あの戦争は何だったのか

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発売日:2005/07/20
ISBN:978-4-10-610125-0
定価:756円
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>>波 8月号より<<
[対談]保阪正康×佐野眞一



戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか――。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした“真の黒幕”とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、「あの戦争」を歴史の中に位置づける唯一無二の試み。


保阪正康(ホサカ・マサヤス)

1939(昭和14)年、北海道生まれ。ノンフィクション作家、評論家。同志社大学卒業。近現代史、特に昭和史の実証的研究を志す。立教大学非常勤講師などを務める傍ら、個人誌『昭和史講座』を主宰。著作に『昭和陸軍の研究』『昭和史七つの謎』『眞説光クラブ事件』等多数。

「愚かすぎた軍事指導者への怒り」保阪正康
 昭和前期の太平洋戦争にいきつくまでの年譜を見ていると、怒りの感情がわいてくる。その感情がおさまると、やがて悲しくなってくる。
 私は、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと続くプロセスに、「戦争反対」の視点で怒りをもつのではない。テロ、クーデターによって政治家や言論人は畏縮し、偏狭で定見のない軍事指導者が登場し、国民はあたかもそれらの人物を革新派として歓迎する。多様な価値観をうとましく思って、皇道主義に直進する官僚や思想家が救国の英雄の如くにふるまう。こういう構図を見ると、「昭和十六年十二月八日」に戦争が避けられたとしても、戦争それ自体は昭和十七年、十八年、いつの日かに訪れたことはまちがいない。
 はっきり言うが、昭和十年代(とくに二・二六事件以後)の政治、軍事指導者はいずれも平均点以下の人材だ。当時のどの領域にも国際感覚、理念、政治技術、それに軍事観、国家観のいずれをとっても近代日本史のなかで恥ずかしくない人物はいた。たとえば、軍人では駐在武官が長かった山内正文を見よ。彼の軍事観は政治とのバランスのなかに立論されていた。多くの有能な人材がなぜ昭和十年代に指導部に入れなかったか、そこにこそ近代日本の終焉期の愚かしさがあるのだ。
 それゆえに〈あの戦争は何だったか〉を考えると悲しくなってくるのだ。なぜ戦うのか、どの段階で鉾をおさめるのか、そんなこと、何ひとつ考えていない軍事指導者たち。歴史の上にどのような意思を刻みこもうとしたのか、などまったく考えてもいない。それゆけ、やれゆけと掛け声をかけ、「戦争とは負けたと思ったときが負け」と自己本位の弁をなし、戦況が悪化すると国民の戦意が足りないからだと言いだし、一億総特攻を呼号する。「この戦争は何のために戦っているのでしょうか」とでもつぶやこうものなら、反戦分子として獄に送られる。
 もしあの戦争が、東亜の解放のため西欧植民地主義と戦っている、たとえ我々が敗れてもその理念が実現されるのならそれでいい、自存自給体制を固めるために東南アジアの国々の独立を促し、そしてその資源を対等のビジネスの範囲で受けいれていく、というのならそれはそれでいい。いや十八世紀以後の西欧近代化に対して、日本は中国と連携して東洋文明を対峙させるとでもいうのなら、相応の意味をもたせることはできる。だがそうした理念や目的は何ひとつ明確な形で論じられることはなかった。敗戦のあとにとってつけたようにこうした論を口にする者もいるが、それは“引かれ者の小唄”ではないか。
 あの戦争の内実を調べれば調べるほど、軍事、政治指導者には腹が立つが、戦争で逝った人たちへの追悼と慰霊の気持は、私はひときわ強い。それは「人は生きる時代を選べない」との思いがあり、その悲しみが理解できるからである。