新潮社

 page 1占 時追町の卜い家〔 page 2/3 〕

 二

 梅らしき半玉はんぎょくが見つかった――伊助から告げられたのは、六月半ばのことだ。
「一度会いに行ってくる。品江町しなえちょうの貸座敷らしいんだ。もし本当に梅だったら、わっちが身請みうけする。そのための金は貯めてきたんだ」
 身請け、と聞いて、また胸が軋んだ。それでもなんとか笑みを作って、よかったじゃあないか、とひりつく喉で懸命に返した桐子に、その晩、布団に入ってから伊助は告げたのだ。
「これで最後にするか」
 伊助の腕に頭を乗せていた桐子は身をはがし、すっかりはだけた浴衣の前をかき合わせた。なんて言ったの? どうしてそんなこと言うの? そう問うより前に、こちらを見詰める真剣な目に突き当たって声が干上がった。薄暗がりの中でも、伊助の白目は冴え冴えとした光をたたえている。
「わっちはもうすぐ梅に会える。うまくすれば梅を引き取れる。そうしたら梅とふたりで暮らすんだ。それが梅の傷を癒やすには一番いいからさ。ただそうなったら、桐子さんは独りになっちまうだろう」
 馴染んで三月みつきも経つのに、伊助はまだ「桐子さん」と他人行儀に呼ぶ。こちらのほうがうんと年上だから遠慮しているのだと思うようにしていたが、線を引くためにあえて他人行儀に呼んでいたのか、とこのときうっすら悟った。
「わっちには家族がある。実家の親とは縁を切ったが、梅っていう命よりも大切な妹がいる。けど、桐子さんには家族がないだろう。わっちがここに来なくなったら独りきりになると案じてるんだ。それで、ずっと後ろめたい思いでいたんだよ」
 桐子は半身を起こして帯を硬く締めた。最前の動揺はぴたりと止んで、この男はなにを言い出したのだろう、という窃笑せっしょうが湧き上がってきていた。
 私はそもそも、あんたと一緒になろうとまでは考えていないんだ。もちろん一緒に住むのは構わないと思ったけれど、それは朽ちかけた長屋に暮らすあんたを哀れんでのことだ。これまで独り気ままに生きてきたから、こういう男を面倒見るのもいいかもしれないと気が向いただけのことだ。あんたなんぞに温情をかけてもらわなくたってやっていけるし、私には仕事仲間も親しい友人もある。親兄弟はなくとも、叔母やいとこがいる。あんたひとりが来なくなったくらいで、私が独りになることなぞないんだ。同情されるわれはなにもないんだ――。
 胸の内に噴き出した雑言ぞうごんを、どこからどう言ってやろうかと整理するうちに、伊助はさっさと起き上がり、脱ぎ捨てた作業着を拾い上げた。
「今日は帰るよ。明日はえぇから」
 そそくさと身支度を調えて三和土たたきで草履をつっかけた伊助に、しばらく仕事が忙しくなるから、悪いけど独りにしてほしい、と桐子は言った。情けないことに、それだけ言ってやるのが精一杯だった。
 伊助は別段疑う素振りも見せず、「そうか、わかった」と、さっぱり返した。表まで見送らずに玄関に鍵をかけて、その晩、桐子は布団に戻らなかった。あの男には、もう会わない。伊助のことはもう忘れる。洋燈ランプもつけずに仕事机に向かい、空が白んでくる頃まで一心不乱にそう唱え続けたのだ。

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Photo credit: haru__q on VisualHunt / CC BY-SA

