本・雑誌・ウェブ




●まだ息子が小学校に入る前のこと、台所で夕食の準備をしていたら突然立っていられないくらい気分が悪くなり、這うようにして階段を上り、寝室のベッドにパタンと横たわった私は不思議な夢を見ました。
 大きくて静かな川(海に見えるけれど頭でそれは川と分かっている)を、皆さんと一緒に船に乗って私は渡っていました。手すりにもたれ月光だか朝焼けだかの光に輝く水面を見ていると「靴を捨ててください」と声がかかり皆といっしょに、私は履いていた靴を水中になげました。しばらくして、中州で途中下船して並んでお宮の前に行き「何色のぞうりがいいですか」と聞かれた私は「白がいいです」と答え、「白がいま、ない」と言うから「白じゃなきゃいやだわ」と大きな声で言った途端、目が覚めました。
 時計を見たら、ものの十分ほどしか経過してなかったですが、気分爽快になっていました。そのときは何とも思わなかったのですが三日目に霊柩車とすれ違った瞬間「私は、三途の川を半分渡ったんだな」と気が付きました。
 この話は当時、友人やゼミの恩師にも話して「あのとき、『では、在る色のぞうりでいいです』と履き替えていたらあなたは幽界の人になっていたんですね。わがままでよかったですね」と言われたものです。

● 作家になりたいなと思っていた学生時代、好きな作家を尋ねられると「村上春樹と芦原すなお」と答えていました。
 だから村上朝日堂のサイトを読んでいて、お二人が早稲田大学の文学部で同級生だったと知った時には心の底からびっくりしました。『ノルウェイの森』と『東京シック・ブルース』は、時代と舞台の設定が共通してるだけじゃなくて作者同士も繋がっていたんですね。

 どうにか作家になった頃、雑誌「ダ・ヴィンチ」で村上春樹トリビュートという企画を知りました。
 第一弾の広告を見ながら僕も書いてみたいなあと思っていたところ、後になって本当に原稿依頼が来ました。慶応大学の教授でもある評論家の先生が僕を推薦してくださったんだそうですが、願い通りの展開にびっくりしつつ、もちろん二つ返事で依頼を受けました。

『海辺のカフカ』のトリビュート小説を書くことに決まり、村上春樹さんの作品を通じて知り合う人々を描くことにしました。
 彼らが『カフカ』を辿って四国に行き、旅先で昔の作家の業績に触れるようなストーリーを考えました。前に徳島を旅行中に知った賀川豊彦という作家をモデルにしようかと思って調べたところ、神戸生まれ・キリスト教の伝道者・関東大震災の救援活動と、次から次へと春樹作品に繋がるモチーフが見つかってびっくりしました。

 春樹作品がきっかけで仲良くなるカップルを書くことにして、男の方は僕の既出作品の登場人物を出して書き始めました。
 彼は世田谷に住んでいる設定だったので二人のデート場所を蘆花公園にして、取材として公園を訪れてみました。公園内にある徳冨蘆花の記念館にも入館し、蘆花の年表を眺めていたら、何の説明もなしに『賀川豊彦に出会う』という文章が出てきてびっくりしました。

 調べてみると、蘆花も豊彦もクリスチャンで、豊彦の作品に感激した蘆花が彼に会いに行って親しくなったことが分かりました。
 明治時代で最も売れた小説は蘆花の『不如帰』で、大正時代で最も売れた小説は豊彦の『死線を越えて』だったのだそうです。さらに付け加えれば昭和で最も売れた小説は『ノルウェイの森』ですから、ここにも不思議な繋がりがあるようでした。

 さらに調べてみると、蘆花と豊彦は疑似親子関係とでもいうような仲だったことが分かりました。
「僕の顔を覚えているか。親の顔を見ろ。親の顔を知らん者があるか」――豊彦と初めて会った時、蘆花がいきなり言った言葉だそうです。『海辺のカフカ』のカフカ少年を連想せずにはいられない言葉で、びっくりするのを通り越して感動さえ覚えました。

 そんな作家や本の繋がりへの驚きや感動を込めて、『図書館の水脈』を書きました。売れ行きはさっぱりだったようですが、作中にも登場する芦原すなおさんから推薦の言葉をいただけたのは望外の喜びでした。
竹内真
「この『奇譚』を寄せてくださった竹内真先生のHPはこちらです」
 http://www.asahi-net.or.jp/~hi3m-tkuc/

