を投げつけていた。箸は前髪が大きく後退したおでこに当たって転がり、父が愕然とした顔をした。
『何しやがる、清陽!』
『逆でしょ?』
 立ち上がり、父を見下ろす。
『好きなひとに見せられない家族だから、連れてこられないんだよ』
 意味が分からなかったのか、父が目をしばたかせた。その間抜けた様子に苦く笑ってみせるとようやくはっとして『何だと、てめえ』と立ち上がろうとする。しかし足元がおぼつかなくて、中腰になったところでごろんと転がった。足がテーブルを蹴りあげ、わたしが食べていた雑煮の椀がひっくり返った。
『おま、お前、親に対して何失礼なこと言ってんだ。おい、謝れ』
『ひっくり返った亀みたいな格好して、何偉そうに言ってんのよ。正月だからって昼間からべろべろになるまで酒飲んでる父親を、どう紹介するの。できるわけないじゃない!』
『何だと、このバカ娘。こっち来い。ぶん殴ってやる』
 顔を真っ赤にして、父が怒鳴る。祖母が『やめな、清陽。酔っ払いと喧嘩しても仕方ないよ』とわたしの服の裾を摑んで言ったけれど、わたしはその手を振り払った。
『はっきり言っとく。この家族を紹介できないから、連れてこられないんだ。結婚したくたって、できないんだ!』
 馬鹿なことを言ってる、と頭の隅で思う自分がいた。いい年をして、何を叫んでいるんだろう。でも、いったん開いた感情の弁は、もう閉じられなかった。父が唾を飛ばして、出て行けと言う。お前のせいで、せっかくの正月も台無しだ。たまにしか帰って来ないで、その上に家族を馬鹿にするしかできねえのなら、いますぐ出て行け。だからわたしは、祖母が必死に引き留めようとするのも構わずに荷物を纏めて実家を出て、大阪のアパートに帰ったのだった。
 あれから半年。実家に帰ることもなければ電話ひとつかけなかった。祖母からは何度かメールが来て当たり障りのない返答をしたけれど、でもそれは決して、祖母の望む回答ではなかった。
「ごめん、ばあちゃん」
 小さく声に出して呟く。祖母孝行できなくて、ごめんなさい。

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 梅雨明けした門司港は、起き抜けに想像した通り、快晴だった。日差しが眩しく、道行くひとはもう夏の装いをしている。緑が鮮やかなかざやまの裾野にある実家にタクシーで向かうと、庭先に白いテントが立っていた。葬儀社のひとだろう、白いカッターシャツに黒のスラックス姿の男性がふたり、受付台を設置している。彼らに会釈をして家に入ると、母が誰かと大きな声で話していた。
かつひろさんは本当にひとが変わったねえ。まるでお殿さんみたいに偉そうになって。かずさんもよう辛抱しとるわ」
「そうなんよ。もっと強気でいりゃいいのに」
 話し相手は従妹の恵那のようだ。声のする茶の間に行くと、ふたりは座ってお茶を飲んでいた。恵那が先にわたしに気付き「キヨ姉」と声を上げる。
「早かったね。お疲れ」
 恵那は父方の従妹で、わたしの三つ下。高校を卒業すると同時に結婚し、半年後に子どもを産んだ。いわゆるできちゃった結婚だ。その三年後にもうひとり産み、いまは三人目を妊娠中。見ればはちきれそうなお腹をしていて、予定日を聞けば昨日だと言う。
「なかなか出て来てくれないんだよね。ばあちゃん、楽しみにしてくれてたのにな」
 恵那はすでに泣いたあとなのだろう、高校時代からいつもばっちりメイクを施している目元が、赤くんでいた。
 祖母は搬送された病院からもう帰ってきていると母が言うので、安置している続き和室に向かう。すっかり葬儀場に様子を変えた上の間の中央で、祖母は自身の愛用していた布団に収まっていた。顔にかけられたまっさらな布が、やけに明るい。
「いっこも苦しまん、大往生だって。お医者さんが」
 よいしょ、と母が祖母の横に座って「ばあちゃん。清陽が帰って来たよ」と声を掛ける。いつもの帰省と同じ、変わらぬ声掛けだけれど、返ってくる言葉はない。母が布をとると、穏やかに眠る顔があった。ほんの少しだけ、気が抜けたように口が開いている。ああ、死んじゃったんだと実感した。喉元まで「ごめんね」という言葉が込みあげたけれど、それを飲み込んで「久しぶり」と言った。それから祖母の顔を眺めていると、母が「いま、お父さんと勝弘さんが葬儀社に行って、打ち合わせしとるんやけどね」とため息をつく。
「ばあちゃんは、自分のことに関しちゃつましくしたひとやったやろう。派手んしてもみっともない、ち。仰々しいことも嫌いなひとやけん、大きなお葬式やなくてこぢんまりしたもんにしてもらおうち、お父さんとあたしは思ってるんよ。でも勝弘さんが嫌がって。会社の付き合いがあるち」
「父さんの言うことなんか無視していいとよ。ばあちゃんのことなんてちっとも大事にしてなかったんやけん」
 恵那が鼻を鳴らす。ばあちゃんていうか、家族のことなんかどうでもいいひとなんよ。頭の中は会社と女のことばっか。
「会社はともかく女って、まだあの愛人と付き合ってるの?」
 思わず言うと、恵那は口元を歪めて笑う。
「あの女には捨てられたんよ。金の匂いがしなくなった途端に、いなくなった」
 父の弟で、恵那の父の勝弘叔父さんは、くらで老人介護施設を経営している。元は雇われケアマネージャーだったが独立し、いまでは四つの施設を運営している事業家だ。かつてはやさしいひとだったように記憶しているけれど、事業が大きくなるにつれて態度が大きくなり、身なりは派手になり、果ては愛人を作った。しかも、そのひとを秘書だと言って堂々と連れ回していて、あからさまにべたべたとくっついていた。
