新潮社

大使とその妻水村美苗

[第三回 3/3]

 私は散歩を続けるふりをして工事現場をあとにしたが、足が地面についていないような、雲の上を歩いているような気がした。
「こんなことがほんとうにありうるんだろうか」
 思わず独り言が口をついて出た。
 増築工事が始まったときの自分の絶望を思い起こすと笑い出したいぐらいであった。すべての展開が自分の危惧をひっくり返し、夢のような方向に進んでいた。どんな人たちがこの山荘を使うことになろうと、少なくとも建物はあの男の言ったようなものになる。それに、「引退した夫婦」だというからには、たとえあの山荘を年中使うようになったとしても、ふだんは静かな暮らしを送るだろう。日本庭園にドッグランを作ることもないだろうから、犬がいてもたぶん外では飼わないだろう。しかも、「奥さん」が宮大工と縁があるような京都の旧家の出だというではないか。百歳近い老人をのぞけば今や日本の恵まれた階層の人たちからそれらしい雰囲気を期待できることはないが、それでも、京都の旧家の出ともなれば、いくら何でもがさつな大声で話し立てるということもないのではないか。
 少し気になるのは、男が言った、「外国から戻ってきた」という言葉であった。「戻ってきた」というからには、夫婦は外国に少なくとも数年は暮らしていたのにちがいない。小川の向こうの隣人が外国人でも気にしないでいてくれるだろうというのは助かる。だが、彼らが西洋から、ことにアメリカから戻ってきたとすると、ひょっとしたら、私との交遊を望むかもしれない。向こうが庭に出ているときに私が散歩に出て挨拶され、じきに話しこまれ、しまいにはお茶に来ないかなどと誘われるかもしれない。日本人がなぜかこぞって好きなウェッジウッドのワイルドストロベリーのカップとソーサーで三人でお茶をしている図まで目に浮かぶ。彼らは英語で話したがるかもしれない。英会話の教師の続きをさせられるかもしれない。追分でこんな形で隣人と親しくなるなど一番避けたいことだったが、かといって、あまり無礼な態度をとって、悪い関係におちいるのも避けたかった。最初に挨拶されたとき、どういう風に対応したらいいだろう。人づきあいが苦手だというのを、どう理解してもらえるだろう。
 歩きながらぐるぐる考え続けたあと私は昨夜と同様に反省した。日本建築や日本庭園が自分の小屋の裏に出現し、そこに京都の旧家の出だという女の人が住み始めるというのである。今はその幸せを噛みしめているべきであった。
 夕方「ほそ道」から散歩に出たときは、もう宮大工の御曹司もポルシェも消えていた。
 京都から現場監督にやってきたという老大工を見かけたのは、翌日、夕方に散歩に出たときである。みなのようなジャンパーとパンツという作業服ではなく、藍に染まった伝統的なはっぴの年季の入ったのを羽織り、地下足袋を履いている。格好だけで、そうとう頑固な爺さんなのが見てとれる。もう八十近いか、あるいは一つか二つ越しているかもしれない。両足を広げて不動に立って庭をじっと眺めている姿が、近寄りがたく、その近寄りがたさが、ありがたかった。
 彼が現れてからは、散歩の途中で建築現場をじろじろと見るのはやめ、夕方、みなが引き揚げたあと、こっそりと敷地のなかに入って見て回った。建設中の建物は「ほそ道」から見て想像していたよりも実際はさらに広く、御曹司が言っていた大きな四角いデッキは、道からも母屋からも最も遠い南東の角、すなわち小川のある方に向かって飛び出すらしい。私の小屋の裏を小川に沿って歩けば、小川を隔てて、よく見える場所である。しかし、小川の両側に藪が密生しているだけでなく、敷地が急に低くなっているので、向こうからこちらは見えにくい。
