新潮社

窪美澄『トリニティ』新潮文庫

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トリニティ (trinity)
三重、三組、三つの部分。定冠詞が付いた大文字で始まるthe Trinityはキリスト教における三位一体を意味する。

実在の人物や雑誌などから着想を得ましたが、本書はフィクションです。

1

「今日もまた生きたまま目が覚めたか」
 七十二歳の鈴子すずこは瞼を開けた瞬間に昨日の朝と同じことを思った。
 暖房をつけていない寝室で布団から出した顔だけがひんやりと冷たい。
 掛け布団から両腕を伸ばしておもいきり伸びをした。右膝の関節がこくっと鈍い音をたてる。あおむけのまま全身を伸ばしたあと、ゆっくりベッドの上に起き上がって、膝を曲げて座り、顔を敷き毛布に埋めて、両腕をできるだけ前に伸ばす。ベッドの上で体を伸ばしたあとは、さらに立ち上がって体を伸ばす。全身の筋肉を伸ばし体に血を巡らせる。
 内側がムートンのルームシューズに足を入れ改めてゆっくり立ち上がると、ベッドを簡単に整えた。リビングに向かいカーテンを開ける。ベランダに置いたビオラの鉢からこぼれるような紫の花弁が風に揺れているのが見えた。日差しには春の気配があるが風は冷たそうだ。鈴子のマンションは八階建ての七階で前には遮るような建物もなかったから、空が広く見えた。その景色だけでこのマンションを選んだようなものだった。東京の真冬の空らしく雲はなく、濁りのない青がどこまでも広がっていた。
 キッチンに向かい電気ケトルでお湯を沸かす。その間に寝室に戻り着替えを済ませた。五年前に夫が亡くなり、この1LDKのマンションに引っ越してきたときに衣類のほとんどは整理してしまった。あと十年くらい。鈴子は自分の残り時間に見当をつけている。
 洗面所に行き、顔を洗い歯を磨く。鏡に映る顔は昨日より老いているはずなのに、なぜだか今日は昨日よりも顔色が良かった。化粧水と乳液を顔だけでなく顎の下や耳の後ろまで丁寧に塗り込み、さらにBBクリームを塗る。眉毛だけは小さなコンパクト型の拡大鏡を手にしながら描いた。白髪の髪をブラシでとかし、ぼんのくぼあたりでおだんごにし、いくつかのピンでまとめた。髪の毛はもうずいぶん長い間切ったことがなかった。鈴子くらいの年齢になると、手入れも面倒といって短く切ってしまう友人も多かったが、鈴子は男か女かわからないような短い髪が嫌いだった。服装だって男か女かわからないのに髪の毛も短くしてしまったら、ますます性別がわからなくなる。ずっと昔に見た映画『八月の鯨』に出てきたリリアン・ギッシュに憧れていた。家の前にあるポーチでリリアン・ギッシュは長い白髪をといていた。
 冷蔵庫の中から卵とヨーグルトと牛乳を出した。フライパンで目玉焼きを作り、くるみパンをひとつ温める。コーヒーメーカーで作ったコーヒーをマグカップに注ぎ、牛乳を入れる。りんごを半分に切って、半分は皮をむき、残りはラップにくるんで冷蔵庫にしまった。目玉焼き、パン、緑黄色野菜、フルーツ、ヨーグルトにカフェオレ。一人になってから、よっぽどのことがない限り、朝食のメニューは変わらない。決めてしまったらあれやこれやと悩まなくなった。
 夫が生きているときは、食にうるさい夫のために洋食と和食を交互に朝食に出していた。もっと昔、子どもがまだ小学校に入る前は、食の細い長女のために朝から海苔巻きを作ったり、野菜嫌いの長男のために前の晩から圧力鍋でスープを仕込んだりもした。いくら若くて力が漲っていたとはいえあんなことがよくできた、と今になって思う。食材を買い、料理を朝昼晩と作って食べさせたけれど、それで家族の健康な体を作ったという自負もない。あんなに気を遣っていたって夫は体中をがんに侵されて死んだのだ。けれど、毎日変わらない、自分一人だけで食べる朝食が、鈴子はとても好きだった。今、鈴子の心のなかは自分でも意外なほど穏やかな平安で満たされていた。

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 携帯が鳴ったのは使った食器をシンクに運んでいるときだった。一人でいるのに、はいはい、と声に出して言いながら濡れた手をタオルで拭き、ダイニングテーブルの上にある二つ折りの携帯を開いた。発信者の名前はなく携帯番号だけが画面にある。誰だろう、と訝しげに思いながら電話をとった。