「金の匂いがしなくなったって、どういうこと?」
「四つ目に作った施設が、金持ち向けの高級路線やったんよ。インテリアや食材にこだわって、お風呂は由布院から温泉の湯をタンク車で運ばせてさ。でも、あまりに入居費が高いってんで、だーれも入ってくれんの。経営してるだけで赤字やったみたい」
 借金だけが嵩み、その結果ふたつの施設を手放す羽目になったのだという。父親の大変な事態を恵那はどこか楽しそうに話した。
「経営が盛り返せるかどうか分からんけど、うまくいけばまた新しい女を作るっちゃないと?」
「へえ、大変だ……て、こういう話していいの? 叔母さんは?」
 慌てて周囲を見回す。恵那の母――叔父さんの妻の数恵叔母さんは大人しい気弱なひとで、夫のやっていることを黙認状態だけれど、だからってこんな話を聞きたくはないだろう。恵那は「うちの子たちを連れてコンビニまで行ってる」と言った。
「さっきまで庭で遊んでたんだけど、ふたりとも飽き飽きしたみたいで」
「あ、そうなんだ。恵那、旦那さんは?」
 恵那の夫のしゅんくんは、恵那の高校時代のクラスメイトだ。高校卒業後は自動車整備工場で働いている。学生時代はヤンチャをしていたと聞くが、とても穏やかな青年だ。あまり会うことはないけれど、とても子煩悩だと祖母から聞いた覚えがある。急なことだし、まだ仕事中だろうかと思って訊くと、恵那が般若みたいな恐ろしい顔をした。
「キヨ姉。もう、あいつは死んだと思って。あいつ、浮気しとったとよ」
 噓、と小さく叫んだわたしに、恵那は「クソだよ、クソ」と吐き捨てる。
「あたしがこんなお腹で子どもふたりを見とるのに、高校時代の女友達とこっそり会って、飲みに出かけとったと。最低よ」
 別の友人から、飲み屋でふたりが親密そうに話している盗撮写真が送られてきて発覚したのだという。洵くんは、恵那が子どもにばかり構うので寂しくなったと弁解したそうだが、恵那にしてみればふざけている物言いだろう。
「下の子がまだ夜泣きするし、そもそも臨月って満足に熟睡できんとよ。寝不足でフラフラしてんのに、どうやって洵といちゃいちゃしろっつーの。もう離婚だ、離婚」
 恵那は一週間ほど前に洵くんと住んでいたアパートを出て、子どもたちとこの家に住んでいるらしい。どうして実家に帰らないのと訊いたら、「父さんの顔を見たくない」と言う。
「父さんは、子どもが三人もいるのに母親の自覚がない、とか絶対偉そうに言うもん。父親の自覚がない洵を叱れよって話。それに、愛人を作って遊び三昧だったひとと一緒に居たらストレスで死にそう。父さんには今回のこと何も言ってないんやけど、あのひと全っ然気づかんと。さっき顔を合わせたら『もう来てたのか』だってさ。バカやん」
 けっけ、と恵那が笑い、「でもこっちに来てよかった」と祖母に目を向ける。
「おばちゃんたちには迷惑かけたけど、ばあちゃんはひ孫と生活できて楽しいって言ってくれたんよ。最後にいい時間を過ごせたと思う」
「そう……」
 事情はどうあれ、確かに祖母にとって楽しい時間だっただろう。子どもが好きで、いつだって全力で遊ぶひとだった。しんみりした声で、恵那が続ける。
「昨日もね、子どもたちをずっと面倒見てくれてさ。で、その間あたしはおばちゃんにグリーンキャッスルに連れて行ってもらってね。それでさ、めっちゃ勝ったんよ。ふたりしてビッグ引きまくり」
「ジャグラーであんなに勝ったの、久しぶりやったねえ。妊婦さんはクジ運があるち言うけど、あたしもそれのおこぼれ貰えたとやろうね。それで、昨日の夕飯は焼肉にしたんよね。ばあちゃんも美味しい美味しいって食べてさ。いい夕飯やったよね」
 母と恵那がうふふ、と笑いあう。わたしは、顔が引きつるのが分かった。
「え、待って。九十半ばのばあちゃんに体力有り余った幼児をふたり預けて、スロット行ってたの? お母さんは透析患者だし、恵那なんて臨月妊婦だよ?」
 恵那が「座っとるだけやけん、問題ない」と平然と言う。
「そうそう。それに、散歩がてらにちょっと行っただけよ。お互いストレス溜まってたし、気晴らしも兼ねて、ねえ」
 母は暢気に言うが、わたしは知っている。母が毎日行っていることを。
「噓ばっか。どうせ今月も皆勤賞なんでしょう!」
 グリーンキャッスルには会員カードがあって、来店するたびにポイントがつく。母はこのポイント目当てに、毎日欠かさず通っているのだ。図星だったのか一瞬気まずそうな顔をしたものの、ぷいと横を向いて「健康のために歩いているだけですう」と唇を尖らせた。
「お母さんがどこに行こうと、いいじゃないの」
 わたしは口を引き結んで、頭を振った。
 信じられない、信じたくない。年寄りに子どもを預けてスロットに行く母親なんて、常識がなさすぎる。しかもそれに、病を得ている実母まで付いて行っていたなんて。
 眩暈めまいがしそうになりながら、やっぱり章吾に来てもらわなくてよかったのだと思う。こんな家族を、どうして紹介できるだろう。きっと、軽蔑される。だって、紹介された章吾の家族はとても、素晴らしいひとたちだった。
