【書評】 新世代の「希望」  榎本正樹
 朝井リョウのデビュー作『桐島、部活やめるってよ』(二〇一〇年)を、読んだときの衝撃を忘れることができない。語り手が章ごとに切り替わる趣向、正確かつ緻密でありつつ叙情性に満ちた文体、劇的な物語構成、そしてベケットの『ゴドーを待ちながら』さながらの「中心の不在」のテーマ。新人作家とは思えない技巧と叙述の精度に裏打ちされた確かな文学世界がそこにはあった。
 その後も、大学男子チアリーディングチームの青春群像を描いた『チア男子!!』(同)、喫茶店を営む七人家族にある奇跡が訪れる『星やどりの声』(二〇一一年)、等身大の十九歳の青春の風景を綴った『もういちど生まれる』(同)、卒業を間近に控えた少女たちの思春期の揺らぎを活写した『少女は卒業しない』(二〇一二年)へと続くことになる。
 大学時代に朝井が発表した以上五作は、高校生や大学生が主人公の青春小説の体裁をとっている。朝井作品は私小説的なリアリズムから切り離されているので、作中の叙述をそのまま作者の経験に直結させて考えることはできない。しかし作者に近い世代を登場人物に設定する朝井の方法が、朝井と同年代の若者たちに照準を当てたライフスタイル小説としての構成を意図していることは一方の事実として指摘できる。
『何者』は、大学を卒業し、就職し、兼業作家となった朝井による、社会人初の書き下ろし長編小説である。朝井はエッセイ集『学生時代にやらなくてもいい20のこと』(二〇一二年)の中で、みずからの就職活動について書き記しているが、本作はその実作ヴァージョンといえる。
 世には「就活小説」と命名可能なジャンルが存在している。ゼロ年代以降に限定すると、三浦しをん『格闘する者に○』(二〇〇〇年)や、生田紗代『タイムカプセル』(二〇〇四年)、石田衣良『シューカツ!』(二〇〇八年)、羽田圭介『「ワタクシハ」』(二〇一一年)などの作品をあげることができる。各作品には、その時代時代の就活事情が反映されているが、『何者』において顕著なのは、ツイッターやフェイスブックに代表されるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)によって情報武装し、自己表現し、他者とつながり合おうとする若者たちの痛ましくも切実な姿である。
 朝井作品といえば、作品同士が微妙に絡む短編連作をイメージするが、本作では大学生の「俺」(二宮拓人)を主人公=語り手にした、作者初の一人称小説の形式がとられている。拓人とルームシェアの相手である神谷光太郎、光太郎の元恋人の田名部瑞月、そして瑞月の友人の小早川理香ら、拓人と同じ大学に通う三人の仲間との就活模様が、拓人の視点ですくい取られていく。
 エントリーシートの提出に始まり、WEBテスト、集団面接、筆記試験を経て、グループディスカッション、個人面接に到る、就活情報小説としての基本構造が、作品世界のリアリティを支えている。
 大学生にとって、ネットは重要な就活ツールになっているが、本作は就活の武器としてネットを駆使する世代による使いこなしのマニュアルにとどまらない。物語はさらにその先を描く。若者特有の「自分ではない何者かになりたい」との茫漠たる自己実現の願望がネット環境と結びつくことで、自己愛を増幅させ、その結果、他者との関係に軋轢を生じさせていくプロセスそのものが主題化されている。就活小説として始まった『何者』は、ネット環境がもたらすコミュニケーションと個人の心性(メンタリティ)の関係の変容を測量した社会小説として再定義されるのである。
 物語の結末近く、仲間が次々と内定を決める中で面接に落ち続ける一人が「痛くて、カッコ悪い姿であがき続ける」ことの意味を説く場面は、強く深く心に刺さってくる。諦念を帯びた「何者かになんてなれない」という自己認識からの出発こそに、人生の可能性もまた広がりうる。その意味において『何者』は、この時代の「希望」の根拠を逆説的に明らかにする。デビュー以来、青春小説、家族小説を書き続けてきた朝井が、これまでの世界をみずからの手で突き崩し、新たな場所へと向かおうとしている。『何者』は、そのような作者の意志と決意の書である。

(えのもと・まさき 文芸評論家)


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