●死んだ祖母に聞いた話。満州で働いていた祖父は、終戦直前に応召し、その後すぐ、シベリアに抑留されました。祖母とその子どもたちは、祖父不在のまま満州の地を追われ、命からがら帰国、日本で祖父の戻りを待つことになったそうです。
 その後連絡がないまま10年が経ち、家族も生存をあきらめかけていたものの、「戦死」が決定的にならないと恩給がもらえないということで、貧しい生活を強いられていました。そんなある日、祖母がある夢を見たそうです。それは、ちゃんと生きていた祖父から「いまロシアを出たから」という手紙が来る夢。その翌日には「今、○○のあたりにいる」という手紙が来る夢を見ました。夢の中の手紙は、日々、日本に近づいてきます。
 そして、ついに「いま、韓国のあたりについた」という手紙が来た夢を見た朝、祖母は祖父が帰ってくる、と確信したそうです。その日、仕事にいかずに家にいると、誰かがドアをノックしました。
「帰ってきた!!」と思った祖母は、急いでドアを開けます。すると、そこには見たことのない男性が立っていたそうです。
「○○さんの奥様ですか?」と、男性は祖父の名前を言いました。その男性は、黒海近くのロストフにあった収容所で衛生兵をしており、祖父もそこの収容所にいた、と告げました。そして、「残念ながらご主人は、抑留された翌年にこの収容所で栄養失調と発疹チブスにより亡くなりました。この私の記録ノートに亡くなった方のことはみんな書いてあります。私は最近やっと帰国でき、こうして亡くなった方のご遺族にそれを知らせて歩いているのです」と言いました。
「あの夢は知らせだったんだね」と祖母は夢のことを言います。「私たち母子が、生活が苦しくても恩給をもらえない状況をおじいさんが天国で見ていて、それを夢で知らせてくれたんだよ。もうすぐ自分が死んだことをきちんと知らせてくれる人が現れるって」
 とても悲しかったけれども、その後祖母は国から恩給をもらえるようになって、少し楽になったそうです。

●私は昔大学に入るために上京し、同じクラスのある人にあこがれるようになりました。彼の名前は「木月」といいい、読み方はキズキさん(正確には、キヅキさんかも知れませんが)でした。当時は村上作品を読んだことがなかった(むしろ村上春樹を知らなかった)ので、その名前については何も思いませんでした。夏休みに入って、機会があって木月さんと会うことがありました。とても暑い日で、その日は夕方から実家に帰る予定の日でした。その場で、私は木月さんに付き合っている人がいることを知らされてしまいました。落ち込んだまま駅に向かって歩いている途中で、ふと実家に帰る飛行機の中で読む本でも買おうと本屋に立ち寄りました。そこで偶然手にとったのが、村上春樹の『ノルウェイの森』でした。『ノルウェイの森』というのがビートルズの曲であることも知らなかった(本当に当時は何も知らなかったな)ので、それが本当に「ノルウェイの森」の中で展開される物語だと思い、それならきっと涼しい気持ちになれるのではないかと思ったのがその本を買った理由でした。飛行機の中でそれを読み始めると、「キズキ」という名前の人物が登場したので、とても驚きました。そんなにありふれた名前でないのに、すごい偶然だなあと思いました。木月さんのことを考えているときに、「キズキ」という人物の登場する本と出会えたことは、私にとってはささやかな思い出となりました。
 その後、彼とは何の進展もなかったのですが、村上春樹については並大抵とは思えないほどはまってしまいました。何も知らなかった私は、多くのことを村上春樹の小説から学びました。あの日の偶然の出会いのおかげです。村上春樹は私版の『偶然の恋人』です。

●先日初めて常磐線に乗ったところ、突如車内灯が3秒間ほど消えてしまうという状況に出くわしました。おどろきました。周りを見回したのですが、他の乗客はみな平然としてその3秒間をやり過ごしていて、誰一人としてあわてたりおびえたりしている人はいませんでした。だから私も平静を装いました。でもなんだか不思議な経験でした。あれって、常磐線ではいつものことなのでしょうか。春樹さんのエッセイにも昔、地下鉄銀座線の車内灯が突如消える…という話があったのを思い出しました。常磐線における大猿の呪い。

●先日、猫が二匹電線を歩いていました。ほんとにほんとにびっくりしました。わたしは猫にくわしくないからもしかしたらよくあることなのかな?しっぽを緊張させながら歩いていました。