 付き合い出して二年が過ぎたころ、章吾の実家に行った。章吾の実家は有馬温泉の近くにあって、温泉旅行に行くついでに寄ろうと誘われたのだ。家族に紹介されるということの持つ意味を考えて、わたしはとても緊張していた。
 章吾の両親は、温和で知的なひとたちだった。ふたりとも高校教師で、母親は教頭をしているという。通されたリビングの壁は一面作り付けの書架になっており、みっちりと本が詰まっていた。一般文芸から芸術雑誌、小難しそうな教育論の本や章吾が子どものころ読んでいたという児童書まで揃っていて、一番古そうな児童書を手に取れば背表紙の破れがきれいに補修されていた。何度となく読んで、最後には家族全員そらんじることができたという。書架には章吾の子ども時代のアルバムもあった。革張りのそれは分厚く、写真と一緒にメモまで貼ってあった。二月十四日〔晴〕初めての美術館でルソーと出会う。九月二日〔曇〕バタ足をマスター。なんていう風に。誕生日には家族で手作りのケーキを囲み、お正月は晴れ着を着て初詣。そこかしこに、丁寧に育てられた痕跡があった。
 章吾の父親は「本の虫」と自称するくらいの本好きで、母親はハンドクラフトが趣味だという。来客用のソファには見事なレース編みのカバーがかけられていて、半年がかりで編んだものだと、どこか恥ずかしそうに言われた。章吾には邪魔だって言われるんだけど、でもこうしてると古いソファも華やかになってまだまだ使えるのよ。わたしは、とても素敵ですと言った。こんなきれいなものが作れるなんてすごいです。わたしは不器用で、マフラーひとつ編めないので尊敬します。
 言いながら、どうしても門司港の両親の顔がちらついて消えなかった。暇があれば酒を飲んで過ごす父と、スロットが趣味の母。子どものころの写真はもち吉の煎餅缶に無造作に入れられていたけれど、いつかの大掃除以来行方不明だ。唯一残っているのは茶の間のテレビの上にある、大きく引き伸ばされた写真一枚きりで、それは幼稚園児のわたしが小倉競馬場のパドックで馬に髪を食べられそうになって泣いているシーン。いまにも殺されそうな顔で叫んでいるわたしの顔が面白いと、父がずっと貼っている。
 母親と穏やかに会話する章吾の顔を見て、胸が痛んだ。このひとがもしわたしの両親に会えば、呆れ果てるだろう。生まれ育った環境が、あまりにも違い過ぎる。
「ああくそ暑いな。おい数恵、帰ったぞ」
 玄関の方でだみ声がして、はっとする。どすどすと足音も荒く中へ入って来るのは、叔父さんだ。上の間で座っていたわたしたちに気付くと、「おう、清陽。久しぶりやの。元気しちょったか」と大きな声で言う。
「どうも。御無沙汰しています」
 頭を下げると、「お前は滅多に帰ってこんけん、ばあさんの死に目に遭えんかったの」と続けた。その言い方にむっとするけれど、しかし言い返すともっと面倒な会話をしなくてはいけないので我慢する。わたしに気を使ったのか、恵那がそっと手を握ってきた。
「それより、数恵はおらんのか。恵那、茶」
 どっかと座り、お腹の大きい娘に顎で指図する。立ち上がろうとした恵那を母が制して、「数恵さんはチビちゃんたち連れて買い物。冷たいのでいいかいね」と答える。叔父さんは「すまんね」と口にしたけれど、少しも申し訳なさそうじゃなかった。
「ただいま。おお、清陽帰ってたか。急なことやったけど、仕事は休めたんな?」
 汗を拭き拭き、遅れて入ってきたのは父だった。やあ疲れた、と弟の横に座る。
「大丈夫。ちょうど、有休消化で二連休とってたの」
「そうかそうか。ばあちゃん、それが分かっとって、今日亡くなったんかもしれんなあ」
 酒の入っていない父は、口数の少ない静かなひとだ。酒を飲むと饒舌になり、気が大きくなる。笑えない冗談を飛ばしているくらいならいいけど、酒が深くなるにつれ攻撃的で怒りっぽくなる。適量の範囲内であればいいのに、いつも飲みすぎては家族に当り散らすのだ。今夜の通夜の席でもきっと浴びるほど飲むのだろう、と想像するだけでげんなりする。
「そうそう、ばあちゃんはここで……ええと家族葬ちいう式で送り出すって決めたけんの。勝弘も納得してくれた」
「兄貴がどうしてもち言うけん、仕方なか。まあ、わしの仕事関係を呼ぶちなったら、この家から弔問客が溢れてしまうけん。そもそも、こげな小さい家じゃ無理じゃ。でかい会館を借りんと」
 叔父さんが笑って言うが、父も恵那もそれに返事をしない。わたしも、祖母の方を見ているそぶりで聞き流した。祖母だったら、男の見栄張りはみっともないと叱り飛ばしただろうに。
 母が全員分のお茶を支度してきて、グラスの中身をひと息に飲んだ父が呟く。
「ばあちゃんは、家族と、ばあちゃんを偲んでくれるひとたちと静かに見送ろう。それが一番の供養やち思う」
 誰ともなしに祖母を見て、それからみんな頷いた。

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 通夜の時刻になると、祖母の友人や近所のひとたちがぽつぽつと来て、祖母と最後のお別れをしてくれた。
「ハルさんとは一昨日まで、夏祭りのフラダンスステージの練習をしとったのに」
「いつも遊びに来てくれて、嬉しかったなあ。ハルさん、向こうでまた会おうねえ」
 突然の死とはいえ、九十も半ばのひととなると皆どこか穏やかで、落ち着いている。そういう事態が近くに訪れることが分かっていたのだろうなと思うと同時に、自分のまったくの準備のなさが情けなくなった。祖母の友人たちの相手をしていると、背中にどすんとやわらかな衝撃がある。振り返ると子どもの笑顔がふたつ並んでいた。
