新潮社

THIS IS JAPAN―英国保育士が見た日本―

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Photo by Peperon cino on Unsplash

何があっても、どんな目にあわされても「働け!」

 ゴシッププリンセスの扉には鍵がかかっていた。布施さんによれば、すでにお店のウェブサイトもなくなっているらしい。従業員の給与未払いを繰り返してはヤバくなったら店を潰し、また新たな名前のキャバクラを別の場所に開店する経営者も少なくないという。「焼き畑」式経営と山口さんは言っていた。このキャバクラもそうした経営をおこなっている個人または会社のものなのかもしれない。
「こうなったら外でやりましょう」
 と布施さんが言った。店内で争議できない場合は、ストリートに立って抗議活動をおこなうらしい。わたしたちを店内に閉じ込めようとしたボーイが他店の黒服たちと一緒に通りに立っていたという。布施さんは、まだ責任者が店に顔を出す可能性はあると踏んでいるようだった。
 一行はまたぞろ雑居ビルの階段を下りて仲町通りに出た。そしてゴシッププリンセスが入っているビルの前に並んで立ち、キャバクラユニオンの黄色い旗をおもむろに広げる。
 わっと黒服たちがこちらに群がって来た。近所のビルから他店の従業員たちも出て来る。上野の仲町通りはキャッチや黒服の男性従業員の結束が特に強いと布施さんが言っていた。彼らは同業者同士で強固なコミュニティを形成していて、「敵が来たら全員でぶっ潰す」というチームスピリットがあるらしい。そして今夜の彼らの敵は、ほかならぬわたしたちなのだ。どこからともなく現れたマスクをつけた髪の長い女性が、いきおいよくユニオンの巨大なトラメガに突っ込んできた。
「てめえらうるさくて営業できねえんだよ! こんなもん持ってきやがってええ」
 と女性はキャリーに積まれたトラメガに手をかけてきた。赤いバンダナを口元に巻いたユニオンのメンバーの青年と山口さんが背後からそれを止める。30代ぐらいだろうか、マスクをかけた女性は「うっせえんだよてめーらああ」と叫びながらそれを振り払おうと暴れている。
「あれ、どっかの店の女の子?」
 アーミーパンツを穿いたユニオンのメンバーに尋ねると、
「女性のキャッチ、でしょう」
 と彼は答えた。
「このビルの2階にあるゴシッププリンセスは従業員に賃金を支払っていません。私たちは責任者の須藤さんに出て来て組合との交渉に応じていただきたいのです。働いたのに給料が貰えないなんて、みなさんおかしいと思いませんか?」
 トラメガのマイクを握りしめて山口さんが大音量で語り出したころには、黒服やらキャッチやらなんだかよくわからない人々やらの怒号は最高潮に達していた。わたしたちを閉じ込めようとしたボーイも姿を現して山口さんと布施さんの前に仁王立ちし、
「何やってんだよ、てめーら、いい加減にせえよー、おらああ」
 と体を弓なりにして威嚇いかくしている。
「さっさと帰れ!」
「勝手なことやってんじゃねえ、アホが!」
「だっせーなあもう」
 と嘲笑ちょうしょうしてわざとらしくユニオンのメンバーの前に立ち、スマホをかざしてアップで一人ひとりの顔の動画を撮ろうとする黒服たちもいる。ポップコーンが宙に舞い始めた。誰かがこちらに向かって投げているのだ。一行の真ん中に立っているエグチさんを目がけて空き缶が飛んだ。またマスク姿の長身の女性が戻って来て「りゃああああんん」と意味不明の奇声を発しながらキャリーの上のトラメガに手を出そうとし、アーミーパンツのユニオンのメンバーがそれを止めようとする。
 ふと前方を見ると、マイクを握っている山口さんの前に、ホームレス風の外見の初老の男性が立ちはだかっていて、何かわけのわからないことをがなっている。彼はきっとこの界隈かいわいで有名な人に違いない。黒服やキャッチはみんな彼を知っているらしく、ちょっと吉本興業の坂田利夫を髣髴とさせる彼が騒ぎの中心に立っているのを見て笑っている。注目を一身に浴びてエキサイトしているらしいその男性は、顔を上気させて笑いながらエグチさんのほうに近づき、小躍りにジャンプして叫んだ。