「あのね、亡くなったのよさくさん。おとといの夜」
 電話を少し耳から離さないといけないくらいの大きな声だ。興奮しているのがわかる。
「え、さくさん、て」
「イラストレーターの早川朔よ。あなた親しかったでしょう」
 妙子たえこさんが……。早川朔と本名の藤田妙子というふたつの名前は頭のなかですぐに結ばれたが、電話の向こうの女性が誰なのかがわからない。声からして自分と同年代だとはわかるのだが。自分と同じくらいの高齢者にはよくあることだ。いきなり用件を話しだす。それで、そちらさまは。と、どのタイミングで切り出そうかと思いながら、一気にまくしたてる電話の声をじっと聞いていた。
「朔さんが亡くなったら連絡してほしい、というリストにあなたと登紀子ときこさんの名前があったの。だけど、私、登紀子さんの連絡先が分からなくて。あなたから連絡してもらえないかしら。お葬式はしないらしいの。もうご遺体は火葬場にあって、今日の午後ならお顔が見られるそうよ。で、その場所はね」
 もう何人にも同じような電話をしているのだろう。電話の向こうの見知らぬ誰かの説明は淀みなかった。火葬場の場所を確かめ、テーブルの上にあったメモ用紙に書き付けた。わざわざお伝えいただきありがとうございました。最後まで言い終わらないうちに電話はあっけないほどすぐに切られた。
 メモ用紙に慌てて書き付けた杉並区の斎場には一度行ったことがある。今の電話は嘘や冗談ではないだろう。妙子さんが、早川朔が亡くなったのなら、今日か明日の新聞にもお悔やみの記事が載るはず。あんなに有名なイラストレーターだもの。いちばん最後に妙子の絵を見たときのことをふいに思い出した。美容院で渡された女性誌のいちばん後ろのページ。著名な女性小説家のエッセイに朔が絵を添えていた。色鉛筆で描かれたふわりと笑う女性の横顔。相変わらず活躍されているんだと思った。いつからか飾ることをやめてしまったが、家のどこかには結婚祝いにもらったイラストがあるはずだ。イラストレーターとしての華々しいデビュー。六〇年代、七〇年代、八〇年代、九〇年代と、常に一線にいた人だった。若い時分は「彗星のようにデビューした女性イラストレーター」という言葉が早川朔という名前のそばにあった。けれど、月日が過ぎるにつれ、その言葉は「怖い人」「トラブルメーカー」に変わった。会社をやめ家庭に閉じこもっていた鈴子の耳にも、そうした噂が幾度も届いていた。
 東京東部に住む鈴子のマンションから電話で伝えられた杉並区の斎場に行くには、東京の都心を跨いで一時間以上はかかる。自分よりも七歳上、つまり、今七十九歳の登紀子は市ヶ谷に住んでいるけれどどこかで落ち合うことになれば、さらに時間はかかるだろう。そもそも登紀子は一人で斎場までやって来られるのだろうか。そう思いながら鈴子の手は電話帳をめくり、ずっと昔に記したままの登紀子の電話番号を見つける。鈴子はその電話を携帯ではなく、家の固定電話からかけた。なぜだか登紀子には携帯から電話するのは失礼だ、という気がしたからだ。
 呼び出し音が長く続く。
「はい」という小さなしゃがれた声が聞こえた。何年かぶりに聞いてもそれが登紀子の声だとすぐにわかった。自分が緊張していることがわかる。
「木下、いえ、宮野鈴子です」鈴子は旧姓を名乗った。それに対して登紀子の反応はない。昔のままだ、ちっとも変わってはいないと思いながら、早川朔が亡くなったこと、今日の午後、数時間ならお顔を見られるということを簡潔に伝えた。
「斎場に伺います」
 相槌も打たずに鈴子の話を聞いていた登紀子がはっきりとした声でそう言った。
「そうですか。では、後ほど」
 そう言って受話器をそっと置く。自分の手のひらがかすかに汗ばんでいることに気づいた。いつだって登紀子と話すときには自分は緊張してしまう。何も自分が緊張することはないのに。
 あのときのお金だってまだ……。
 鈴子は登紀子と最後に会った日のことを思い出していた。今から三年ほど前のことだ。
 新宿駅からほど近い喫茶店。今時珍しく店の中は煙草の煙が充満していた。
「少し用立てて下さらないかしら。私、困っていて……」という登紀子からの電話を受けた翌日のことだった。なぜ登紀子が。