「キヨ姉! 遊ぼう!」
 恵那の子どもは、上がかず、下がだいという。恵那の弟のめぐむとプロレスごっこをしていたはずだけれど、と見れば萠は下の間の端っこに寝そべって「もう無理」と情けない声を上げた。
「そいつらの体力、無尽蔵だよ。オレ、ギブアップ」
「去年まで体育大の学生だったくせに、子どもに負けてんじゃないよ」
 わたしが笑うと、萠は力なく頭を振る。
「事務仕事ばっかりで、体がなまってるんだよ。ちょっと休ませてよ、キヨ姉」
 仕方ないなあ、とわたしは子どもたちに「ジュースでも飲む?」と訊く。エアコンが効いているけれど、子どもたちの顔には汗が滲んでいた。どれだけ夢中で遊んでいたのかと笑いが零れる。この子たちにはまだ祖母の死はよく分からないのだろう。でも、この笑顔と声だけで、祖母は慰められているはずだ。
 台所で冷えたジュースを用意していると、「何だと、コラァ」と激しい声がした。「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ」と続く。どうやら、叔父さんが誰かに怒鳴っているらしい。びくりと震える子どもたちに「ここでジュース飲んでなさい」と言って慌てて和室に戻ると、叔父さんと恵那が睨み合っていた。「落ち着けよ、オヤジ」と萠が間に入っている。
「どうしたの」
 近くにいた母に訊くと「洵くんよ」とため息を吐く。
「勝弘さんがどうして洵くんが来てないんだって恵那ちゃんに訊いたんよ。そしたら恵那ちゃんが離婚するからどうでもいいって言ってね……」
 浮気くらい許してやれ、そんなの絶対嫌だという口論の果てに、叔父さんが激昂したのだという。
「母親ってのは、子どものために何があっても我慢するもんだ。お前は母親失格やぞ。そんなに離婚したいんなら、もう好きにせえ。でもな、家に帰って来るんじゃねえぞ。そんな阿呆を引き取るわけにはいかねえ」
 叔父さんは、ずいぶん酒を飲んだようだ。彼の座っているテーブルの前には、空になったウィスキーの瓶があった。顔が真っ赤なのは、怒りのせいだけでもなさそうだ。
「おい数恵。お前も反省せえよ。育て方を間違えとるやないか。こいつは亭主に食わせてもらってる恩も感謝も分からねえバカ娘になっとるやろが」
 叔母さんは、恵那の隣に座っていた。ふたりの言い争いを必死に取りなそうとしていたけれど、夫の言葉に顔つきを変えた。いつもの弱気な表情が消えたかと思うとゆっくりと立ち上がり、夫を見下ろす。
「……もういいわ。離婚しましょうや」
 震えていたけれどはっきりした言葉に、叔父さんが、ぽかんと口を開けた。
「娘にわたしと同じ苦労をしろなんて、口が裂けても言いたくない。あんたもよくそんなこと言えたもんやね。もう、呆れ果てた。別れましょう」
「お前、わしと別れてどうやって生活していくっち言うとや。帰る実家ももう無けりゃ才能のない専業主婦で、どうして生きていく。金は持たせてやらんぞ」
「ひとりでなら、どうにでも生きていけるわね。それに、お義母さんからこういうものを頂いとります」
 叔母さんが黒エプロンのポケットから取り出したのは一通の通帳だった。不思議そうに通帳を開いた叔父さんの顔から赤みが引いていく。
「よ、四百……!? こ、これをオフクロがお前に渡したっち言うんか。わしが金を貸してくれち頼んだとき、そんなもん無いっち言うたんやぞ。これだけあれば、はぎの施設に手をかけられたやないか!」
「新しい人生をひらく助けにせえ、って萠が就職したときに頂いたと。どうしようかと持ってたままやった。お義母さんは何度だって『遠慮するな』っち言うてくれたんに」
 夫の震える手から取り上げた通帳を、大事そうにポケットに仕舞った叔母さんの目から、涙が零れた。
「嫁に来てからは本当の娘だと思うてた。娘の不幸を喜ぶ親はどこにもおらんのぞって。いまここで……お義母さんの前できちんとしたところを見せんと、顔向けできん」
「ばあちゃんは、父さんにずっと言ってたよね。数恵を大事にしろって。いつからか耳を貸さんくなって、ばあちゃんを避けるようになったよね。母さんはいつもここに会いに来てたよ。どっちが本当の子どもなんやろうね。ばあちゃんはどっちが、かわいかったやろね」
 恵那が加勢して、叔父さんが「黙っとれ!」と睨みつける。しかし恵那は一向にひるまなかった。「あたしも、帰るつもりはないけん。ここで暮らしたらいいってばあちゃん言ってたし、おじちゃんたちもこれからも全然構わん、て。なあ、おじちゃん?」と父に水を向ける。離れた席で様子を見ていた父は、それに黙って頷いてみせた。いつもなら酔った勢いでいさかいごとに口を挟むのに、珍しい。さすがに、弟夫婦の離婚問題には簡単に割って入れないのだろうか。
 叔父さんがわなわなと震えて、叔母さんと恵那に指を突きつける。
「ふっ、ふざけんなよ、お前たち。そんなこと、おれは許さんからな」
「わたしも恵那も、あんたの援助なしで自立するだけよ。あんたに許されなきゃいけないことは、何ひとつない」
 涙を拭って、きっぱりと叔母さんが言い、叔父さんがぐっと唇を嚙んだ。
 くいくいと服の裾が引かれ、見ると数人いた祖母の知り合いたちが「帰るわね」とそっと囁いた。噓! まだ弔問客がいるのにこの騒ぎを始めたわけ!?
