新潮社

トピックス 『飛び立つ季節―旅のつばくろ―』 『旅のつばくろ』 著者プロフィール

縁、というもの

 縁、というものがある。

 眼には見えないが強く存在する何らかの関わり、というような意味と私は理解している。

 この縁、人と人とを結びつけるものを指すことが多いが、地縁というように人と土地との間にも確かに存在するような気がする。

 生まれ育った土地に縁があるのはもちろんだが、単なる旅先の土地であっても、そこに縁を感じたり、縁が生まれたりすることがある。

 

 東京で生まれ育った私には宮城というところに特別の縁はなかった。だが、私の三十代の終わりの頃、ひとつの縁が生まれた。

 当時、文藝春秋という出版社が文化講演会なるものを行っていた。教育委員会とか農協といった地元の受け入れ先の要請に従って、日本全国に作家を「派遣」し、講演会を開くのだ。

 あるとき、文藝春秋で私を担当してくれている編集者から電話があった。近く宮城のつきだて町で行われる予定の文化講演会に行ってくれないかという。

 私は、あまり講演というものを好まない。人前で話すのがいやというのではない。講演の約束をして、何カ月も先の予定が決まってしまうのが苦痛なのだ。決まってしまうと、その月のその日は絶対にその地にいなくてはならなくなる。約束さえしていなければ、どこに行こうが、どこにいようが、私には無限の自由があるはずなのに。

 だが、担当編集者氏によれば、その依頼は作家の吉村昭氏からのものであるという。

 文化講演会は二人か三人が一組で行くことになっている。その宮城の文化講演会は、吉村氏がメイン・スピーカーであり、その前座に誰をつけようかということだったらしい。それについて、吉村氏が私の名を挙げてくれたということのようだった。

 私は吉村氏とは面識がなかったが、『戦艦武蔵』という傑作を書いた先達として、深い尊敬の念を抱いているということは文章に書いていた。恐らくは、それを眼にしてくれていたのだろう。

 築館町の講演会は夜で、私の出番が終わり、吉村氏の話が始まっていた。

 私は楽屋で話を聞いていたが、そこに私の読者だという男性が係の人に案内されてやって来た。手には風呂敷を持ち、私の著作が包まれていた。

 サインをしていただけないかという。喜んでと応じて開いてみると、どれもすべて初版である。私はこのような土地にこのように熱心な読者がいるということに感動し、感謝したくなった。

 聞けば、近くのいちはさま町で寿司屋をやっているが、今夜はこの講演会のために店を閉めて来たのだという。

「今度この近くに来たらうかがいます」

 私がその「今度」はないかもしれないと思いつつ、社交辞令に近い言葉を述べると、私と同じ年齢だというその男性が言った。

「もしよかったら、これから店を開けますから、おいでになりませんか」

 この講演会が終わったあとは、吉村氏を含めた地元関係者との「懇親会」がある。さすがに無理だろうと思い、えんきょくに断った。

 やがて吉村氏の講演が終わり、近くの料理屋で打ち上げ風の「懇親会」が始まった。

 乾杯のセレモニーが終わったところで、私は隣の主賓席に座っている吉村氏にふと先の読者のことを話してみる気になった。奇特な読者がいたのですよ、と。

 すると、吉村氏が言ったのだ。

「それなら、すぐにその店にいらっしゃい。ここにいる必要はありません。そういう読者こそ大事にしなくてはなりませんからね」

 私は貰った名刺に電話を掛け、タクシーを飛ばし、その寿司屋に急行した。

 そこは男性が奥さんと二人でやっている店だったが、私のために店を開け、待ってくれていた。

 その夜は、寿司だけでなく、男性自慢の料理と酒を御馳走になるという夢のような時間を過ごしたあと、日付が変わった深夜に宿に帰った。

 以後、宮城に住むその男性とは現在に至るまで往来を続けている。

 ただ、その後、彼は、同じ宮城でも、一迫町から仙台の市内に進出し、独特の料理を供する和食屋を開くことに成功する。

 

 先日、盛岡に行く途中、仙台で下車して彼の店に寄ったとき、亡くなった吉村氏をしのんで献盃した。もし、吉村氏の一言がなかったら、私と宮城との縁だけでなく、私と彼との二人の縁も、ここまで続かなかっただろうからだ。

 もちろん、飲んだのは宮城の酒だった。

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