●寝坊しそうになると、祖母が夢に出てきて起こしてくれます。本当にありがたいです。ぶにゃあ

●もう、9年程前、横浜に居た頃の話です。当時、私は田舎を出て一人暮らしを強行していました。アパートから駅までの通りに、小さな森のようになった中を細い石の階段で降りて行く場所があったのですが、私はそこを通るのが大好きでした。ノラ猫ちゃんがたくさん居たからです。でも殆どのニャンは懐きません。石段の途中で小さなお寺のような建物があり、そこにホームレスのおじいさんが住んでいてそのおじいさんには、ニャン達はちゃんと寄って行くのです。もう羨ましくてしょうがなかったですが、私がこっそりキャットフードやお魚を置いておくと帰りには綺麗に空になってたりしました。おじいさんとは、ニャンを間にはさんで微笑んだりした事が何度かあるけれど話した事はありませんでした。半年くらいそんな楽しいニャンライフが生活の一部になってました。ところが、ある冬の朝に、いつも境内の隅っこに置いてあったおじいさんの毛布や着替えの荷物が、無くなっていました。その時予感した通り、それ以来おじいさんにあうことはできませんでした。私は少し寂しくなって、ニャン達に無理矢理すり寄っていました。
 ところが、次の日、その場所からニャンが居なくなったのです。みんな消えてしまいました。なんでか全然分かりません。そして、近くに住んでいるバイトの友達にその話をすると、「もう長い事この辺に住んでるし、あそこも通るけどそんなおじいさんも、そんなにたくさんの猫も見た事がない」と言われて唖然としました。ニャンは隠れたとしても、おじいさんはどうなるか???? 本当に居たとは思うのです。友達の間違いかもしれないしとも。でも何でそういう事になったのか、全く分かりません。今はそんなに思い出す事もないですけど。
新妻エンジョイ 26歳

●東京都内に住んでいた頃の話です。その日は短大の課外授業で、江戸探索と称し、浅草方面を巡る事になっていました。昼、自由行動で食事をしても良いという事になり、隅田川沿いの某ビルに行きました。並んでいるとウエイターに「何名様ですか?」と尋ねられたので、「7人です。」と答えました。するとウエイターは怪訝な顔をし、人数を確認し始めました。「本当に、本当に7人でよろしいんですね!」「そうですよ。」ちょっと強めの押し問答を数回繰り返し、私達は中に通されました。しかし椅子も、水やおしぼりも、取り皿等も、1つ多いままでした。そんな対応を不思議に感じていると、押し問答をしたウエイターが店の隅で他のウエイター達とヒソヒソ話しながら、こちらを指差し人数確認をしている姿が見えました。 取り敢えず昼食を済ませ、私のほか異変に気付いたもう一人と打ち合わせをし、今度は某茶屋に向かいました。皆座敷に座り、そこにお茶を持って来た元気のいい店のオバサンの一言で、私達は自分達の身に何が起きているのかを知る事となりました。
「あ~らお姉さん達、8人だと思ったら7人だったのね~。」
 一人多い!!そんなおかしな状況に寒気はしたものの、興味も湧きました。そして授業が終了したら、この7人でもう1回別の喫茶店に入ってみようという事になりました。今度は皆が異常に気付いている中、適当な1軒を探し、兎に角入って行きました。ウエイトレスが私達の数を数え、中に案内する。怖い反面、結果に7人皆ワクワクしていました。先ず、椅子は1つ多い。やがてウエイトレスが、水とおしぼりを持って来ました。やはり8人分!1つ多い状態です。オーダーを取るウエイトレスも、7人分しか頼まない私達に「それでよろしいんですか?」と尋ねる始末…。
 7人は、浅草の駅でそれぞれ帰る方面別に分かれましたが、皆自分が一人多いのでは嫌だと思っていたのでしょう。翌日聞いた話によると、家に着く前に再び喫茶店に寄って人数確認をしたそうです。勿論、私も。
 結局、一人多い状態の者はいませんでした。浅草方面にいた、その時だけの現象だった様です。一体どんな人(掛けられた言葉から推測すると、自分達と同じくらいの女性だった様ですが)がいたのか? お店の人達に尋ねてみたかったなぁと後々思いましたが、尋ねられた側も困りますよね。まさか自分には見えている人が、私達には見えていない・存在しない人だなんて、知りたくはないでしょうから……。
ぱたちゃん

