新潮社

THIS IS JAPAN―英国保育士が見た日本―

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第一章 列島の労働者たちよ、目覚めよ

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Photo by Arto Marttinen on Unsplash

キャバクラとネオリベ、そしてソウギ

「木曜日にソウギがありますよ。行きますか」
 フリーター全般労働組合共同代表の山口素明もとあきさんにそう言われたとき、
「は? お葬式ですか?」
 ととぼけた答えを返してしまったわたしは、それぐらい労働争議というものについてわかっていなかった。そしてよくわからないくせに「はい、行きます」と言ってしまったわたしは、その「ソウギ」がおこなわれる晩、上野の仲町通りを歩いていた。怖そうなガタイのいいおじさんなのにやけに優しい笑顔が印象的な山口さん、ショートカットのストイックな風貌ふうぼうにきらりと知的なひとみが光るキャバクラユニオン執行委員の布施ふせえり子さん、キャバクラ嬢のエグチさん(仮名)、巨大なトラメガをキャリーに載せて運んでいるカーキ色のアーミーパンツの青年、口元に赤いバンダナを巻いた青年、の5人がわたしの前を歩いていた。一行は「ゴシッププリンセス」(仮名)と呼ばれるキャバクラを目指している。目の覚めるようなブルーのアイシャドーをつけたエグチさんはそこで働いていたのだが、約150万円にものぼる賃金が未払いになっているため、キャバクラユニオンに相談に来たのだという。
 原色のネオンが輝く夜の仲町通りには、「キャッチ」と呼ばれる客引きのスーツを着た兄ちゃんやおっさんたちがずらりと並んで立っていた。いずれもあまりガラのよろしそうにない顔つきと目つき。狭いストリートに入っていくと、彼らが一斉にこちらに近づいて来て何やら意味不明の言葉をわめきたてた。それは、腹をすかせた池のこいが水面に放られたパンくずにわっと群がる様子を連想させた。
「働け!」
 金髪の黒服の兄ちゃんが目をギラギラさせて叫んだ。
「働け!」
 頭髪が薄くなってパンチとスキンヘッドが融合したような髪型になったピンストライプのスーツのおっさんも怒鳴る。
 若いお嬢さんにしては不思議なほど静まり返った目をしたエグチさんは、男たちの罵声ばせいを無視して通りをずんずん進んでいく。
「働け!」とは何を意図するのだろうとわたしは思った。一昔前までは可愛かわいい女の子を水商売にスカウトするには、あの手、この手でうまいことを言って、優しくおだてあげてホステスにしたもんだが、ひょっとするとわが祖国では経済の縮小と共にリクルートの手法もすさみ、「働け!」と単刀直入に女の子を勧誘するようになってしまったのだろうか。だが、労働争議に向かう途中の労働者を仕事にスカウトするというのも何か変な話だし、第一そういう傲慢ごうまんなオファーに乗って来る女子なんて、よほどマゾヒスティックでもない限りいないだろう。
 そういぶかりながらキャバクラユニオンの一行について行くと、彼らは雑居ビルの2階にあるゴシッププリンセスという店の内部に入っていった。
「責任者の須藤さん(仮名)はいらっしゃいますか」
 キャバクラユニオンの布施さんがボーイの男の子に聞く。まだそうとう若そうなボーイだ。日本で近年『黒服物語』というドラマがあったと後で知ったが、このボーイはそういう現代風のボーイではなく、どちらかといえば昭和のヤンキーを髣髴ほうふつとさせる髪型と顔つきをしていた。上野という地域性なのだろうか。
 須藤さんはいないし、連絡も取れないとボーイは言った。ユニオンのメンバーたちは、オープン前の店のソファーにどっかと腰を下ろす。こうやって須藤さんが来るまで待つつもりのようだ。
「今日は営業しません。もう閉めますから、出て行ってください。かぎかけますよ」
 鍵をジャラジャラさせながらボーイが言うと、
「また私たちを閉じ込める気ですか?」
 理知的な瞳を眼鏡の奥で光らせて布施さんが抗議した。うわ。これはヤバいことになってきたなと思って、トイレさえ店内にあれば閉じ込められても何とかなるかと思い、それらしいドアはないかと探していると山口さんがこちらに近づいて来た。いったん店の外に出ると言う。撤退したと見せかけて責任者をおびき出す作戦らしかった。
「では、今日のところは帰りますけど、須藤さんの連絡をお待ちしています。給料が支払われていませんから、その件についてお話ししたいんです」
 そう言って店を出て行く布施さんの後を追い、わたしたちも外に出た。再び仲町通りの黒服軍団に「もう帰ってくんなよ」「アホ」と罵倒されながら大通りに出て、少し離れた場所にあるカフェで時間をつぶすことになった。
「キャバクラはネオリベの最先端を行ってるよ」
 と山口さんは言った。