 伊助との縁は、けれども容易には切れなかった。桐子が離れようとすると、彼は機敏に察して通って来る。そういうときは決まって、わらび餅だの饅頭だのと桐子が好きなものを手土産にさげてきた。家でも茶を注いでくれたり、布団を敷いてくれたりと、なにくれとなく気を遣う。優しく尽くしてくれる男に、桐子は自分への恋情を信じようとした。が、すぐにそれは幻想でしかないことを思い知らされる。
「桐子さんはわっちよりずっと世間を知ってるだろう。顔だって広いだろう。例えばさ、仕事相手で身請けに力を貸してくれそうな人の心当たりはないもんだろうか」
 桐子の仕事にろくすっぽ興味を持たないのに、時にそんなことまで訊いた。
 私は、単なる悩みの受け皿なのだ。私の人脈を、この男は利用しようとしているだけなのだ――胸が濁ったがそのたび、金の無心をするわけでなし、私を頼みにしているからなんでも話すだけなのだろうと自らを落ち着ける。だからこそ仕事を後回しにしても伊助の愚痴に付き合ったし、少しは気が晴れるかもしれないと外に連れ出すこともしたのだ。
 梅雨の晴れ間に伊助を誘って由岐ゆき川沿いを散歩していると、川縁で語らっている若い男女がやたらと目に付いた。そういえば、この辺りは近頃逢い引きの名所になっているのだと、編輯者が言っていた。
わけぇのが多いな。夫婦だろうかねぇ」
 伊助は懐手ふところでにして、仲睦まじく寄り添う男女をまばゆそうに眺めている。桐子はその傍らで、自分と伊助はここにいる恋人たちとはまるでおもむきが違う、とひっそり思う。梅のことがあるだけでなく、自分が伊助よりずいぶん年嵩としかさであることも無性に惨めに感じられて、若い恋人が欲しくなった? と、つい冗談めかして訊いたのだ。
 わっちには桐子さんがいるじゃねぇか、とそこまで完璧な答えを求めていたわけではなかった。桐子にしても、別段添い遂げようとまでは考えていないのだった。
「いや」
 伊助はかぶりを振る。それから、遠くに目を遣り、なんの躊躇ちゅうちょもなく言ったのだ。
「惚れたはれたとか、そういうの、わっちはもういいんだ。もう誰かを好いたりすることはねぇよ。わっちには、梅がいるからね」
 いけない、仕事の約束があったんだ、と桐子はとっさに言ってきびすを返した。伊助は引き留めもせず、「そうかえ、気をつけてな」と、声を放った。着物の裾が乱れるのも構わず、桐子は大股で行く。だったら私はなんだっていうんだ――口中でうめきながら、下駄で強く土を蹴る。あんたにとって私はなんだってんだ。馬鹿みたい、こんなに足蹴あしげにされてもまだ思い切れないなんて。
 でたらめに歩いたせいだろう。いつしか、見知らぬ路地に立っていた。慌てて辺りを見回すと、「時追町ときおいちょう」と番地の書かれた札が板塀に引っ付いている。馴染みのない町名だった。入り組んだ小径こみちの奥に小さな灯りがともっているのを見付けた途端、桐子の足は吸い寄せられるようにそちらに向いていた。
 一軒家の軒先に立つ。表札には「うらない」と墨字でしたためられている。
「なんだ、占いか」
 つぶやいて、すぐさま背を向けた。が、二、三歩行ったところで足を止め、今一度格子戸に振り向いた。占いには、これまで関心を持ったことすらなかったのだ。だからどうしてこのとき格子戸を開けてしまったのか、桐子自身にもよくわからない。
 館の中は静まり返っていた。下駄箱の上に鈴が置いてあり、
〈御用の向きは、鳴らしてください〉
 と、脇に張り紙がある。惑いながらも鈴を手に取り、控えめに振ってみる。涼しげな音が立ったが、なんの返事もない。
「やっぱりこんなところ……」
 つぶやいて帰ろうとしたところで廊下の暗がりから丸髷まるまげの女が現れ、なんの挨拶もなく、「ご指名の八卦見はっけみはございますか」と、唐突に問うてきた。
「いえ。あの、初めてで」
 しどろもどろに応えると、「本日はどういったご相談でらっしゃいますか?」と、女は身を寄せて声を潜めた。かすかに抹香の匂いが漂ってくる。
 恋わずらい、とはいい歳をして到底言い出せなかった。とっさに、
「気持ちを知りたい方があるのですが」
 曖昧に答えると、案外にも女はそれで合点したらしく、
「では、こちらの廊下の突き当たりのお部屋にお進みください」
 そう告げて、右側を手の平で指し示したのだ。不審に思いながらも下駄を脱ぎ、言われるがまま黒光りする廊下を進む。突き当たりにある敷き松葉模様の唐紙からかみの前に立ち、ここでよいかと確かめる目当てで玄関口に振り返ったが、すでに女の姿は影も形もなくなっていた。不安がきざしたものの、ここまで来たのだと腹を括り、「失礼いたします」と声を掛けてから桐子は唐紙を引き開けた。
 三畳ほどの狭い座敷には、初老の女が座っていた。白髪交じりの髪をきつく束ね、黒の透綾すきやに身を包んでいる。女は汀心ていしんと名乗り、「どうぞ、お座りになって」と卓の前の座布団を勧めた。
「それで。今日はどうされましたか?」
 腰を落ち着けるなり訊かれ、桐子は口ごもる。伊助との複雑な関係を、どこからどう話せばよかろうとしばし煩悶はんもんする。
「あの……うまくいかない相手があって」
 どうにかそう切り出した。
「お相手は男の方ですか」
「ええ。そうです」
 すると汀心は桐子を見澄ますように目を見開いた。正確には桐子ではなく、その背後を凝視しているようだった。なにを見ているのだろうと怪しむうちに、
「そうね、この方は今、ご自身が抱えている厄介事で頭が一杯ですね。それであなたのことまで気がいかないようです。彼のお悩みはご兄弟のことね。たぶん……妹さんかしら。ご自身ではどうにもならなくて、八方塞がり。だいぶ疲れ果てているようにえます」
 一気に語ったから肌が粟立あわだった。
「お相手の方の抱えている厄介事はこののちも容易に片付きません。お心の内も常に波立っておられます。あなたも彼の悩みに引きずられてお疲れのようね」
「はい」
 驚きはいつしかやんで、はじめて理解者に出会えたという喜びが身の内に広がっていった。縮こまっていた心がゆるんで、
「あの……ひとつ伺いたいのですが」
 思い切って訊くと、なんなりと、というふうに彼女は頷いた。
「彼にとって私はどんな存在なのでしょう。ただの悩みのはけ口ということでしょうか。話しやすくて、ものわかりがよくて、時に有効な助言も与えてくれる、そんな使い勝手のいい相談相手ということなのでしょうか」
 存在、などと堅苦しい言葉が出たのは、少し前に携わっていた翻訳仕事のせいだろう。汀心は真剣な面持ちで桐子の後ろに目を凝らしていたが、やがて「いいえ」と、はっきり言い切ったのだ。
「お相手は、あなたをとても好いておられますよ。女性として好いておられます。頼れて、甘えられて、心を開くことができる。今の彼にとって、あなた以上に自分を見せられる相手はいません。それで心の内を遠慮なくお話しになっているだけで、相談相手としてあなたを捉えているということはありません。彼は弱い人。ひとりでこの困難を乗り越える力はありません。ですから、あなたは彼を支えてあげることが肝要です」
「支える……」
「ええ。彼のすべてを包み込むようなお付き合いをされるのが一番よろしいようですよ」
 鑑定は十分ほどで済んでしまった。占い代はかかった時間で決めるらしく、帰りしな、玄関口で丸髷の女に示された額はわずかなものだった。しかも館を出るときには、ここに来る前の憂鬱が嘘のように消えて、身体が軽くなっていたのだ。
 女性として好いておられます、と汀心の告げたひと言を、桐子は帰り道、幾度も反芻はんすうした。家に辿り着いてから、なんの根拠もない占いではないか、と乾いた笑いが浮かんできたが、汀心の見立てを疑う気にはならなかった。
 ――伊助は私を想っている、だからなにも怖いことはない。
 気持ちが落ち着いたせいだろう、以来伊助から梅の話を聞くこともさして苦にならなくなった。それどころか、梅を引き取る手立てを一緒に考え、私にできることがあればなんでも言って、と歩み寄る余裕まで出たのである。