 ゴールデンウィークも終わるころになると緑があざやかに色を深め、庭の白い雪柳や黄色い山吹がいよいよ美しく咲く。散歩道の藤も見事な房を垂らす。藤の花は、しなひ長く、色こく咲きたる、いとめでたし――と清女が言う通りである。私はせっかくの山の春を惜しむためいつもみなより一週間ほど滞在を延ばしてから東京に戻る。その年も松葉タクシーに電話をして荻原さんに来てもらったのは、五月の半ば近かった。
 小川を渡ったところでぐるりとタクシーを回転させた荻原さんは、私が車に乗りこむなりキャップを片手で上げて振り向いた。
「あそこは、日本庭園を造るつもりかねえ。大きな石がいくつも転がってっから」
 顎をしゃくって先のほうの「蓬生の宿」をさしている。
 彼が「日本庭園」などという言葉を出してきたので私はすっかり嬉しくなって、少し身を乗り出して応えた。
「そうなんですよ。平屋の日本建築が増築されるそうです」
「ほうっ」
 荻原さんは真に感心した声を出した。愛想で出るような声ではない。それまで深く考えたことはなかったが、このようなことに興味を持ちうる人だということもあって私は荻原さんが気に入っていたのだった。
 追分では東京以上に人づき合いを避けていた。その結果、追分で私の知人だと言えるのは、ヨルゲン爺さんと荻原さんだけだったが、荻原さんと親しくなったのは二年目の夏のお終いであった。夜中、急に腹の下のほうに激痛が走り、救急車を呼ぶのもためらわれて松葉タクシーに急いで一台寄越してくれないかと電話をすれば、近くに住んでいる荻原さんを寄越してくれた。荻原さんは寝ていたところを起こされたらしく、小さい眼をしばたきながら眠そうな顔でやってきたが、私が額に汗をかいているのを見て驚くと、てえへんだ、と叫ぶなり、そばの救急病院に運んでくれた。腎臓結石であった。そのまま入院ということになり診察室を車椅子で出ると、なんと部屋の外のベンチで待っていてくれた。
「いやあ、ちょっと心配だったから」
 それまで二、三度荻原さんの車に乗ったことがあったが、西洋人だし、住んでいるところが住んでいるところなので、彼のほうはよく記憶していてくれたのだろう。私が独り者らしいので何か手助けが必要になるかもしれないと思って待っていてくれたものとみえる。そのときからのつき合いである。買物の行きに私が車のトランクにゴミ袋を入れてもらっても少しも不快そうな顔を見せず、ゴミ捨て場で手伝おうとまでしてくれる人物である。やがて、お花を習っているというお花好きの奥さん――町役場を通しての六十歳以上の人のパートタイムの仕事として、いろいろな山荘の草むしりをしている――に狭い庭の花の手入れを頼むようになり、その奥さんにたまについてくる孫たちには英語の発音を教えたりもするようになった。荻原さんは最初の数年は「結婚しないのかね」とか「ずっと独り者でいるつもりかね」とか訊いたが、じきに諦めたらしく訊かなくなった。
「蓬生の宿」のことを話せる相手をみつけて、私は身を乗り出した。
「しかも京都の大工さんだった人が現場監督に来てるんです」
「そりゃ、てえしたもんだ。ああ、あの人だね」
 そう言いながらゆっくりと「蓬生の宿」の隣りを通り過ぎると、それまで腕を組んで仁王立ちして庭を眺めていた老大工が私たちのほうを向いた。苦い顔をしている。
「えらく、かっこいい爺さんだな」
「ちょっと怖いですけど」
「うん。怖いな」
 荻原さんは笑って応えた。それから国道に向かう道をゆっくりと上がりながら訊いた。
「どんな人たちが使うんだろう」
「外国に長かった人たちって聞いてます。夫婦だそうです」
「ふうん」
 一息ついてから続けた。
「やっぱり、なんだねえ。外国に長かった人たちのほうが日本の古い文化ってもんを大切にすんのかねえ」
「日本の古い文化」などという言葉を彼が使うのがおかしかった。

(つづく)

続きは本誌でお楽しみください。

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