 そこで彼はわたしに給率制きゅうりつせいといういかにもややこしいキャバクラ界の給与体系について説明してくれた。これはつまり、自分の給料が個人的売上の何%になっているかを割り出す計算法だそうで、30万の給料でも15万しか売上がなければ給率は200%(給料が個人売上の2倍ということ)になり、「お前は給料をもらいすぎている」と言われて時給を大幅に下げられたり、「使えない人材」として「バカ」「ブス」といった言葉による虐待ぎゃくたいを受けることもあるという。
 だが、残業代廃止、完全能率主義などという、故マーガレット・サッチャーでもそこまでは言わなかっただろうゴリゴリの新自由主義に向かい始めた日本では、ほかの業界にもこの殺伐とした給与システムが広がっていくのは時間の問題ではないかと山口さんは言った。「あなたの1カ月当たりの労働生産性は10万円ですが、給与は25万円なので、給率は250%です。来月から大幅減給します」という給与体系である。
 が、どうやらキャバクラの給与体系を複雑にしているのは給率制だけではないらしい。なんだかいろいろなものが差っ引かれてしまうというのだ。
「普通に給料から税金として10%が引かれますが、実は店側は納めていない場合が多いんです。あとは、厚生費や雑費という名目で給料から引かれていきます……。ヘアメイク代とか送り代とかそういうのだけじゃありません。ティッシュペーパー代に1000円引かれてたり、ボールペン代や、客に出すおしぼり代ってのもありました」
「製氷機代ってのもあったよね」
「遅刻や欠勤の罰金もあるし、時給3000円とか言われていても、実際にはその半分しか貰ってないことが多い。あれこれわけのわからないものを引かれるともともとの時給が低い人たちでは最低賃金を割っているケースもある」
「給与の未払いがあっても日払いでちょこちょこ貰ったりするから、たとえそれがギリギリ生活できるぐらいの金額でも、続けさえすれば何とかやっていけると思って黙って働いている子たちもいる」
 布施さんや山口さんの話を聞いていると、いったいいつの時代の労働者の話なんだよと思えて来た。女工哀史じょこうあいしならぬ、キャバ嬢哀史である。
 そしてこの現代の奴隷どれい制を成立させているのが、絶えず互いに競争させられる新自由主義の論理なのだという。給率制とやらで売上と給与をパーセンテージで比較され(そんなものが単純に1対1で比較できるはずないではないか。店側にはすでにテーブルチャージも入っているんだし)、給与のほうが売上より多いことを明示された女の子たちは自信を失い、「私が悪いのだ」と思い込んでしまう。すべてが「自己責任」に帰結してしまう日本人特有のメンタリティーがこのネオリベ奴隷制を強固なものにしているのだという。女の子たちは互いに給料の話をすることも禁止され、賃金の話をしていることが店側にわかると解雇されたり、厳しく減給されるケースもある。それぞれシフトが異なっているので時差出勤で時差退勤だから、ヘアメイクしているときぐらいしか女の子同士が話す時間もない。個人単位にばらけさせて互いに競争させ、成績によって差別的に各人の待遇を変えて、女の子たちが群れて文句を言ったり、連帯して雇用主と闘ったりさせないようにする。実に巧妙な管理法ではないか。
 が、いったい女の子たちはそうした劣悪な労働からなぜ逃げようとしないのだろう? あれこれ差っ引かれて搾取さくしゅされているのであれば、昼間の仕事と比べて特に割りがいいわけでもないし、常に孤独に競争させられているのであれば、精神的にも参ってしまうのではないか。
「ユニオンには切羽詰まった相談の電話なんかもあるんですか? 例えば、病んでいる感じの電話とか」
 とわたしが聞くと、布施さんが言った。
「もう本当に、みんな滅茶苦茶めちゃくちゃに病んでますよ。まず、お給料払われないっていうだけでもそうだし、暴力的に管理されてて、脅されてお店を辞められないということもあるので。10代で初めて働いたのがキャバクラやガールズバーだという場合は、働ければそれでいいと思っていることもあるし。給料は貰っていたんですが、計算すると時給400円ぐらいしか貰ってなかった子がいました。彼女は店長から常に自尊心をなくすようなことを言われていました。お前はバカだからここでしか働けないとか、よそのキャバクラに行っても稼げないとか、お前の稼ぎが悪いからみんなの給料が払えないとか」
 エグチさんは表情ひとつ変えずに布施さんの話を聞いていた。キャバクラ界の残酷話が展開されているなかで、「そうなんですよ」と相槌あいづちを打つわけでも、「ひどいですよね」と怒りを示すわけでもなく、うなずくことさえしない。まるでまったく自分には関係のない話を聞いている人のようだった。彼女はきっと、もういちいちいろんなことに反応するのはやめたのだろう。
 1時間ほどカフェで話をした後、わたしたちは仲町通りに戻った。またキャッチたちがぞろぞろこちらに近づいて来る。ここでは別件でも争議をおこなったことがあるので、キャバクラユニオンのメンバーたちは面が割れているようだった。
「あんたらまた戻って来て何やってんの」
「さっさと帰れ」
 ガラのあまりよろしくない顔つきの男たちが口々にののしった。
「働け!」
 また誰かが言ったのが聞こえた。

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