新潮社

大使とその妻水村美苗

[第二回 3/3]

 それは佐久という町が急に開けてきたのと関係があった。思えば、私が追分に小屋を買った少し前に、東京からの新幹線も高速道路も開通し、畑しかなかった盆地が急速に変貌しつつあったのである。その変貌ぶりがさらに勢いを増すであろうことは予測できたのに、何も考えていなかった。やがて、全国チェーンのモール、家電量販店、一〇〇円ショップ、安売り専門の衣服店、中古車販売店、ファーストフード店、映画館、果てはパチンコ店などが次々と出現していった。それにつれ、軽井沢からも人が佐久に車で行くようになり、すると、今までは砂利道ていどだったあちこちの道が舗装されるようになった。それでもそのような変化がまさか、大がかりな不動産開発につながるとは思わなかった。
 ある年のことである。着いた翌日散歩に出れば、「ほそ道」と平行して浅間山の裾を下がる道の先のほうが立派に舗装され、あたり一面の藪が刈られ、数本の立派な木をのぞくほとんどの高木が切り倒されていた。しかも、土地がほぼ同じ大きさに区切られていた。打ちのめされた私が次の年に戻ってくれば、当然のことながら、同じような大きさの山荘が建ち並び、立派な車寄せがあり、もう人が使っていた。
 熱心に庭仕事をしている人もいた。
「こんにちは」
 高級別荘地なので、住人は一瞬の驚きを隠すと、散歩する私に礼儀正しく挨拶をする。念願の別荘を手に入れられたせいか、だいたいが嬉しそうに笑っている。私も表情をこわばらせないようにして、挨拶を返すが、腹のなかには憂鬱と鬱憤とが広がっていた。
 そのうちにその不動産開発に触発されたらしく、今まで半分眠っていたこのあたりの土地の売買が急に激しくなり、あれよあれよというまに山荘が増えていった。
 この変化がどんなに年々私を不愉快にしていったことだろうか。もちろん、山荘が増えるにつれ、人が生活している気配が濃くなる。清女いわく、すさまじきもの、昼吠ゆる犬。実際散歩していて一ヶ所で犬が吠えれば、別の箇所でも競争するようにほかの犬がやかましく吠える。もちろんやかましいのは犬だけではない。黄昏が迫りつつあるなかを歩けば、テラスでパーティでもしているらしく、高笑いも聞えてくる。酒が回った男の笑い声はことに耳障りに大きい。だが、もっと腹立たしいのは彼らが去っていったあとである。私にとって、日本の別荘地の良さは、忙しい日本人が短期間しか滞在しないことにあると思っているが、彼らが去っていったからといって、舗装された道が砂利道に戻るわけでも、消えた林が戻るわけでもないし、そして、これが一番忌まわしいのだが、建ってしまった山荘が消えるわけでもない。
 このあたりに昔に建った山荘は、日本がまだ貧乏だったおかげで小ぶりだし、意識された日本建築というわけではないが、昔の日本とどこかでつながっている。多くの地元の人が従来の日本の住まいと連続した家にまだ住んでいるのと同じである。今建つ山荘はちがう。
 ほとんどの山荘が漠然と洋風なのはもうこの時代いたしかたないとしても、気に障るのは、西洋建築を丸ごと真似して移したような建物である。そうたくさんあるわけではないが、大きいので目立つのである。最近流行っているのは、スパニッシュ・コロニアル風の、半円型の赤みを帯びたスペイン瓦を屋根に載せた家である。ロマネスク様式のアーチとセットになると、霧雨の煙る日本の山のなかに、地中海の海沿いにある陽気なヴィラが突然現れたような気がする。贅沢な太い丸太を組んだログキャビンもある。すると北欧やらカナダやらの雑木林に一瞬迷いこんでしまった印象がある。ハーフティンバーの山荘もある。三角の屋根が並び、焦茶色の柱と梁、それに白い漆喰壁のコントラストが栄え、建物自体は美しいと言えなくもないが、ドイツやイギリスの田舎町がそこだけに出現する。半時間も歩いていると、どこか嘘っぽいとはいえど、西洋のあちこちに行ったようなものである。最悪なのは、そんな規模はむろんないが、アメリカでマックマンションと呼ばれる住宅と同種類の、ヨーロッパの貴族の館を念頭においたらしい、形式の統一も、職人技を生かした細部も、最低限の美意識も何もない醜悪な「豪邸」である。支柱に支えられた大げさな玄関が必ずあり、窓からはほとんど例外なくシャンデリアが見える。信じがたいことに、いったい何を考えているのか、外壁を鮮やかなピンクに塗り、金具という金具をすべて金色で揃えたおぞましい豪邸も、ここから二十分ほど自転車で行ったところに建った。
 私は車は持たないことにしていたので——キリアンが交通事故で死んだせいだと思う——近所を探検するときには電動自転車を使う。
「あれを見たか?」