 祖母も母も物書き、登紀子はフリーライターの先駆け的存在として、鈴子が勤務していた会社の仕事を多く請け負っていた。今もあるファッション誌の文体は登紀子が作ったと言われていた。登紀子にまつわる記憶で最後に思い出すのは、九〇年代に四谷に個人事務所を作りバリバリと仕事をこなす彼女の姿だった。
 鈴子が勤めていた出版社は芸能週刊誌やファッション誌、女性誌を主に作っていた会社で、あの時代にしてみれば会社員らしからぬ服装の人も多かったが、登紀子のファッションはそのなかでも一風変わっていた。全部を全部高いブランドものでかためるとか、そういう野暮なことはしなかった。着ているものは黒いものが多かったけれど、どこかに一点いつも彼女らしい風通しの良さがあった。インド雑貨店で売っているようなカラフルなストールや、魚市場のおじさんが使っていそうな籠のバッグとか、細い紐のサンダルを上手に組み合わせてもどこかに品の良さがあった。
 東京で生まれ育ったほんもののお嬢さん。その印象は登紀子に声もかけずに密かに憧れていたときから、ひょんなことで心を通わせ、交流が始まってからも、変わることがなかった。
 新宿の煙たい喫茶店でしばらくぶりに見る登紀子は鈴子が記憶していた登紀子ではなかった。髪も肌も手入れされているようには見えない。生活のあらが透けて見えた。白髪交じりの髪を後ろで一つ結びにし、化粧をしていない肌に薄茶色のしみが目立つ。登紀子は鈴子のあとから店に入ってきたが、席についても重そうなウールのコートを脱がなかった。そのコートもずいぶん古いものなのだろうという気がした。コーヒーカップを持ち上げたとき、袖がほつれ、糸が一本飛び出しているのが見えた。
「あのこれ、ほんの少しですけれど」
 鈴子は登紀子の前に封筒を差し出した。登紀子は電話で具体的な金額を言わなかったが、私にまで電話をかけてくるくらいなのだから、余程生活が困窮していることは鈴子にも予想がついた。登紀子から電話をもらったあと昔の同僚幾人かに尋ねると、登紀子は昔の仕事仲間や関係者にお金の無心をしているということがわかった。
 登紀子は頭を上げると、テーブルの上の白い封筒を膝の上に置いたハンドバッグの中にしまう。
「ありがとう。助かるわ」頭を下げてからそう言うと立ち上がり、すぐさま店を出て行った。テーブルの上にある二人分のコーヒーの伝票には見向きもしないで。こんな状況になってもやっぱりあの人はお嬢さんなんだわ。そう思うとなぜだかおかしかった。
 お金そのものはたいした金額ではない。貸したつもりもなかった。けれど、もう一度登紀子から同じような申し出があれば鈴子はきっぱりと断るつもりでいた。
「専業主婦なんて夫に寄りかかった生活、どこがおもしろいのかしら。夫という大樹がなくなればすぐに路頭に迷うんじゃないの」
 若い頃、結婚を機に会社をやめた鈴子が登紀子から言われた言葉だ。その言葉は鈴子の心のどこかに棘のように深く刺さっていた。そう自分に言った登紀子が今、自分に頼り、ほんのわずかなお金に頭を下げた。そのとき鈴子は登紀子に対して優越感を持つというよりも、あんなに輝いていた登紀子の人生が簡単に悪いほうに転んでしまったことの恐ろしさを感じていた。

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 そもそも今日は、近くに住む娘の満奈実まなみのマンションに行く日だ。
 結婚を機会にきっぱりと仕事をやめ家庭での生活を選んだ鈴子とは正反対に、満奈実は結婚、出産を経ても、仕事を手放さなかった。会社員二年目で学生時代からつきあっていた恋人と結婚、すぐに妊娠したことには驚かされたが、鈴子はその選択を否定しなかった。同居こそしてはいないが、娘の結婚以来、娘の家を週に二、三度は訪れ、家事を手伝ってきた。メーカー勤務の満奈実の夫は出張がちで家にいないことも多かった。孫の奈帆なほが生まれてから中学に上がる頃までは鈴子も満奈実と共に子育てをしているような気でいた。奈帆が幼い頃は満奈実の代わりに保育園にお迎えに行き、夕食を食べさせ、風呂に入れ、寝付くまでそばにいた。奈帆が成長するにつれ孫育ての負担は軽くなってはいたが、仕事の忙しい満奈実はなんだかんだと鈴子を頼り、鈴子もそれにはりきって応えた。