●怖い話をしていると、霊が集まって来るとは言いますが……。その日、地元ラジオ局は「夏の怪談話」を放送していました。リスナーから寄せられた、数多くの話をパーソナリティーが読んでいました。その中の1通……。それが読み始められた途端、私は髪の毛も産毛も逆立たんばかりの寒気に襲われました。その異常な恐怖感に耐え切れず、相手に聞こえる筈もないのですが、私はラジオに向かって叫んでしまいました。
「○ちゃん、止しなっ!!その話ヤバイっっ!!」(注:○ちゃんとは、パーソナリティーの愛称)
 そう叫んだ途端、ビーーッ!ガガガガガガガガッ!!!!! 聴いていたラジオから、けたたましい音が鳴りました。雷の雑音でも、そんな大きな異常音になった事はありません。その雑音が終わると、今度はガチャン!私には、ラジオ本体が少し揺れた様に見えました。そして、シーン。全ての音が消えました。勿論、ラジオの放送音声も。静けさだけが部屋を支配する状況になり、何が起きたのか理解出来ずにいましたが、取り敢えずラジオ本体に近付きスイッチの状態を見て、私は真っ青になりました。指で力を入れなければスイッチは動かない様な、旧式のラジオです。そのスイッチが、誰も触れていないのに「ONからOFFに横移動していた」のでした。恐る恐る、改めてスイッチをONにすると、危険だと感じたメッセージの読みは終了していました。以降ラジオで怖い話特集があっても、こんな不思議な事は起きていませんが、今思い出しても、スイッチの移動の説明がつかない不思議な出来事です。
ぱたちゃん

●僕が高校生のときによく通った喫茶店のオーナーさんと飲んでいたとき、そのオーナーさんが突然に僕を指差して、「お前は年上の女で苦労する!!」と叫びました。その理由はわからないまま、そのオーナーさんは1年後に病気で亡くなりました。その後、僕が会社に就職したとき、最初の上司が性格のキツ~い女性で、と~っても苦労しました。その後も年上の女性に片思いし、今また、上司が気難しい女性で、とーっても大変です。あれは呪いだったのか???

●5歳の時にたまたま未来の記憶をえる方法を発見して、ある人たちに予言して見せたのですが。最初にあたった予言が村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のタイトルでした。

●奇譚というほど奇妙ではないですが、私が飼っているビーグル犬(マイルス)が1歳ごろのときの話です。日中は私も主人も仕事でいないので、マイルスが一人で留守番することが多く、不安なためか家中のふすまを破いたりそこら中におしっこをしたりと大変な時期でした。ちょうど仕事を変わったばかりのときで仕事にも、帰ってからの後始末にも疲れる毎日を送っていました。そんなある日マイルスと一緒にお昼寝をしていたら夢にマイルスが出てきて「何もお手伝いできなくてごめんね」と言うのです。思わず「いいよ。マイルスはいるだけでいいよ。」と答えましたがマイルスの声が伝わるというよりも、思いが声になったような、テレパシーとはこういうことなのか、という感覚がしました。それからそのころに飼っていたハムスターはジャコ(ジャコ・パストリアス)は家出してしまい帰ってきませんでした。
わかめちゃん

●私がまだ17歳だった時の出来事です。当時私は地元市内の山の上にある高校に自転車通学していたのですが、ある日いつものように近所に住む友達と、自転車を漕ぎこぎ喋りながら登校している時でした。私が口を大きく開けて笑った瞬間、空気の固まりのようなものが「バフッ」という音と共にのどの奥に入って来ました。入ってきたと同時に、なんと言うか、臭い、いやらしい臭いが口の中に立ち籠めました。私は何が起こったのか分からず、必死に臭い空気の固まりを吐き出そうともがいたのですが全く出て来ず、何か悪い霊でも飲み込んでしまったのではないかと苦痛に顔を歪めました。その時一緒にいた友人に言ってもピンとこない顔をされるだけでしたし、その後も実体のない何ものかの説明が出来ずにかれこれ12年も経ちます。あれが今も私の中に浸透して居続けているのかと思うと、とても悔しいです。

●軒先から滴る水音はいつもよりも強く大きく聞こえる。その音は近いうちに訪れるはずの春を思わせた。その日くるぶしまでのゴム靴を濡らしながら歩く、図書館からの帰り道にそれを見つけた。長く寒い季節の間に高く降り固まった歩道脇の雪は、太陽の熱に表面が緩み始めていた。雪山に残された落し物は意外に多く、片方だけの手袋、除雪車に巻き込まれ砕けた自転車の部品、誰かの名札…。
「ボタンだろうか。」鈍く光るいくつかの丸いものを、雪山に見つけた私は思った。
 近づいてよく見ると数個の小銭。小銭の上に覆う雪を指の平で溶かしてそれをほじりだす。数回その作業を繰り返し、私は231円を拾った。
「なんて半端なのだろう。」そう思いつつ財布にしまう。その夜とっくの昔に別れた人から電話が掛かってきた。
「今仕事でこっちに来ているんだ。ごめん、細かいのがないからコレクトコールしてもいいかな。」携帯電話が一部の人の物であった頃の話だ。私は何かを期待しつつ何も期待できない心持ちで再度電話の鳴るのを待った。
 かくして電話は鳴ったものの、4年も前に別れた人との会話はさしたる盛り上がりもなく、お互い次の言葉を見つけられないのを機に、受話器を置いた。
 電話なんてしてこなくていいのに。
 少しの後3度目の電話の呼び出しが鳴り、あわてて受話器を取り上げる。
「ご利用料金は、231円です。」夜に似つかわしくない明るさの声が、そう告げた。