 ああ、どうしてわたしの家は、いつもこうなんだろう。どこかまともじゃなくて、みっともない。
 母とふたりで、外まで見送りに出た。気まずそうにしているひとたちに、お恥ずかしいことで申し訳ありません、と何度も何度も頭を下げた。
 彼らの姿が見えなくなったころ、母が大きなため息をついた。玄関扉に手をつき、もう一度息をく。
「大丈夫? お母さん、今日、こんなに忙しくて透析に行けたの」
「もちろん。行かないと、死んじゃうもん」
 前髪のほつれを手で直す母の手首はとても細く、埋め込まれた内シャントが目立つ。
 母が人工透析を始めて、もう四年ほどだろうか。昔はふっくらとした体つきだったけれど、すっかり細くなった。年のわりに豊かな黒髪のお蔭かやつれた様子はないけれど、それでも老いた。祖母があまりに元気だったから忘れかけていたけれど、母もじゅうぶん、年を重ねているのだ。
「……ねえ、スロット行くのもいい加減にしないと。体に良くないよ」
 長生きできないよ、と言うと母は不思議そうな顔をして、それから笑った。
「長生きできんけん、好きなことしとるんやないの」
「え?」
「ばあちゃんが言ったんよ。これからは好きなことだけしんさい。あんたの人生はひとより短くなるかもしれんけん、後悔のないように好きなことだけしい、って」
 いいお姑さんやったよねえ、と母は嬉しそうに言った。数恵さんも言うてたけど、嫁を実の娘みたいに可愛がってくれたもん。ありがたいわあ。
 そう言えば、母がスロットに熱中しだしたのは透析を始めてからのような気もする。もともと好きではあったけれど、それでも月に数回行く程度のことだったのだ。
「さあ、とりあえず中に入って喧嘩を仲裁しなきゃ……あら?」
 家に入ろうとした母が首を傾げる。その視線を追ったわたしは、息を呑んだ。
 門扉に吊るされた御霊灯の灯りの隣に立っていたのは、新大阪駅で別れたはずの章吾だった。
「章吾……? どうして、ここに」
 章吾が口を開こうとする、そのとき。章吾の後ろから洵くんが飛び出てきて、「恵那に会わせてください!」と叫んだ。
「おれが全部悪いとです! 恵那に会わせてください。ばあちゃんに、謝らせてください!」
 意味が分からなすぎて混乱する。どうして、章吾と洵くんが一緒にいるのだ。そして洵くんはどうして、泣いているのだ。
「あらら。こりゃちょうどいいかもしれんねえ。いまね、恵那ちゃんと勝弘さんが喧嘩になっとるんよ。洵くん、行ってやって」
「妊婦なのに喧嘩!? し、失礼します!」
 涙を拭って、洵くんが家の中に駆けこんでいく。すぐに、「いまごろ何しにきやがった!」と叔父さんの怒鳴る声がした。
「うあ、お母さん。いまあの場に洵くんを入れたらダメだったんじゃないの」
「え、そんなことないでしょう。萠くんもいるし」
 そう言っている間に、何かが倒れるような大きな音と恵那の悲鳴が聞こえた。母が顔つきを変えて家に駆け戻り、わたしも後を追おうとしてしかし足を止める。振り返ると、見間違いでも幻でもない、喪服を着た章吾がいた。少しだけ申し訳なさそうに、でもどこか困ったように笑いかけてくる。
「ごめん、来てもた」
 迷惑やんな。灯りでほんのりオレンジ色に染まる顔に、胸がぎゅうと痛くなる。
「なんで手を上げるんよ! 父さんのバカ!」
 背後で、恵那の涙混じりの声と子どもたちの爆発するような泣き声が響いた。ああ、いまは章吾と話ができるような状況じゃない。
「話は、あと。とりあえず、入って」
 ともかく止めなくては。慌てて和室に向かった。
 どうやら、萠が殴られたらしい。通夜ぶるまいのテーブルの下で、煮物まみれになってのびているのを母が介抱している。恵那は泣き喚く子どもたちふたりを抱きしめ、仁王立ちする叔父さんの前に叔母さんが立ちふさがる。少し離れた場所で、洵くんが額を擦りつけて土下座していた。
「おれが全部悪かったんです! どうか、恵那と夫婦でいさせてください!」
「そんな情けない真似するくらいならどうして浮気なんてすんだ、馬鹿野郎。カカアに逃げられてもいいっちいう覚悟もねえなら浮気すんじゃねえ! 恵那、お前は亭主にこんな情けねえ真似させるんじゃねえ」
 叔父さんが言い、叔母さんが「じゃあ、あんたもその覚悟があって遊んでたんやろね」と返す。
「それならわたしが出て行っても、何の問題もないでしょ」
「それとこれとは違うだろう! 女は黙ってガマンを」
 叔母さんの胸ぐらを摑んだ叔父さんが、頰を殴ろうとする。そのハゲかけた頭をぺちんと叩いたのは、父だった。
「落ち着かんか、カツ坊。母さんの前でみっともねえ真似すんな。数恵さんも、熱くなりすぎちょう。ちょっとふたりで外出て、話しあってこい。若いのは、おれたちが見るけんよ」