 近くのドイツ村で手作りの掘っ立て小屋に永遠に手を入れ続けているヨルゲン爺さんも、そのピンクに塗られた山荘が建ったときには呆れ果てた声を出した。
「ああ……」
 私はため息をつくしかなかった。
 ヨルゲン爺さんはふだんは無口なのに、日本とアメリカの悪口を言うときだけひどく嬉しそうに饒舌になる。髭がのび痩せこけ、中世の修道僧のような顔をしているが、その顔の奥にある色あせた青い二つの瞳もひどく嬉しそうに輝く。
「アメリカ人はともかく、ドイツ人だったらどんな田舎っぺだって、金ができたからっていうだけで、あんな妙なもんは建てないよ」
 そう言うと、いつもの説が続いた。
「別荘地なのに、もっと厳しい建築規制をかけられないなんて、この国は真の文明国とは言えないね。アメリカが与えた憲法のせいもあるが、それを何十年間後生大事に守って一度も修正してないんだから、おめでたい人たちだ」
 ドイツ憲法には「所有権は義務を伴う」といった類いの文言があるので、個人の所有物といえども、個人の義務として、景観という公共財産のために規制を受けるのを当然としている。ところがGHQがいかにもアメリカ人らしく個人の自由ばかりに重点を置いたせいで、彼らが作った日本の憲法にはそういった文言がない。それで景観も規制しにくいのだという。ヨルゲン爺さんが一人でそんなことを調べたとは思えないので、誰かの受け売りだろうと思いながら私はいつも聞いていた。
「たしかに真の文明国とは言えない」
 私はふだんは表立って日本の悪口を言うのを控えていたが、そのときは打ちのめされていたので、賛成した。
 当然ながら不動産開発が進むにつれ、私は追い詰められた獣のようにあちこちとまだ自然が残っている道を探すようにならざるをえなくなった。次の夏に戻ってくると、それまでは同じだった風景がここかしこで消えていた。じきにあまりに散歩するところが減ってしまったので、国道を越して、山に登ったりするようにもなっていた。
 ところが、「ほそ道」だけは、奇跡的にここ十五年、時が止まったように変わらなかったのである。行き止まりだったせいもあるだろうが、それ以前に、このあたり一帯の土地をもつ地主がすでに大変な金持で、土地の価格がよほど跳ね上がらない限り売る気がないらしいと荻原さんから聞いていた。その情報を心の拠り所にしていたのに、なんとよりによって「蓬生の宿」で大規模な増築工事が始まるとは……。
 仰向けになったまま眼を閉じるとさきほどタクシーの窓から見えた光景が浮かぶ。これだけ長いあいだ誰も使わなかったあの裏の山荘で、今になって工事が始まるとは予想もしていなかった。私は三度目に日本を呪った。
「ああ、ああ。だから日本はいやなんだ……」
 四半世紀にわたる日本での生活——それは、幻想とは知りつつも抱き続けていた幻想が、覚悟していた以上に無残に打ち砕かれ続けた年月だった。そして、現実の日本からは何も期待しないよう、逆にいえば、最悪の事態を予期するよう、悟りを求める禅坊主のように自分を訓練していった。その結果、想像を超える興ざめな現実がいくら眼の前に広がっても、一瞬、心がざわつくだけで、次の瞬間は、悟りの境地をとり戻し、ほとんど動ぜずに済むようになった。
 だが、もしあの「蓬生の宿」の隣りに鮮やかなピンクのマックマンションのような代物が建ったら、動じざるをえないであろう。いや、それどころではない。もし、あんな妙なものが建ったとしたら、今度こそ、これはもう日本を去るべきだという啓示なのかもしれない。私が今やっているプロジェクトなど、放り投げてしまえという啓示なのかもしれない。
 その夜、私は何の夢を見ていたのか、うなされ、夜中の三時ごろに目が覚めた。寝つけないうちに、ふと、思いついて、懐中電灯を手に「ほそ道」へと出た。星も出ておらず、ほんとうの暗闇のなかを足元だけ照らして進んで行けば、いつもはすぐの「蓬生の宿」が思いのほか遠かった。
 このあたりだろうと適当に見当をつけて懐中電灯を上に向ければ、予想通り、少し先に白い小さな看板が立っていた。建築現場では必ず道沿いに看板を立て、建物の用途、建築主、設計者、施工者、工事期間などを明記しなくてはならず、そこには、建物の総面積、さらには何階建てかも書かれている。そばまで歩いていった私の眼に「地上一階」という文字が入ったときは肩から力が抜け、大きく息を吐いていた。少なくとも背の高い建物は建たない。外壁がどんな色に塗られるかはわからないが、マックマンションのような建物は建たない。
 それから朝までの眠りは浅かった。
 もちろん、次の日、思いもよらぬ展開があろうとは想像もしていなかった。

(つづく)

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