●両手に“ますかけせん”の手相を持つ父は、幼い頃、重い喘息のため別の世界へ行きかけたことがあります。向こう側の明るい光に向かって暗い山道を歩いていたところ、背後の暗闇から自分の名前を呼ぶ両親の声が聞こえたので、「暗くて嫌だな」と思いながらも踵を返して戻ったら生き返ったそうです。その後も時々、お亡くなりになった知り合いなどが枕元に立つなどの経験を積んだ(?)のですが、18年生きた我が家の愛犬がなくなった時は、何キロも遠く離れた場所にいたのにも関わらず愛犬の鳴き声を聴き、家族の誰よりも先に犬が他界したことを“実感”し、事実を確認する前に家族へその死を電話で知らせてくれました。
 普段から独自の道を歩む父のパートナーである母は、3人目を出産する直前に、某国を治めた世界的有名な故人が夢に出てきて「我が子をたのむ」と言われました。3人目を出産した時にはじめて、「お腹の中にもう1人いる」と言われ、4人目が生まれました。双子だということを本人はもちろん病院の先生も知らなかったので、(検査では分からなかったそうです)かなり驚いたそうです。長男、長女と続いていたので、3人目は「どちらでも良い」と思っていたら、男女の双子が誕生したわけです。世界的有名な故人の子供かどうかはわかりませんが、私の姉弟である双子はとても仲良しで、お互いに遠く離れていても同時に同じ物を食べたり、あるいは遠い街中で偶然会ったりしています。双子のテレパシーもなかなかのものです。
まるみ。

●幼稚園のとき、恥ずかしいですけど実はまだおねしょをしていたんです。そのときのお盆に起こったちょっと不思議な話です。
 おねしょをしちゃうと朝シャワーをしなくちゃいけなくて、そしてお盆にはたくさん親戚がおしかけるので、どうしようなあ、ばれたらそりゃ生きていけないだろうな、と困っていました。その親戚が泊まるその日、緊張のまま夜をむかえ、たのんますどうかおねしょしないで、と祈りながら眠りました。そしたらその夜中、肩をトンと軽く叩かれて目が覚め、「あー、お父さんがトイレに起こしたんだ。眠いのによー。まだ大丈夫なのに、くそー」というようなことを思い、「はい、はい」と返事をして起き上がったのですが、なんと、周りには誰も居なかった!きゃー怖い。しかし、なぜかその次の朝はおねしょしていなかったのです。そして、お盆が過ぎたらまたおねしょが繰り返されたのです。そのおねしょが無かった朝はご先祖様が願いを叶えてくれたとすごく喜んでいました。さらさらの自分のパジャマとパンツとシーツがとても嬉しかったのを覚えています。きっとこのまま私は大人の階段をのぼるのだわ、とほっとしてちょっとうきうきしていたのですが、どうやらご先祖が天国に帰られたら魔法は解けてしまったようで、その後数年にも及ぶおねしょと苦悩の戦いを続けました。どうせなら永遠に止めてくれたらよかったのによ、ちっ。幸いなことに今はさすがにしていませんが、勝手にご先祖様のせいにしてしまってぶり返さないことを祈ります。つまんない話でごめんなさい。
ユウ

●小学校低学年の頃のことです。小さな井戸があり、その上には木の蓋がしてありました。オカダは、何気なくその上に腰をおろしたのですが、その途端蓋がまっぷたつに割れ、井戸の中に落ちてしまいました。だんだん意識が薄れていきました。
 そして気がつくと、オカダは病院の手術台の上に寝ていました。おぼろげな意識の中でわかったのは、どうやらお腹の手術を受けたようだということでした。しかし、またすぐ意識が薄れていきました。
 それからしばらくして、「ノボル」と何度も呼ぶ声が聞こえ、気がつくと、ずぶ濡れのまま父親に抱きかかえられていました。どうやら父親が助けてくれたようでした。
 その後、手術を受けた夢を見たことを父に話すと、父は、オカダが2歳のときにお腹の手術を受けたことがあるという話を初めて聞かせてくれました。病院の手術台での様子は、夢というよりは思い出のように鮮明なものだったので、もしかしたら、井戸に落ちた拍子に封印されていた記憶が甦ったのかもしれません。