 とても静かな、しかし怒りの滲んだ言い方に、ふたりがはっとする。それから叔母さんが「すみません……」と消え入りそうな声で言った。叔父さんも、泣きじゃくる孫と母親のひつぎを交互に見てバツが悪そうに俯いた。
「出て行け、とりあえず。な?」
 父が促すと、ふたりは大人しく出て行った。引き戸が静かに開閉する音を聞いた後、父が洵くんに「ほら、いいぞ」とやさしく声を掛ける。土下座したままだった洵くんが顔をあげ、「恵那、ごめんなさい」と深々と頭を下げた。
「本当に、ごめん。言い訳やけど、飲みに行っただけやけん。ほんとうに何もしてない。でも、そんな問題やないよな。おれがしたことは、最低やった」
 母が萠を起こし、台所に連れて行く。ふらついていた萠が「お前らもおいで」と声をかけると、涙で濡れた一樹と大樹は大人しくついていった。小さな背中ふたつを見送った恵那が「どうして急に謝ろうと思ったん」と訊く。息抜きに飲みにいくことの何が悪いって開き直ってたやん。ぶくぶく太って、ふうふう息吐いてるのが気持ち悪いって、もう女として見れんち言ってたやん。それが急になんなん? お義母さんたちにでも叱られた? そんなんであたしは許さんよ!
 まくし立てる恵那に、洵くんが首を横に振る。それから、スマホを取り出して差し出した。恵那に「メール見て」と言う。訝しそうにスマホを操作した恵那の指先が止まった。
「……ハルってこれ、ばあちゃん?」
 恵那が画面を何度かタップする。スマホから、泣き声が響いた。さっきの一樹と大樹の声に似ていて、わたしは思わず近づいて恵那の手の中のスマホを覗き込んだ。
 ママ、ママぁ。カズがダイちゃんのたまごやきとったぁ! ちがうもん、これカズちゃんのだもん! ねえママ、たまごもっと食べたいよお。
 それは我が家の茶の間を映した動画だった。手も顔もご飯粒だらけの子どもたちが喧嘩しながらご飯を食べている。恵那はそのいちいちに応え、『じゃあたまご焼いてくるけん、待っとき』と大きなお腹を抱えて立ち上がる。大樹が泣いて後を追い、恵那は苦しそうに、しかしちゃんと抱きかかえて頭を撫でる。ちょっと待っとき。美味しい玉子焼き作ってやっから。一樹も、待ちな。ママのぶん、食べとっていいけん。
 動画が終わり、恵那の指先が動く。祖母から洵くん宛にメールがいくつも送られていて、それには全て動画が添付されているらしかった。
 次の動画は、薄暗い部屋だ。常夜灯がちらちら動くから、夜の室内だろうか。大樹の泣き声がする。はいはい、怖い夢見たかなあ。ダイジョブだよお。ママ、ここにいるよー。眠たそうな、でもどこまでも優しい恵那の声がして、布団から這い出るような音が続く。立ち上がった恵那が大樹を抱っこして、背中をトントン叩いて寝かしつけようとしている。
『恵那、ばあちゃん代わろうか?』
 祖母の小さな声がし、恵那が『ごめん、起こした?』と言う。あたしの子やけん、ダイジョブ。さあ寝ようねえ、ダイ。大好きだよ、また明日遊ぼうねえ。重たそうな体を揺らして、恵那がふうふう息を吐きながら囁く。大好きだよ。
「おれ、それ見たら本当に申し訳なくなった。おれ、あいつらのために夜起きたことないもん」
 洵くんがうなだれる。ばあちゃんから、毎日届いとった。謝りに来いとかそういうのは一切なくて、ただ送ってきて。でもおれ、うぜえなち思って見もしなかった。でもばあちゃんが亡くなったち連絡きて、初めてそれ全部見て、それで……。
 堪らなくなって会いに来たのだと、洵くんは額を床につけた。
「二度としません。一度だけ、おれにチャンスを下さい」
 スマホの画面をじっと見つめていた恵那は、強く目を閉じた。それから時間をかけて、「いいよ」とゆっくりと言った。ここにおばあちゃんがいたら、きっと「そうしてやってよ」って言ったと思う。だから、今回だけは、いいよ。
 洵くんが「ありがとう」と涙を拭う。それから柩に向かって頭を下げた。ばあちゃん、ごめん。ばあちゃんが生きている間にしなきゃいけんかったのに。ごめん。
「パパぁ?」
 おずおずと声がして、見れば一樹と大樹が襖の隙間から顔を覗かせていた。洵くんが「おいで」と手を広げると、ふたりとも嬉しそうな顔をして駆け寄って行く。
「おそいんだよう、パパは」
「大ばあばが今日はぜったいくるよってまいにち言ってたのに、いっつもこないんだもん」
 洵くんが子どもたちを抱きしめて「ごめん」と謝る。本当に、ごめんな。
 無意識に滲んでいた涙を拭い、恵那を見る。恵那はスマホを見ながら「すげ、ばあちゃん」と小さく笑った。
「盗撮されてたん、全然気づかんかった」
「スマホ、使いこなしてたもんね」
 顔を見あわせて笑う。恵那の目尻も光っていた。
