新潮社

大使とその妻水村美苗

 第一回 3
[第二回 1/3]

第二回

 この地に自分の小屋を買うのを決めたのは、裏で増築が始まった春から十五年ほど前のことであった。東京の地獄のような湿気を帯びた暑さを逃れるため、それ以前は夏になるとヨーロッパのまだ見知らぬ地を訪ねたり、アメリカに戻り、今や家族があまり使わなくなったミシガン湖沿いのソーガタックにある別荘に滞在したりしていたが、毎年くり返すうちにそれが面倒になっていた。仕事が中断されるのも時間がもったいなかった。だが、この先は日本で夏も過ごそうと考え始めたとたん、迷うことなく、陳腐なほど有名な軽井沢を避暑地として選んだのは——と言っても追分は軽井沢の外れだが——兄のキリアンの子どものころの姿が残っている一本の8ミリのカラーフィルムのせいにちがいなかった。
 開けた山の中腹らしいところで、昼の眩しい光を受けたキリアンは、同い年ぐらいの西洋人の少年たちとふざけていた。黒い髪をした日本人だと思われる少年も二、三人混じっていた。キリアンが気づいていないときに父が軽井沢で撮ったフィルムであった。
 十二歳の初夏、日本という、当時、とんでもなく遠かった国にキリアンが行ったのは、私のおかげであった。あるとき、日本のある重工業企業から両親あてに手紙が届いた。日本に二人を二週間招待したいという。父の会社は金属機械を作る機械そのものを作る会社で、日本にも輸出していたが、父の世代の人間はアメリカの圧倒的な富に支えられ、精神的に余裕があったのかもしれない。父は徴兵されたが前線に出ないまま大戦の終わりを迎え、凄まじい戦争を引き延ばしたあげくに二つも原爆を落とされ、必死で復興しつつある日本を助けるのはアメリカ人として人道的な務めだと思っていたようである。勉強熱心な日本人のために技術者を送りこんだりして丁寧な対応をしており、それを感謝されての招待であった。それまでは旅行といってもほとんど仕事のためだった父も、そろそろ二週間ぐらいなら休暇をとってもよいと思ったのもあっただろう。遠い日本という国からの招待だったのも魅力的だったにちがいない。彼は招待を受けた。
 キリアンの下に子どもがまだ四人もいたので、当時家には「スタッフ」と呼ばれる使用人が二、三人いたにもかかわらず、近所に住んでいた祖父母が念の為泊まりにくることになった。生まれて半年もたっていなかった私は、あの時代のアメリカの赤ん坊の常として調合乳で育っていたし、十代でアイルランドからやってきて以来ずっと家で働いていたフラネリーという女中が乳母役を引き受けていた。両親は安心して極東の国に向かって発てるはずであった。それが、出発寸前になってのことである。私にひどい咳が出始めて止まらなくなった。ワクチンは打ってはあったものの百日咳の疑いが残り、いくらなんでもこんなときに他の人たちに任せるわけにはいかないということで、母が残り、子どものなかで一番年長のキリアンが父に同行することになったのである。
 あとになって母は、自分の声が届くところにキリアンがいると、私によく言った。「お前のおかげであたしは損したわ。お前があんなことになんなかったら、『蝶々夫人』の国に行けたのに」。するとキリアンがその度に、「母さん、僕は一生の思い出ができたんだから、母さんにもケヴィンにも感謝してるんだ」と応える。母はキリアンにそう言われるのが嬉しくてわざと私に文句を言うのだが、私は大人になるにつれ、遠いだけでなく、異人種の貧しい人たちが町に溢れ、清潔かどうかも、ろくな病院があるかどうかもわからない日本にほんとうに母が行きたかったかどうかに疑問をもつようになった。母は活動的な人間ではなく、頭痛がするというのを理由に自分の部屋に引きこもり、煙草を吸いながらベッドのなかで本や雑誌を読んでいるのを一番好んだのである。母の代わりにキリアンが行くことになり、道中母のことばかりに気を遣うのから解放されて父もほっとしたかもしれない。
 日本は父にとっても珍しかったらしい。それ以前はほとんどとり出すこともなかったボルシー8で、旅行中、8ミリのカラー映像をたくさん撮った。案内されるに従い、奈良、京都、鎌倉などの古都では大仏や寺や日本庭園、そして東京では皇居の堀にかかる橋や銀座の夜景などが収められていたが、途中で軽井沢に一泊か二泊したらしい。