●わたしは平成15年11月に親友を難病で亡くしたのですが、亡くなる前日、入院している親友へ携帯メールで「頑張ってね!はやく元気になって会いましょうね!」と送りました。次の日の午前中、「はやく元気になるように頑張るね。ありがとう、ありがとう。大好きなsognoちゃん」とメールが来ました。わたしはそのメールに対してお返事しようと思ったのですが、仕事があったりとか、忙しくて夜にでもまたメールしようと思っていたのです。
 その日の夜9時に容態が急変して帰らぬ人となってしまったのですが、そうとは知らず、メールの返事も次の日にしようと思ってしませんでした。今、考えると最期の言葉に対して、どうして何か言ってあげられなかったのかと後悔の一言です。
 で、偶然なのですが、亡くなった日がわたしの誕生月で、なんと、その親友の相方の誕生日当日でした。「いつまでもわたしの事を忘れないでね」ってことでしょうか……。
sogno

●僕が小学3年か4年生頃の話です。僕は当時剣道を習っていて、週に2,3回近所の小学校の体育館で稽古を受けていました。その日もいつもどおり竹刀を肩に掛け、防具を背負って小学校に向かっているところでした。夜の7時頃です。学校の周りというのは街灯が少ないので夜になるとずいぶん暗くなります。人通りも少なくなります。僕は怖がりだったのでいつも体育館に行くまでの道のりが嫌でした。意味も無く背後が気になったりして何度もそおっと振り向いたりしていました。
 学校の駐車場を通って正門を横切り、もうすぐ体育館の入り口が見えるというあたりで、突然道路の方からがたがたがた、という音が聞こえたので僕はふっとそちらに目をやりました。するとショッピングカートが道路を走っていました。スーパーで買い物かごをのせるショッピングカートがひとりでに走っていたのです。僕はわけがわかりませんでした。周りには誰もいません。その時は自動車は一台も走っていませんでした。スーパーマーケットだってこの辺りにはありません。でもそんなことは重要ではありません。怖がりの僕にとってもっとも重要なことは、ひとりでに走っているということです。これはもう幽霊のしわざとしか思えません。そのことを悟った瞬間僕は絶叫し、弾丸のように駆け出しました。体育館まで全力で走りました。ほんとうに必死で走りました。防具の重さなんて完全に忘れていました。
 ショッピングカートに連れ去られることなくなんとか無事に体育館へ辿り着いた僕は息も切れ切れにこのことを友だちに話しました。でもみんな少し笑うだけで、あまり真剣に聞いてくれません。僕は不満でした。なんでみんなもっと驚いたり怖がったりしてくれないんだろうと思いました。おそらくこれは走っていたのがショッピングカートだからだと僕は思うのです。つまり迫力に欠けるのです。これが無人トラックとか首なしライダーを乗せたバイクとかだったらもっと心霊体験としての説得力があって、みんな真剣に話を聞いてくれたのではないかと思うのです。残念です。
 でも今になって改めて考えて見ると、本当に幽霊のしわざだったかどうかはちょっと疑問です。だってショッピングカートにとりつく幽霊なんて聞いたこともないですから。ショッピングカートの正面衝突事故で不慮の死を遂げた主婦の霊が夜な夜な学校前の道路でスーパーを探しさまよう……なんてことはないでしょう。おそらく。
 ということは、もしかするとショッピングカートはほんとうにひとりで走っていたのかもしれません。毎日毎日長ネギやらアジの開きやらをのせてお店の中をぐるぐる廻るだけの人生とはいったいどんな感じなんでしょう。僕が見たのは、「やっぱシャバの空気はいいぜ」とか言いながら内緒で公道を走ってリフレッシュしている一台のショッピングカートだったのかもしれません。

●ぼくが小学生だった時、とんでもないモノを見た話をします。ぼくは学校に行くため、とても朝早くから家を出て、一人でふらふらと駅前を歩いていると、道路の向こう側にきらびやかな衣装をした山伏が立っておりました。その山伏は、山伏らしい山伏で、日々の修行がうかがえるような日に焼けた黒い肌と痩せた体で、腰には法螺貝があり、頭には「六角形のあの帽子」がのっかっていました。もちろん、山伏を見たのは初めての体験で、まさかこのような地元で出会えるとは思っても見ませんでした。珍しいので、じっと見ていると、ふと、山伏は手を合わせました。そして、走ってきた車に突っ込んでいったのです。車は、ギリギリ所で山伏をよけきったかに見えたのですが、山伏の左足をかすっていったようです。山伏は左足をなでながら、ぼくの目の前で、怒りながら、何かわけのわからない事を言っています。車の方もようやく状況を飲み込みはじめたようで、山伏を見捨て、急発進して逃げていきました。山伏は車のナンバーを大きな声で何度も言いながら、ぼくにふと目を向けたかと思うと、左足の事を気にもせず、軽やかに走り去ってしまいました。
 果たして、この山伏は一種の修行をしようとしていたのか、あるいは単に生活を苦に、慰謝料をふんだくろうとしたのか、小学生の頃のぼくにとって理解できない「奇譚」でした。
アツシ

