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〔上〕740円
〔下〕780円


カラスと呼ばれる少年

「それで、お金のことはなんとかなったんだね?」とカラスと呼ばれる少年は言う。いくぶんのっそりとした、いつものしゃべりかただ。深い眠りから目覚めたばかりで、口の筋肉が重くてまだうまく動かないときのような。でもそれはそぶりみたいなもので、じっさいには隅から隅まで目覚めている。いつもと同じように。
 僕はうなずく。
「どれくらい?」
 もう一度頭の中で数字を確認してから、僕は答える。「現金が40万ほど。そのほかにカードで出せる銀行預金も少し。もちろんじゅうぶんとは言えないけど、とりあえずはなんとかなるんじゃないかな」
「まあ悪くない」とカラスと呼ばれる少年は言う。「とりあえずはね」
 僕はうなずく。
「でもそれは去年のクリスマスにサンタクロースがくれたお金じゃなさそうだね」と彼は言う。
「ちがう」と僕は言う。
 カラスと呼ばれる少年は皮肉っぽく、唇を軽く曲げてあたりを見まわす。「出どころはこのあたりの誰かの引き出し──というところかな?」
 僕は返事をしない。もちろん彼は最初からそれがどういう金なのかを知っている。まわりくどい質問をするまでもなく。そういう言いかたをして僕をからかっているだけだ。
「まあいいさ」とカラスと呼ばれる少年は言う。「君はそのお金を必要としている。切実にね。そして君はそれを手に入れる。借りる、黙って拝借する、盗む……なんでもいい。どのみち君の父親のお金だ。それだけあればとりあえずはなんとかなるだろう。でも、その40万円だかなんだかを使い切ってしまったときはどうするつもりなんだい? だって財布に入れたお金が、森のきのこみたいに自然に増えていくわけはないんだからさ。君には食べるものも必要だし、寝るところも必要だ。お金はいつかなくなる」
「そのときはそのときで考える」と僕は言う。
「そのときはそのときで考える」と少年は手のひらにのせて重みをはかるみたいに、僕の言葉をそのまま繰りかえす。
 僕はうなずく。
「たとえば仕事をみつけるとか?」
「たぶんね」と僕は言う。
 カラスと呼ばれる少年は首を振る。「ねえ、君はもっと世間ってものを知らなくちゃいけないよ。だってさ、15歳の子どもが遠くの知らない土地で、いったいどんな仕事を見つけられると思うんだい? だいたい君はまだ義務教育だって終えていないんだぜ。誰がそんな人間を雇ってくれる?」
 僕は少し赤くなる。僕はすぐに赤くなる。
「まあいいや」とカラスと呼ばれる少年は言う。「まだなんにも始まってもいないうちから、暗いことばかり並べたててもしょうがないものな。君はもう心をきめたんだ。あとはそれを実行に移すだけのことだ。なにはともあれ君の人生なんだ。基本的には、君が思うようにするしかない」
 そう、なにはともあれこれは僕の人生なのだ。
「しかしこれから先、君はずいぶんタフにならないとやっていけないぜ」
「努力はしている」と僕は言う。
「たしかに」とカラスと呼ばれる少年は言う。「この何年かで君はずいぶん強くなった。そのことを認めてないってわけじゃないんだよ」
 僕はうなずく。
 カラスと呼ばれる少年は言う。「しかしなんといっても君はまだ15歳なんだ。君の人生は、ごく控えめに言って、まだ始まったばかりだ。君がこれまで見たこともないようなものが、世界にはいっぱいあるわけさ。今の君には想像もできないようなものがね」
 僕らはいつものように父の書斎の古い革のソファの上に、並んで座っている。カラスと呼ばれる少年はその場所が気に入っている。そこにある細々したものが彼は大好きなのだ。今は蜂のかたちをしたガラスの文鎮を手の中でもてあそんでいる。もちろん父が家にいるときには近寄りもしないけど。
 僕は言う。「でもなにがあっても、僕はここから出て行かなくちゃならないんだ。それは動かしようのないことだよ」
「そうかもしれない」とカラスと呼ばれる少年は同意する。文鎮をテーブルの上に置き、頭の後ろで手を組む。「しかしそれですべてが解決するわけじゃない。またまた君の決意に水を差すようだけど、どれほど遠くまで行ったところで、君がうまくここから逃げだせるかどうか、それはわかったものじゃないぜ。距離みたいなものにはあまり期待しないほうがいいような気がするね」
 僕はあらためて距離について考える。カラスと呼ばれる少年はひとつため息をつき、それから指の腹で両方の瞼の上を押さえる。そして目を閉じ、その暗闇の奥から僕に語りかける。
「いつものゲームをやろう」と彼は言う。
「いいよ」と僕は言う。僕も同じように目を閉じ、静かに大きく息をする。
「いいかい、ひどいひどい砂嵐を想像するんだ」と彼は言う。「ほかのことはぜんぶすっかり忘れて」
 言われたとおり、ひどいひどい砂嵐を想像する。ほかのことはぜんぶすっかり忘れてしまう。自分が自分であることさえ忘れてしまう。僕は空白になる。ものごとはすぐに浮かんでくる。いつものように僕と少年は、父の書斎の古い革の長椅子の上でそのものごとを共有する。
「ある場合には運命というのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている」とカラスと呼ばれる少年は僕に語りかける。