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日本の大転換点を見事に喝破した力作
魚住 昭

 これはとてつもない本だ。政官界の裏側や外交交渉の内幕をこれほどリアルに描いた作品があっただろうか。ここで明らかになった事実の数々は小泉政権に衝撃を与え、霞が関を震撼させずにはおかないだろう。
 著者は学生時代に神学を学んだ異色の外交官だった。モスクワ大使館時代にソ連政界はもちろんロシア正教会や国家保安委員会(KGB)のほかマフィアにまで人脈を築き、ソ連の内情に最も通じた日本人になった。
 帰国後は鈴木宗男代議士(当時)を前面に押し立てて北方領土返還交渉に取り組み、「外務省のラスプーチン」と言われた。だが、二○○二年のムネオ疑惑に絡んで東京地検に逮捕され、今年二月、東京地裁で執行猶予付きの有罪判決(控訴中)を受けた。
 その経緯を著者は克明に綴っているが、この種の手記にありがちな自己弁護の臭いはまったくない。「情報のプロ」として「私自身の周辺に起きたことをできるだけ自分の利害関係から切り離して理解」し、事実を正確に後世に残すという姿勢に揺るぎがない。
 すべての始まりは四年前、小泉政権が誕生したことだった。天才的「トリックスター」田中真紀子外相の登場で外務省「ロシアスクール」の内紛に火がつき、省内の権力闘争や官邸の思惑も絡んで未曾有の大騒動になった。慌てた外務省は「危機の元凶となった田中真紀子女史を放逐するため」鈴木氏の政治的影響力を最大限に利用しようと画策する。
 ある幹部は田中外相の省内での奇怪な言動をつづった怪文書を作って鈴木事務所に持ち込んだ。その怪文書を鈴木氏が著者に見せながら「俺のところに持ってくれば、それを新聞記者に配ると思っているんだな。その手には乗らないよ」と笑う場面が印象的だ。
 その鈴木氏もやがて「知りすぎた政治家」として外務省の手で排除されていく。彼の圧力でアフガニスタン復興支援東京会議に特定NGOが招待されなかったとされる疑惑の意外な真相をお読みになれば、読者は官僚たちの狡猾さと無責任さに唖然とされるだろう。そして彼らの情報操作で世論が作られていたことに気づいて、愕然とされるにちがいない。
 しかし、この本が凄いのはこうした内幕の暴露だけに終わらず、事件の背後にある国家の政策や時代の潮流の変化を極めて正確に捉えていることだ。ムネオ疑惑は日本外交のターニングポイントになったと著者は言う。
 それまでの外務省には「日米同盟を基調とする中で、三つの異なった潮流」があった。第一の潮流は集団的自衛権を認めて、さらに日米同盟を強化しようという狭義の「親米主義」。第二は中国と安定した関係を構築することに比重を置く「チャイナスクール」の「アジア主義」。そして第三が東郷和彦・欧亜局長や著者ら「ロシアスクール」が主導した「地政学論」である。
 この「地政学論」は日本がアジア・太平洋地域に位置していることを重視する。日米中ロの四大国によるパワーゲームの時代が始まったのだから、今のうちに最も距離のある日本とロシアの関係を近づけ、日ロ米三国で将来的脅威となる中国を抑え込む枠組みをつくっておこうという考え方だ。
 だが、ムネオ疑惑で「地政学論」のロシアスクールが外務省から排除された。さらに親中派の田中外相の失脚で「アジア主義」が後退し、結局「親米主義」が唯一の路線として生き残った。その結果生まれたのが今の対米追従一辺倒の外交政策である。もし一連の事件がなかったら、今ほどロシアや中国との関係は悪化しなかっただろうし、自衛隊のイラク派遣や多国籍軍参加もなかっただろう。
 外交政策だけではない。著者はムネオ疑惑が日本の社会・経済モデルを従来の「公平配分」型から金持ち優遇の「傾斜配分」型に転換させる機能を果たしたと指摘する。
 鈴木氏は公共事業で中央の富を地方に再分配する「公平配分」型の代表的政治家だ。小泉政権は政治腐敗の根絶をスローガンにして鈴木氏を叩くことにより、国民の喝采を浴びながら「傾斜配分」型モデルへの路線転換を容易にすることができたというわけだ。
 拘置所の調べ室で検事が漏らした言葉が、正義の名の下に行われた検察捜査の本質を端的に示している。「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」
 本書にはソ連崩壊時の共産党の内情やエリツィン「サウナ政治」の実態、北方領土交渉に取り組む日本の歴代首相の姿など貴重な歴史的証言も満載されている。今後、この本を抜きにして現代日本の政治や外交は語れないだろう。十年に一度出るか出ないかの超一級のノンフィクションである。
(うおずみ・あきら ジャーナリスト)
――波 2005年4月号より