 子離れも孫離れもまるでできていない、と亡くなった夫はよく鈴子を叱るように言ったが、鈴子には聞く耳はなかった。働きたいと言っている娘を助けて何が悪いのだろう。そんなときふいに思い出すのは早川朔の生い立ちだった。自分の母親の子育てについて早川朔は多くのエッセイを残していたし、新聞や雑誌の記事にもなった。母一人、子一人で育ったイラストレーターの早川朔。母は食堂の仕事やビルのトイレ掃除などをして、早川朔を美術大学に入れ、花形イラストレーターとして働く娘を今も助けている。あの頃書かれた記事のほとんどがそんな趣旨だった。年老いた母と並んで写真に写る早川朔を見るたび鈴子は思った。私は才能にあふれ世間から注目されるイラストレーター早川朔のようにはなれなかったけれど、このお母さんにはなれる、と。
 満奈実が自分の進まなかった大学に進み医療機器メーカーの研究職の仕事についたとき、自分の産んだ子どもが自分の生きなかった人生を生きていくことに喜びを感じた。大学進学、そして共働き。どちらも鈴子のできなかったことだったからこそ、それをかなえた満奈実のサポートには自分のありったけの力を注ぎたかった。
 満奈実のひとり娘奈帆も健やかに育った。夜泣きや急な発熱で満奈実を困らせることもなかった。小、中、高と地元の公立校に進んだが、いじめられたこともないし、ねじれて反抗することもなかった。満奈実ですらこんなに育てやすい子ではなかった。母親が仕事をしているとこういう子が育つのか、とも思った。勉強で困ることもなかった。浪人することもなく、現役でそれなりの大学にも進んだ。
 おばあちゃんが働いていた会社に入りたい、雑誌や本を作る仕事がしたい、と言われたときは、めったに泣くことのない鈴子の目の端に涙がにじんだ。
 潮汐ちょうせき出版。それが鈴子が高校卒業から二十四歳で結婚するまで勤めた会社だ。会社の名前はともかく雑誌の名前を言えば、日本の女性で知らない人はいないだろう。それが鈴子の密やかな誇りでもあった。勤めていた頃からあの会社は急激にマスコミの中でも人気企業になっていったし、社名がログストアとカタカナになってもその勢いは止まらなかった。
「結婚するまでは潮汐出版にいたの」
 誰かに聞かれてそう答えると、自分を見る相手の目が変わることも経験済みだった。夫と見合いをするときだって、平凡な釣書のなかで自分の勤務先だけが誇れる部分で、それがあったから結婚できたのだと思っている。
 けれど、あの会社で自分がしていたことは編集ではない。一般事務だ。もっと細かく言うなら雑用係だった。あの会社で何をしていたの。そこまでつっこんで聞く人はめったにいなかったし、自分から詳しい仕事内容を話すことはなかった。編集のようなことをしていたんでしょう。口を閉じていれば多くの人はそう勝手に理解してくれた。夫や満奈実は高卒の鈴子が編集者をしていたわけはない、と考えていたようだったが、奈帆は違った。自分の祖母はあの会社で編集者として過ごしたのだ、と、自分勝手に思い込んでいるようだった。奈帆の誤解を鈴子も解こうとはしなかった。
 奈帆のログストアへの就職は二次選考までは進んだものの入社は叶わなかった。同じような出版社を奈帆は受け続けた。一次で落とされてしまうのならダメージはもっと軽くすんだのかもしれない。二次、三次選考を通過し、グループディスカッションや面接の段階まで行くのに、最後の最後で落とされる。満奈実の家で会うたび、リクルートスーツに身を包んだ奈帆は痩せていった。
「奈帆はそんなに編集の仕事がしたいんだから、いつかはどこかが拾ってくれるわよ」
 そんな軽口を叩く鈴子を、奈帆はこの人はなんにもわかっていない、という目で見た。たしかに鈴子は学校から推薦されるままに入社試験を受け、会社に入ってからは上司から言われたことを間違えないようにくり返していただけだった。やっと仕事が一人前になった頃、親戚からすすめられたお見合い結婚をきっかけにすっぱりと仕事をやめた鈴子には、奈帆のつらさは理解できていなかった。それでも奈帆は実用書や自己啓発書を多く手がける中堅の出版社に就職を決めた。その会社の名前を鈴子は聞いたことがなかったが、娘の満奈実のように会社に一度入ってしまえば奈帆も寝食を忘れて働きだすのだろうと思っていた。
 奈帆の帰りが私よりもずっと遅い、という話を満奈実から聞いたのは、去年奈帆が就職をして二年目、五月の連休中のことだった。