 知人から紹介された西洋人——イギリス人だったかもしれない——の家族らと時間を過ごしたということで、丁重すぎて煩わしかったであろう日本人の案内から自由になった父のくつろいだ気分が、その二日間の映像に表れていた。それまではいかにも旅行者が撮るような映像を撮っていたのが、好き勝手に眼の前にある光景を撮るようになった。軽井沢銀座と呼ばれる繁華街の当時の様子も映っていた。揺れる映像に日本語と英語の混じった店の看板が見え、今よりも十センチは確実に背が低かった日本の男女が小股で歩く姿があった。日傘を差した着物姿の若い女が、疲れたのか、道ばたにたたずんで、ぼんやりとしていた。その隣りに、麦わら帽に白いシャツをはだけた色の黒い男がカメラを見つめて坐っていた。もう戦後復興期に入ったはずなのに、白目が光った、飢えた眼をしていた。西洋人らしい夫婦の影もあった。そのなかで敏捷に動き回るキリアンの姿はお伽噺の王子さまが紛れこんだように際だって美しかった。
 とりわけ印象に残ったのが、例の同い年ぐらいの少年たちと一緒に映っている山での映像であった。父が撮っているのを知らなかったのがわかるのは、ほかの映像とはまったくちがう表情をしていたからである。あんなに幸せそうにしているキリアンは家では見たことがなかった。言葉も通じない異人種の大人に囲まれて神妙にしていたあと、西洋人の少年たちと一緒になって嬉しかったのもあっただろう。でも、それだけではなかったように思う。家族を離れ、シカゴも離れ、アメリカも離れた解放感——ふだん自分をとり巻く環境から離れた解放感が子鹿のような細い身体中に溢れていた。
 それでいて、ほかの子を追いかけずに、ふと一人になったときのあの表情。それを父のカメラが一瞬捉えていた。捉えるつもりもなく捉えてしまったのだろう。笑いは消え、十二歳の少年だとは思えない大人びた表情、どこか憂鬱な表情で、ぼんやりと遠くを見ていた。二人が戻ってから一緒にフィルムを観たほかの家族がどう反応したのか、幼すぎた私にはわからなかったが、キリアンが死んでから一人で観るうちに、その顔が多くのことを語っているような気がしてきた。オブライアン・マシーンの跡取りとして日本にいるあいだ紹介され続けただろうと思うと、なおさらであった。
 あのころから彼は遠くに消えてしまいたかったのだろうか。
「父さん、僕は向いていないんだ」
「向いてるか向いてないかなんて、やってみなきゃわからないじゃないか」
 あれから何年かするうちに青年となったキリアンと父とが言い争う日が続くようになり、子どもだった私は無条件に父が悪いと思っていた。
 あの8ミリのフィルムを撮ったのが、標高千メートルほどのところにある、軽井沢という場所だというのを知ったのがいつだったかは記憶がない。東京から今や新幹線で一時間ちょっとで行けるその場所が、十九世紀の末、一人のカナダ人の宣教師がそこで日本の夏の暑さを逃れようとしたのを皮切りに、まずは西洋人の避暑地となったこと、それを追うようにして西洋化された日本人も使い始めたこと、やがて日本随一の避暑地として夏には観光客が大勢押し寄せるようになったこと——そういう細かいことを知ったのは、日本に移り住んでからであった。軽井沢を実際に訪れてみれば、フィルムに映っていた光景と眼の前に広がる光景とが重なることはなかったし、軽井沢銀座からは西洋人の姿が消え、並んでいた店もほとんど変わってしまっていた。そもそも新幹線が通ってからは駅の隣りに立派なアウトレット・ストアが何十も軒を並べ、観光地を兼ねるショッピングの町となってしまってもいた。それでも、あのフィルムに偶然刻まれたキリアンの大人びた憂鬱な表情に促されるようにして、私はたまに軽井沢を訪れた。日本で夏を過ごそうと考えたときに、まずは軽井沢の地が頭にのぼったのも当然であった。
 ある年のゴールデンウィーク、軽井沢に着き、駅前の不動産屋の窓に貼られた広告から見始めると、これが山荘かと思われるほど小さな小屋の広告があった。たった千六百万円——十五万ドル弱で西の外れの追分にある。日本に骨を埋めようと決めていたわけではないので、東京でもアパートを借りていただけだったが、こんな程度の物件なら不動産を所有しているという精神的負担を感ぜずに済む。私は特定の人間と深い関係におちいるのも好まなかったし、物を所有するのも好まなかった。しかも十五万ドルならアメリカに置いてある資産にもほとんど食いこまない。そのまま不動産屋に入れば、この小屋つきの物件はわざわざ窓に貼り出すほどのものでもないが、たまたま売りに出たばかりだしゴールデンウィークにはたくさん物件が動くので貼っておいたのだという。その日のうちに見せてもらい、その場で買うのを決めた。
 安く売りに出されていたのには二つ理由があったが、その理由こそ私にとって願ったり叶ったりのものであった。

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