●今から十数年前、不思議なことがありました。その頃全国的に知られるようになった東京西部の街に住んでいました。ほぼ毎日かあるいは二日に一度は街の中心まで買い物に出掛けていたときのことです。その日もいつもと同じように、駅から街道まで北に延びたアーケード街の出口近くにある大手スーパーまで用事があり出かけました。家からはどの路もたいていは混んでいるので、その時々の様子ですいたところを選んで行くようにしていました。
 デパートとお寺の前の歩道を歩いているとき、これから行こうとしているアーケードの方から来た、ベビーカーを押した女の人とすれ違いました。急いででもいるのか、正面だけを見て脇目もふらず歩いて行く様子に、ほんの少しだけ変な感じがしましたが、気にも止めずにいました。そのまま私はアーケードへ出てスーパーへ歩いて行きました。急ぎもノンビリもせず、普通の早さだったと思いますが、ただ妊娠中でお腹が大きく辛かったので多少ゆっくりめだったかもしれません。
 スーパーまでもう少しというところで、さっきの女の人が同じようにベビーカーを押して同じ様な様子で街道のほうから歩いて来るのを見て、距離的に不可能なことなので、あれ? と思いました。その人は他の通行人や買い物客と同じように普通の人に見えたせいか、その時は深く考えずにいましたが、用事をすませて家に帰った後、やはりこの世の存在ではなかったのではないかと思いました。今から考えると、その頃の私は身心もまた身の回りの状況もかなり変だったので、私自身が短い間だけ違う世界に足を踏み入れていたのかもしれません。
ruka

●大学生の時、自分の部屋の布団に仰向けに寝ていたら、金縛りになりました。金縛りは初めてではないので、どうでもいいやと思ってそのまま倒れていましたが、次の瞬間、突然、自分の体が音もなく左に転がり始めたのです。しかも、僕の体は布団から転げ落ちるのではなく、回転しながら布団にめり込んでいっているようなのです。ちょうど、体の中心に通した軸をバーベキュー的にぐりぐりと回されているような感覚といえばいいでしょうか。そういう雰囲気で回転が続くうちに、ついに左目から布団の中に突入しました。「下の部屋でも見えると面白いのに…」と思っていましたが、布団の中はなぜか真っ暗で何も見えません。しばらくその状態が続き、やがて夜明けのように、また左側から部屋の風景が現れてきました。そして「2周目もあるかも」という淡い期待をよそに、ちょうど1周したところで回転は止まりました。同時に、体も自由になりました。
 起きあがった僕は、隣の部屋にいた弟にさっそくこの怪奇現象について熱く語りましたが、全然感心してもらえませんでした。幽体離脱の話はよく聞きますが、布団にめり込むタイプはまだ聞いたことがありません。しかも、せめて2度3度と経験できれば、いろいろ実験もできたのでしょうが、幽体離脱と名の付きそうな体験は、今に至るまでこれっきりです。何かみっともなくて、あまり人には話さなかったのですが、「奇譚募集」につられていそいそと書いてみました。
 ところで、どうせ回転するなら「バーベキュー型」ではなく「逆上がり型」の方がよかったなあと思います。逆上がりなら下の階の天井から頭ぐらいは出たはずなので、親を仰天させることはできたと思うのですが…。

●悲しいことがあったり、ひどく落ち込むようなことが起こった時、なぜか必ず春樹さんの新刊が出版されます。もちろん元気な時も出版されましたけれど、生半可には太刀打ちできないようなピンチの時は、いつも絶対にそうでした。わたしの人生に起こったことと、春樹さんの本の内容には、特別関わりはないのですが、それでも何度も、何度も、救われました。でも本当に時々、どこからか誰かが見ていて、バランスをとってくれているんじゃないかな~と感じます。
本屋のげっ歯類より