「ほんで、あんたはどちらさんですか。母の知り合い、でしょうか?」
 父の声がして、はっとした。見れば、部屋の端に所在無げに章吾が立っていた。すっかり忘れていた。
「お……ぼくは、清陽さんとお付き合いをさせていただいています」
 はじめまして、と章吾が頭を下げ、父が「うひゃ」と変な声を出した。
「このようなときに来るのも失礼かとは思ったのですが、おばあさまに最後にお目にかかりたくて」
 すみません、と章吾がもう一度頭を下げ、顔を真っ赤にした父がわたしと章吾を交互に見る。あまりに赤いので、深酒をしているのだと思う。さっきの叔父夫婦の仲裁に入ったときには感じなかったけれど、やはり酔っているのだろう。ああ、どうしてこんな状態が初対面なのだ。あまりにも最悪すぎる。
 父が口を開く。怒鳴り声か、下品な物言いか、思わず身構えて目を閉じた。
「それは、わざわざこんなところまでありがとうございます。母も喜ぶと思います」
 父はとても冷静に言った。一瞬聞き間違いかと思って目を開けると、恥ずかしそうに頭を掻いて、「騒がしい通夜で驚かれたでしょ。すみませんなあ」と続ける。
「すぐ片づけますけえ。洵くん、ちょっと手伝ってくれんかい。恵那はええよ、ゆっくりしとき。清陽、座布団持ってきてくれ」
「う、うん。すぐやる」
 一体、どうしたことか。片づけながらさっきまで父が座っていた席に目をやる。愛用しているちろりとぐい呑みがある。お酒を飲んでいるはずなのに、と首を傾げながら荒れた室内をどうにか整えた。
「いつも騒がしい家なんです。たいしたもんはないですけど、まあどうぞ」
 和室には、わたしと両親、章吾だけになった。恵那たちは茶の間に移動して話をしているようだ。萠の「暴力オヤジ、いつか反逆してやるけんな」という物騒な声がした。
「お酒飲めますか? ビールでいいかしら。お父さんは?」
 母が訊くと、父は「おれはこれでいい」とちろりを指す。
「日本酒ですか。ご一緒させてもらっても?」
 章吾の言葉に、父はわたしをちらりと見て、それから「いやいや」と俯いた。
「これはね、お湯なんで」
 え、と声が出る。お湯? 父は俯いたまま続ける。
「おれは酒が好きやけど、弱いとです。それで半年くらい前にこの子を怒らせてしまって、あそこのばあさんにそりゃ叱られたとですよ。清陽はもう二度と帰って来んかもしれんし、好いたひとも連れて来てくれんち言うて。噓じゃろち思ったけど、本当に連絡ひとつ寄越さんくなった。焦りました。でも、おれも九州の男なんで、うまく謝るちことができん」
 父は頭をつるりと撫でる。お酒を飲んでいないのに、薄くなった頭頂部まで赤い。ほんで、どうしたもんかと思うておったら、ばあさんが『酒をやめろ』ち言うんですよ。酒やめたら清陽は帰って来る。あたしが絶対に清陽を呼び戻してやるって。そこまで言うのならじゃあ賭けようかってことになって、禁酒したんですわ。はは、可笑しい話でしょ。
 章吾が「楽しい、おばあさまだったんですね」と言い、父が頷く。
「ええ、とても面白いひとでしたよ。会ってほしかった……会わせたかった、かな」
 どこまでも穏やかな父の言葉が、わたしの胸を締めつける。どうしてわたしは意地になってしまったのだろう。この目の前の光景を、祖母が生きている間につくることもできたのに。
 泣きそうになるのを、ぐっと堪えた。
 それから母がビールとグラスを運んできて、わたしは章吾と父のグラスそれぞれに、ビールを注いだ。
「いいんか、清陽」
「一杯だけね」
 父はグラスを掲げて「賭けはおれの負けじゃ」と笑った。

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   *

 ふたりで話がしたいと言って、家を出た。小学生のころの通学路を何となしに歩く。トリカワと呼ばれて泣いて帰った道だ。やわらかな海風が頰を撫でた。
「昼間は、ごめんね。わたしすごく嫌な言い方した」
「まあ、ムカついたな。でも、家族が亡くなって動揺してたってことやもんな」
 手の甲が触れ、そのまま手を繫ぐ。やさしい温もりに包まれる。
「それもある。でも、わたし、家族を章吾にうまく紹介できそうになかったんだ」
 小さな情けない理由だ。わたしは結局何も成長できていないままだったのだ。よその家と自分の家を見比べてはショックを受ける子ども。そのせいで、大事なひとに大事なひとを紹介できなかった。
「ああいう身内がいますって、どうにも恥ずかしくて言えなかったんだ。情けないね」
「いいひとたちやんか。洵くんやっけ? 彼のことはおれわりと好きやで。素直や」