「午前様になることも多いの。タクシーで帰ってくるし。それなのに翌日は定時に出て行くのよ。朝は食べずに慌てて出て行くし、昼食も食べられないことが多いみたい。どんどん痩せていくから心配で……」
 満奈実の家のリビングで話を聞いていた鈴子は満奈実が淹れてくれたコーヒーを飲み、奈帆の部屋のほうに目をやった。もうお昼をだいぶ過ぎた時間だというのに、奈帆が起きてくる気配はない。物音ひとつしないのはぐっすりと眠っているからだろうか。その日、満奈実の家を出たのはもう夕方に近かった。そんな時間になっても奈帆は部屋から出てこない。奈帆の部屋のドアを見つめる視線に満奈実も気がついたのか、鈴子の顔を見て深いため息をひとつついた。鈴子にできるアドバイスはなかった。今までどおり満奈実の代わりに満奈実の家を整えることしかできなかった。
「あら、今日は休みなの」
 いつものように合い鍵を使って満奈実の家に入り玄関で靴を脱いでいると、スエットのようなものを着た奈帆がトイレから出てくるのが見えた。奈帆は鈴子のほうを見ようともせず、自分の部屋に入っていこうとする。
「奈帆」声をかけたが、奈帆は返事をしないで、ドアを閉めた。
「奈帆、どうしたの。具合でも悪いの」
 ドアの外から声をかけたが、返事はない。
 今になってやってきた反抗期のようなものだろうか。そう鈴子は思った。奈帆はほがらかでやさしい子。いつもそう思ってきたのに、今になって孫に無視されている。そっけない態度に自分がひどく傷ついていることに気づいた。
「奈帆、軽い鬱かもしれないって」
 満奈実からそう聞かされたのは梅雨明け間近の週末のことだった。鈴子が満奈実の家を訪れる昼間、満奈実も夫も奈帆も会社にいって誰もいないはずなのに、三回に一回ほどの割合でなぜか奈帆が家にいる。リビングで顔を合わせても鈴子を無視し、すぐさま自分の部屋に閉じこもってしまう。どこか体調が悪いの、と満奈実にも尋ねたが歯切れの悪いことしか言わなかった。
「体調が悪いのなら、ちゃんとした病院で診てもらったほうがいいんじゃないの」
 その日もそう鈴子が切り出すと、しばらくの間満奈実は黙っていたが、実は……と、奈帆の異変について話し出したのだった。
「とにかく仕事が大変らしいの。毎日残業で深夜にならないと帰ってこないし土日出勤も多いし。家にいるときだって、自分の部屋で仕事しているのよ。まあ私だってそうやって仕事をやってきたわけだけど」
 そうね、と言う代わりに鈴子は満奈実の顔を見て頷いた。
「仕事に見合った給与をもらってるわけじゃないみたいなのよ。それにね、奈帆、通勤電車の中で過呼吸になって」
「……過呼吸?」
「突然息が苦しくなるみたいなの。ほら、金魚が空気の少ない金魚鉢のなかで口をぱくぱくさせるじゃない。あんなふうに突然息ができなくなって」
 満奈実はマグカップに口をつけた。さっき淹れたコーヒーはもう冷めてしまっているはずだ。鈴子がマグカップに手を伸ばし立ち上がろうとすると、大丈夫、と満奈実は鈴子を手で制した。
「どうも……ブラック企業みたいなのよね、奈帆の会社。業界では有名な。新入社員は三年も持たないでやめてくみたい。それで先週……とうとう起きられなくなって内科の病院に連れて行ったんだけど、内臓はどこも悪くないのよ。そこで勧められて近くの心療内科に行ったら鬱だろうって。それほどひどくはないけどね」
 過呼吸とか、ブラック企業とか、心療内科とか、鬱とか、満奈実の口から飛び出す言葉を聞くたびに、鈴子は心臓のあたりがひんやりとしてくるのを感じた。自分の人生にそういう言葉が入りこんでくるとは思いもしなかった。ましてや孫が直面している現実の重さにまったく想像が至らなかった自分を恥じた。その気持ちは親である満奈実も同じだろう。
「本人は仕事、絶対にやめたくないのよ。やっと入った会社だし。毎朝会社に行く支度もするの。だけど、玄関から外に出られなくて、そのくり返し」
 満奈実の目にうっすらと涙がたまっている。
 鈴子はそれを見ていられなくて目を逸らした。
「会社はもう……しばらくの間はだめね。今はとにかく体を休ませてあげてくださいって病院の先生もそう言うの。やっと就職できて、あんなに喜んでいたのに」
 テーブルに両手をついてその中に顔を埋め、満奈実は肩をふるわせた。

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