昭和58年(1983)3月1日、午前1時40分、小林秀雄は、80年の生涯を閉じた。新聞各紙は、ただちに第一面から社会面へと、「小林秀雄氏死去」を大きく報じた。
「近代批評文学の構築者」(朝日新聞)、「近代批評文学の開拓者」(毎日新聞)……第一面の見出しを、各紙一様にこう打った。続いて社会面に、「『本物』に徹した生涯」(朝日新聞)、「知的孤高貫いた“批評の神様”」(サンケイ新聞)、「無私で人生の真実見る」(東京新聞)、「文芸評論を芸術の高みに」(日本経済新聞)、「『精神のドラマ』刻んで」(毎日新聞)、「近代文学切った光彩」(読売新聞)……と打った。
 海外でも、精しく報じられた。『ザ・タイムズ』1983年3月14日号は、――3月1日、東京において80歳で死去した小林秀雄は、近代日本の最も著名な批評家の一人であった。彼は、日本の文芸批評の水準を、たった一人で高めたといっても過言ではない……と筆を起こし、その足跡を丹念に紹介した。
 小林秀雄、死去――。この一報は、一個人、一文学者の死を超えて、昭和の日本の社会的事件として内外に伝えられた。実に50年余にわたって、小林秀雄の言葉が多くの日本人を激しくつかみ、眠ろうとする魂を目覚めさせ、蹲ろうとする肉体を奮い立たせていたからである。

 昭和4年、「様々なる意匠」を書いて小林秀雄は文壇に出た。この文壇デビュー評論「様々なる意匠」こそ、各紙が伝えた「近代批評」の樹立宣言であった。それまでは、文芸批評といえば他人の作品に得手勝手な難癖をつけるか、そうでなければマルクス主義その他の公式・尺度を作者や作品に押しつけるか、そのどちらかであった。小林は、そういう態度に、わけても後者に厳しく詰め寄り、文学は言葉による自意識の表現である、ならばこれと交感する批評もまた、批評する者の自意識の表現であるべきはずだ、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」、そう言いきって狼煙を上げた。
 以来、その歳月は、文章仕事の職人修業ともいえる自己鍛錬の歳月であった。文学、歴史、音楽、美術、哲学、思想……それらに関する知識も感性も、文壇デビューのその日からもう兼ね備えていたかに見られがちな小林秀雄であるが、小林自身の作品を、発表された年月の順に読んでみればけっしてそうではない。倦むことを知らぬ自己鍛錬の末に、少なくとも四度、「君子豹変」を果たして顔をあげた小林秀雄がいるのである。
 文壇登場直後の昭和5年から約10年、小林秀雄は「文藝春秋」「東京朝日新聞」ほかに文芸時評の筆を振るった。が、時評というジャーナリスティックな荒業と、己れの夢を懐疑的に語るという自らの主題との間に早くも乖離を見出した小林は、昭和10年1月、「文学界」に「ドストエフスキイの生活」を連載し始める。小説家が歴史上の人物に取組み、その人間像を具体的描写で描き出すのと同様に、自分は文学・芸術界の天才と取組み、抽象的描写で彼らの肖像画を描く、これが最高の批評なのだと後年自ら語った前人未踏の試みへの跳躍であった。
 昭和16年、39歳の夏、文芸時評と完全に手を切った小林は、さらに新たな自己鍛錬に身を投じる。前年の秋から、陶器に親しみ始めていたが、太平洋戦争が始まるこの年以降、陶器に加えて日本の土器や仏画等、古美術の世界に深入りする。明けて17年の春からは、「当麻」「無常といふ事」「徒然草」など日本の古典論に専心し、翌18年も「実朝」を続けた。論理の力は、フランス文学、ロシア文学と、西洋の近代文学に鍛えられていた。今度は日本の古美術・古典と向き合い、物を見る力、眼の修練を積み重ねたのだ。
 次いでは、文学から離れた。終戦と前後して、文芸批評は書かずに音楽ばかりを聴いている時期、絵ばかりを眺めている時期を過ごすようになった。新たに発表する仕事も、多くは絵画・骨董に関するもので占められ、昭和29年3月には「近代絵画」に着手して30年代に及んだ。形だけで語りかけてくる美術品をひたすら眺め、形からいわば無言の言葉を得ようと努めた。このただ眺め続けるという美の訓練が、後に、文学や思想も、読むだけでは足りない、眺めることが大事だという独得の読書術を導いた。
 昭和33年5月、仕事の対象を哲学・思想・学問へとひろげてさらなる「豹変」を遂げる。「新潮」にべルグソン論「感想」を連載し始め、昭和40年6月からは「本居宣長」を開始した。「ドストエフスキイの生活」に始まり、戦中・戦後の「モオツァルト」から「ゴッホの手紙」へと磨いてきた肖像画の筆法、「無常といふ事」の周辺で鍛えた日本の感性と眼の力、「近代絵画」の道筋で練った独得の読書術、それらのすべてが「本居宣長」に会して大交響楽を奏でた。

 昭和52年10月30日、「本居宣長」は菊判600余頁、定価4000円の単行本となって世に出た。葉書が20円、封書が50円だった年である。たちまちベストセラーとなって発売約2ヶ月で5万部を、約半年で10万部を刷った。
 小林秀雄逝去の日、孤高、無私、精神のドラマ……新聞各紙が、それぞれの言葉でまず読者に指し示したのも、この永く厳しい自己鍛錬を経て、小林自身が表現しきった「小林秀雄の生き方」という、独創的な作品の姿であった。