新潮社

トピックス 『飛び立つ季節―旅のつばくろ―』 『旅のつばくろ』 著者プロフィール

近くても遠いところ

 私が東京の小学生だった昭和三十年代、家族旅行はあまり一般的なものではなかったように思う。家族そろっての行楽という習慣がなかったということもあるが、どんな家も経済的にさほどの余裕がなかったのだ。

 だから、学校で行楽地に行くことのできる遠足は子供たちにとって大きなイベントだった。何円までという制約の中で、おやつにどの菓子を買って持っていくか。母親の作ってくれる弁当が何なのか。前日から多くの楽しみと期待に満ちていた。

 そのようにして、私も東京近郊のさまざまな観光地に行ったものだった。

 高尾山、江の島、鎌倉の大仏、のこぎりやま……。

 しかし、不思議なことに、そうした観光地は成人してからほとんど行くことのないところになっている。

 その意味では、本来、「奥多摩湖」も同じ運命の場所であるはずだった。

 ところが、その湖のほとりに登山家のやまやすと妙子の夫妻が住んでいることから、私は、何度というより、何十度も赴くことになった。山野井夫妻が挑戦し、生死の境をさ迷ったヒマラヤのギャチュンカンという山の登山の話を聞くためである。

 その揚げ句、標高六百メートルに満たない山である高尾山しか登ったことがなかった私が、二つ目の山として富士山に登り、三つ目の山としてギャチュンカンの五千五百メートル地点まで登るということになってしまったのだ。まさに、幼稚園児が飛び級をして大学院に進学してしまったかのように。

 

 ところで。

 山野井夫妻が住んでいる奥多摩湖畔の家だが、これが、私の住んでいる世田谷から行くとなると恐ろしく遠い。遠足で奥多摩湖に行ったときは観光バスだったので、それが同じ東京都でもどれほど遠いかということが実感的にはわからなかった。しかし、電車で行くとなると、仙台に行くより時間がかかってしまうのだ。

 まず、最寄りの私鉄駅から渋谷まで出る。渋谷からは山手線に乗って新宿へ行き、中央線に乗り換えて立川へ向かう。さらに立川からはおう線に乗るのだが、平日の日中は奥多摩まで行かず、青梅で乗り換えなくてはならない。そして、その電車で終点まで乗っていくと、ようやく奥多摩湖のある奥多摩駅に辿り着くことになる。

 駅には夫妻のどちらかが車で待っていてくれ、奥多摩湖畔の高台にある家まで二十分ほどかけて連れていってくれる。そこは質素な生活をしている夫妻が二万円で借りている家だが、春夏秋冬の美しい奥多摩湖の姿が一望できる。

 それにしても、である。我が家を出てから山野井家の玄関で靴を脱ぐまで、優に三時間半はかかってしまう。往復七時間。これはもうひとつの「旅」というくらいのものである。それも実に長い旅。

 しかし、この長い旅を、いつしか私は愛するようになっていた。とりわけ青梅から奥多摩までの、仮に私が「奥多摩線」と名づけた沿線の風景が、心にみるようになってきたのだ。

 人の流れと逆のせいか、午前中の車内には中高年の方たちがハイキングに行く姿が目立つ程度である。

 必ず座っていける電車の外の景色は、季節ごとに変化する木々の姿が美しい。透き通るような青葉の季節もあれば、燃えるような紅葉の季節もある。そして、東京都心に少しの雪が降れば、そのあたりは深い雪に覆われていたりするし、逆によく晴れると、深い谷に架かった金属製の巨大な橋が陽光に照らされてキラキラ輝いていたりもする。私は奥多摩に向かうたびに、「東京への旅」をしているのだなという喜びを味わうことになった。

 

 もっとも、この奥多摩湖、成り立ちは貯水用の人造湖でも、その周辺にはやはり人間をねつける自然が残されている。

 山野井氏も数年前、山道をランニングしている途中、カーブしたところでばったり子連れの母熊に出会い、襲われたことがある。

 のちにその山道に案内してもらったが、ここで熊に出会ったら絶体絶命だろうと思われる断崖の細い道だった。崖に押しつけられるようにして顔を噛みつかれたが、辛うじて逃げることができ、生還した。

 見舞いに行くと、第一声は「とんだ災難だった」というものだった。しかし、それは顔面を七十針も縫わなくてはならなかった自分にとっての災難ではなく、母熊にとっての災難だという。うっかり自分などと出会ってしまったために、猟友会の人たちに追い回されるようなことになってしまったからというのだ。

 その熊の存在は、この東京にも残っている、野性ならぬ、野生の証明でもあるが、山野井氏の生還に至るまでの話を聞いていると、なんだか楽しいことのような気がしてくるから不思議だ。

 季節もよし。これから久しぶりに奥多摩湖への「旅」に出かけることにしようか。山野井氏の好きなあのケーキ店のチョコレートケーキでも持って。

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