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「梅が、いたよ」
 梅雨があけて間もないその日、桐子の家にやって来た伊助は言って、座敷にへたり込んだ。
「とうとう見付けたんだ」
 目星を付けた見世に登楼あがり、運良く梅と会えたのだという。梅はひどく動転した様子だったが、すぐに「兄やん」とすがりついてきた。
「あいつはちっとも変わってなかった。別れたときと一緒で、なんにも変わってなかったよ」
 苦界くがいに身を沈めても、という言葉を飲み込んだのか、伊助は苦しそうに喉仏を上下させた。
「楼主に話をしたんだ。梅を返してくれと言ったんだよ。だが駄目だった。とりつく島がなかった」
 身請けのお金がだいぶ高いの? と伊助の傍らに座して桐子が訊くと、彼は畳を睨んだまま首を横に振った。
「金をいくら積んでも変わらねぇようだ。手放す気がないんだよ。大事な売れっだって」
 身体を打ち付けるようにして寝転ぶと、それからは桐子がどんな慰めを口にしても、なにかやりようはないか考えてみようと促しても、伊助は黙したきりだった。それでも励まし続ける桐子に、
「桐子さんにはさ、こういう気持ちがわかんねんだよ」
 と、彼は言い放ったのだ。
「自分の命に替えても守りたい者が、桐子さんにはないだろう。独りで生きてるんだもの。だからわっちの気持ちはわかりようがねぇんだ」
 桐子の本能が、彼の言葉を解しようとするのを拒んでいた。彼女はただ、伊助のつむじを眺めている。前後にふたつの渦が巻いていることを初めて見付けたが、だからといってなんの感慨も湧かなかった。
「ごめん。今日は帰るよ」
 伊助が言って、身を起こす。重い足取りで三和土に降りて、「そいじゃ」と手を上げたところで、桐子は言ってしまったのだ。もうここには来ないで、と。