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〔上〕740円
〔下〕780円

第24章

 神戸を出発したバスが徳島駅前に停まったとき、時刻は既に夜の8時をまわっていた。
「さて、ここはもう四国だよ、ナカタさん」
「はい。とても立派な橋でありました。ナカタはあんなに大きな橋を見たのは初めてであります」とナカタさんは言った。
 二人はバスを降り、駅のベンチに座って、しばらく何をするともなくあたりの風景を眺めていた。
「それで、これからどこに行って何をするか、お告げみたいなのはあったのかい?」と青年は尋ねた。
「いいえ。ナカタには相変わらず皆目わかりません」
「それは困ったね」
 ナカタさんは何かを考えるように手のひらで長いあいだ頭をさすっていた。
「ホシノさん」と彼は言った。
「なんだい?」
「申し訳ありませんが、ナカタは眠りたいと思います。ひどく眠いのです。ここでこのまま眠り込んでしまいそうなくらいであります」
「ちょっと待ちなよ」と青年はあわてて言った。「ここで眠り込まれると、俺としても困るんだ。すぐに泊まるところを探すからさ、ちと我慢してくれよ」
「はい。ナカタは少し我慢して眠らないようにします」
「よう、メシはどうする?」
「食事はいりません。眠りたいだけであります」
 星野青年は急いで観光案内を調べ、朝食つきのあまり値段の高くない旅館をみつけ、電話で部屋の空きがあることをたしかめた。旅館は駅から少し離れたところにあったので、二人はタクシーを拾ってそこに行った。そして部屋に入るとすぐに女中さんに布団を敷いてもらった。ナカタさんは風呂にも入らず、服を脱いで布団の中に潜り込み、次の瞬間には既に安らかな寝息をたてていた。
「ナカタはたぶん長く眠ると思いますが、気になさらないでください。ただ眠っておるだけですので」と寝る前にナカタさんは言った。
「ああ、邪魔はしねえからさ、好きなだけ眠りなよ」と青年はあっという間もなく熟睡しているナカタさんに声をかけた。
 星野青年はゆっくりと風呂に入り、そのあと一人で街に出た。しばらくあたりをあてもなく散歩をして、町の感じをだいたいつかんでから目についた寿司屋に入り、ビールを一本飲み、食事をした。青年はあまり酒に強い方ではなく、ビールの中瓶一本で気持ちが良くなり、頬が赤くなった。それからパチンコ屋に入り、一時間ほどかけて3000円使った。そのあいだずっと中日ドラゴンズの帽子をかぶっていたので、何人もの人が珍しそうに彼の顔を見た。徳島で中日ドラゴンズの帽子をかぶって表を歩いているのはたぶん俺くらいのものなのだろうなと青年は思った。
 旅館に戻ると、ナカタさんは最後に見たときと同じ姿勢で熟睡していた。部屋には明かりがついていたが、そんなものは寝ることの邪魔にはまったくならないようだった。この人は気楽でいいや、と青年は思った。それから帽子をとり、アロハシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、下着だけになって布団の中に潜り込んだ。そして明かりを消す。しかし場所が変わって気が高ぶっているのか、なかなか寝つけなかった。やれやれ、これなら風俗にでも行って女の子に一発抜いてもらえばよかったかなと、彼は思った。でも暗がりの中でナカタさんの立てる安らかで規則的な寝息を聞いているうちに、性欲を抱いたりすることがきわめて不適切な行為であるように思えてきた。何故かは自分でもよくわからないけれど、風俗店に行けばよかったなどという考えを起こしたこと自体を、青年は恥じた。
 眠れないまま部屋の暗い天井を眺めていると、素性のわからない奇妙な老人と二人で徳島市内の安旅館に泊まっている自分という存在に、だんだん確信がもてなくなってきた。本来なら今夜は東京行きの帰りの便を運転しているところだった。今頃はたぶん名古屋あたりを走っているはずだ。彼は仕事が嫌いではなかったし、東京には電話をかければ会ってくれる女友だちもいる。でも彼はデパートに品物の納入を済ませたあと、ほとんど衝動的に神戸にいる仕事仲間に連絡を取り、今夜の東京行きの運転を代行してもらった。会社に電話を入れて、強引に3日ばかりの休暇をとり、その足でナカタさんと一緒に四国までやってきた。小さなバッグにはとりあえずの着替えと洗面用具が入っているだけだ。
 そもそも星野青年がナカタさんに興味を持ったのは、彼の風貌やしゃべり方が死んだじいちゃんに似ていたからだった。でもしばらくすると、じいちゃんと似ているという印象はどんどん薄れていき、青年はむしろナカタさんという人間そのものに好奇心を抱くようになった。ナカタさんのしゃべり方はたしかにかなりずれていたし、しゃべる内容はそれ以上にずれていた。しかしそのずれ方には、何かしら人の心を引きつけるものがあった。彼はナカタさんという人間がこれからどこに行って何をするのか、知りたいと思った。