 洵くんは門扉の前で立っている章吾に話しかけ、わたしの恋人と知るや一緒に中に入ってくれと懇願したのだという。謝りたいけど怖くて入れないんです! と縋られたところでちょうど、わたしと母が表に出てきたのだと章吾は楽しそうに言った。
 家を出がけに茶の間に声を掛けたら、洵くんはせっせと萠の肩を揉んでいた。洵くんの浮気心のせいでオレが殴られたと憤る萠の機嫌を取っていたのだ。その横では恵那と子どもたちがニコニコと笑っていた。
「あと、あれ。可愛い写真貼ってたなあ」
「見たの?」
「ぶさいくかわいい。あれをずっと飾ってるセンスはええな」
 茶の間は少し覗いただけなのに、馬に泣くわたしの写真まで見ていたなんて。
「清陽は子どもの時分からお父さん似やな。声は、お母さん似。恵那ちゃんにもどっか似てるなあ。姉妹でも通るわ。ああ、おれ、みんな好きやな」
「……ありがと。でもまだちょっとしか話してないし、これから呆れることもあると思う」
「そうかもしれへんな。けど、大丈夫やと思うで」
 章吾が言い、わたしは隣を見上げる。章吾は、わたしが子どものころに通い詰めた駄菓子屋『うら』の古い看板に目を向けていた。三浦屋のおばあちゃんはわたしの祖母の友達で、わたしを見ると『ハルやんの孫ちゃんにはこれあげよ』とポケットから飴玉をふたつくれた。ハルやんと一緒にお食べ。三浦屋はもうずいぶん前に閉店したけれどあの飴玉の甘さが鮮やかに蘇る。
「清陽の言葉やしぐさ、考え方の端々にあのひとたちがおるんや。パーツみたいなもんかな。おれはそういうパーツでできた清陽が好きやねん。やから、たとえ嫌なことや呆れることがあっても、でもこのひとのどこかにおれの好きな部分も絶対あるんやなあって考えるようにするだけ。それだけや」
 言葉を失って、それから、好きだなあと思った。そして、わたしはわたしのことを全部認めて受け入れてくれるからこそ、このひとを好きになったのだと思い出した。
「ああ、おばあちゃんに章吾を会わせたかったな。紹介したかった」
 哀しくなって呟くと、「おれ、会ったかもしれんで」と章吾が返す。
「新大阪出て、いったん清陽の部屋に戻ってん。ほんで荷物纏めて帰ろうとしてたら寝室の方で音がしてな。何やろなと思って部屋覗いたら、これがひらひらーって床に落ちてん」
 章吾が葉書を取り出した。今朝、チェストの上に置いたのは覚えているけれど、落ちるようなところに置いていただろうか。
「あなたのしあわせな顔を見せてちょうだい、って文字が目に飛び込んできて、ああこれおれが行かなあかんの違うかなって思ってん」
 おれが行かな、清陽のしあわせそうな顔見せられんやろ。章吾は恥ずかしそうに、でもどこか確信めいた口調で言った。わたしは溢れた温かな思いを、笑いに変えて零す。
「それ、あんまりにも自信家すぎない? でもそれは確かに、おばあちゃんが章吾を呼びに来たのかもしれない」
「せやろ。絶対そうやと思って、気付いたらこれ持って新幹線乗ってた。早かったで、おれの動き。この喪服なんかな、小倉駅の駅ビルで買うてん。さらの新品や」
 誇らしげに葉書を掲げ、むん、と胸を張ってみせる章吾に「靴も?」と訊く。
「当たり前やん。でもこれはあかんかった。実は靴擦れしてんねん」
 今度は情けない顔になる。ころころと変わる顔に笑っていると、ころりと涙が出た。一粒、二粒、転がり落ちていく。章吾がやわらかく目を細めた。
「……わたしね、おばあちゃんっ子で、おばあちゃんが大好きだったの。いまも、大好き」
 うん、と章吾が言う。
「とても元気なひとで、子どものころはおばあちゃんと唐揚げの大食いレースとかしてたんだ。ひとには言えなかったけど、でもすごい楽しくて」
「うん」
「そしてね、おばあちゃんの作る……すき焼きが大好物だったの。うちのすき焼きね、鶏肉で作るんだ」
「へえ、旨そうやん。タマゴと食ったら親子丼みたいでええな。食いたいな」
 そうでしょ、と言う声が少し詰まる。ああ、こんなにも簡単なことだったのだ。
「あ。あれ、清陽のおじさんたちやない?」
 章吾の指差す方を見れば、叔父さんと叔母さんが歩いていた。並んで歩いている背中を見送る。
「離婚、するのかなあ」
 大人しい叔母さんがあそこまで感情をあらわにして怒鳴ったのを見たのは初めてだった。もう関係修復は難しいかもしれない。どうやろなあ、と章吾が言う。清陽のおばあちゃん、どうも策士のような気がするで。なんやうまいこといって、明日の葬式には、あのふたりも笑顔でおるんとちゃうか。
 そうだったらいい。祖母はもしかしたら、自分の家族の問題をすべて解決して亡くなったのかもしれない。そう思いたい。
「清陽」
 呼ばれた気がして、振り返る。したり顔の祖母が笑っていた、気がした。
「ただいま」
 章吾の手を強く握って、思いきり笑ってみせた。

「おつやのよる」 了