「働けっ!」
 げらげらとさざ波のように笑いが広がる。わたしのわきに立っていた若い黒服がダミ声で野次を飛ばした。
「そのとおり!」
 ここに来てようやくわたしはこの言葉の意味がわかったのである。彼らは、賃金未払いを訴えている人に対して、まだ「働け!」と言っていたのだ。
「働けっ!」
 ウケたものだからくだんのホームレスっぽい男性がもう一度うれしそうに叫んだ。
 わたしは周囲で笑っている労働者たちの顔を見た。黒服、キャッチのおっさんや青年たち、昔はキャバ嬢だったけど加齢してキャッチに転身したのかもしれないマスクをしたお姉さんたち。彼らだって売上や出来高で競わされている労働者なのだろうに、その労働者たちが、タダ働きさせられている労働者に「つべこべ言わずに働け」と言っている。
 パトカーが仲町通りに入って来て、警官数人が降りて来た。彼らは山口さんに食ってかかっているホームレス風の男性の腕を取り、群れから離れた場所に連れて行った。警察もキャバクラユニオンの争議には慣れているようで、組合側と黒服たちの衝突がエスカレートしないように遠巻きに監視しているという感じだった。
 小一時間も抗議活動をしただろうか。ストリートで黒服やらキャッチやらにがなりつけられた時間はわたしには長く感じられたが、実際にはそれより短かったのかもしれない。エグチさんの終電の時間があったので、今日のところはそれに合わせて引き上げることになった。仲町通りから出て大通りの横断歩道を渡りきるまで血の気の多い若いキャッチたちがこちらを追いかけて来た。トラメガを乗せたキャリーを引いていたアーミーパンツのメンバーの青年の首筋に、キャッチの一人が飛ばしたツバがべっとりとついた。
「大丈夫ですか?」
 キャッチたちを振り切ったところで、赤いバンダナのメンバーの青年がわたしに聞いた。
「大丈夫ですけど、いつもこんな感じなんですか?」
「今日のはけっこう荒れたほうです」
 この青年もボーイとしてキャバクラで働いていたことがあると言っていた。長時間労働や精神的プレッシャーに耐えられず、メンタルを病んで辞めたという。その彼が現在はユニオンで相談の電話を受ける側に回っている。どんなアドバイスをしているのかと聞いてみると、組合の枠のなかで、組合にできることを案内していると控えめに言っていた。
「あのキャッチだって、どんな待遇で働いているのかは知らないけど、不満がまったくないわけはないだろうし、同じように雇用主に使われている労働者なのにね」
 わたしがそう言うと、前を歩いていた布施さんが、キャバクラの労働者ピラミッドでは、キャッチはキャストの女性たちより上の存在なのだと言った。しかも、あれだけ団結して組合と闘えるということは、彼らはきちんと賃金を貰っているのだろう。だが、自分が勤めている店のことでもないのにあれだけ団結して組合員を罵倒し、攻撃することができる理由が、「俺は給料貰ってるからどうでもいいもん」という意識や、近所で働く仲間たちのコミュニティ・スピリットだけだとは考えにくい。彼らがユニオン一行を見る目は、それだけでは説明できないダークなものを帯びていた。
 上野駅に着いた一行は、駅の前で輪になって今日の反省会をおこなった。
 争議が緊迫している最中にいきなりマイクをつかんで「たてえー、飢えたる者ーよおお」と古式ゆかしい左翼ソング「インターナショナル」を歌い出したアーミーパンツ君が、「あそこでいきなり歌ってのは、ちょっと唐突すぎるよね」と山口さんにたしなめられていたのにはつい笑ったが、それ以外では、やはり争議中に現れたホームレス風の男性のことが誰もの印象に残っていたようだった。
「働いても給料を貰えないから闘ってるのに、働け!って……。いったい何言ってるんだろうね」
 山口さんが優しい口調でエグチさんに言った。
「そうですね……」
 エグチさんは相変わらず顔色一つ変えずに落ち着き払った声でそう言った。

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