●以前、たまたま霊感の強い人と話す機会があり、ソウルメイトが分かるというので、ちょっと聞いてみた事があります。私のソウルメイトはおじさんで、もう既に出会っていて、絵の先生とのこと。美術大学(油絵科)に行った私は、それなりに何人もの絵の先生についているので、どの先生の事か分かりません。
「おかしいわねぇ、ソウルメイトと出会うと強烈な印象に残るはずなんだけど…。」それに、今も特に先生についてないし…。「きっともう役割を終えて離れたんじゃないかしら」あと、彫刻を描いているところが見えたそうです。彫刻なんて描かないしなぁ。結局誰か分からないままその人とはお別れしました。この先お会いする事もないでしょう。ソウルメイトがいるとしたら絶対、ある親しい女友達だと思っていた私はがっかり。それで、その事はすっかり忘れていたのですが…その夜ハッと思い出しました。“彫刻”って石膏の事だ!M先生だ!
 絵の先生で一番印象に残っている人はというと、美大受験の研究所のM先生です。彼はちょっとした名物先生で、持て余されてる浪人生は彼の担当。先生にかかればなんとかなるらしい(噂ですが)。で、受験直前、現役生だった私も先生に教わりました。その先生はやたら同じ事を繰り返し言います。「お前達は見てない。見てると思い込んでいるだけだ。」やたら“見ろ”と言われます。そんな事言われても、見てるよ。禅問答だよ。と思っていたのですが、ある時、そんなに言うならとことん“見て”やろうと思い、やってみました。そうしたら…
 描けた!絵の成績の悪かった私が、20人ぐらいごぼう抜きして上に行きました。まわりの人にもあなたが描いた絵だと思わなかったと驚かれました。それで、その勢いで大学に合格したのでした。つまりは言葉にできない「見る」という感覚を教えてもらったのです。その時の事は鮮明に記憶に残っていて。研究所を離れてからはお会いしていませんが、他にもいろいろあり尊敬しています。
 で、まぁ、話は戻りますが、照らし合わせてみると合ってるわけです。ちなみに霊感の強い彼女は私が絵を描いてた事を全然知らないまま、それを言いました。 そんなのあほな話といえばそれまでですが、思い出の中で、とても大事で尊敬している先生がオトモダチで嬉しく、私にとってはちょっといい話なのでした。
牡丹

●話は5年前です。私は春樹さんのメーリングリストに所属しているのですが、そのメンバー数人で集まって、関西でオフ会をすることになりました。私が一応案内役です。
 その日はまず最初に『羊をめぐる冒険』で「僕」が空き缶を投げたと思われる芦屋浜の埋め立てられた場所(ここは50mの砂浜でもあると思っているのですが)にみんなで行って、缶ビールやら缶コーヒーやらを飲んだり(缶は投げずにちゃんと捨てました)して、しばし『羊』の世界に浸ったあと、なんとなく歩いて芦屋市立美術博物館に行ってみました。そうすると、「写真で見る芦屋今むかし」という展示をやっていたので入ってみることにしたのです。
 入ってみると、一般市民の応募した「描かれた芦屋風景」っていう風景画展もやっていたので、せっかくなので一通り見ていると、一つ、絵ではなくてオブジェとしか言いようのないものがあって、そこには「村上春樹」の文字が。そのオブジェには「50mの砂浜を探していたんだ」というようなことが書かれていました。そのオブジェには、J's Barを思わせるようなバーの写真も使われていて、この人はハルキストに違いないから、この人を探し出そう、とか次のオフ会はここだ、とか勝手なことを言ったりしてました。
 そのあと、本命の写真展を見学。春樹さんが子供のころの芦屋の写真をたくさん見ることができました。で、芦屋浜ではいわし漁をしてたことなんかを知って、「それでいわしなのか!」と妙に(勝手に)納得したりしました。
 その後、なんやかやいろいろとあって(トアロードデリカテッセンでサンドウイッチを食べたりとか)、その日の夕方、私は東京へ戻る他のメンバーと新神戸駅でお別れし、三宮に戻るために歩いていました。
 ふと見ると、あるお店に芦屋で見たオブジェとよく似たものを発見。個展をやっているようだったのでのぞいてみると、作者さん(女性)がいらっしゃいました。尋ねると、芦屋にあったオブジェの作者さんでもあるとのこと。ものすごい偶然に、二人して驚いたものです。春樹さんが導いてくれたご縁でした。ちなみにその女性は、あとで知ったのですが、私の同僚の友人(元彼女)でした。世の中って狭いもんですね。
冬眠前のメス熊

●私の実家は東北で、父が若い頃に、東京に集団就職していたという話は聞いていた。でも住んでいた場所が相模原だったとは、1度も聞いたことが無かった。父は30歳前に実家に戻って、家の家業を継いで結婚し、私が生まれた。
 私は18歳の時に、実家を出てから、色んな場所で暮らした。仙台、栃木、箱根、長野…。そして、一目惚れした相手を追いかけてきて、住んだ場所が相模原!! しかもすごく居心地が良いので、定住している。
 父が若い頃に過ごしていた場所だとは、自分達が住み始めてから知った。父も私も妹もビックリ!!
 これが遺伝子というものなのだろうか…。
46判/ハードカバー/212頁/1,760円(定価)/■978-4-10-353418-1   

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