新潮社

大使とその妻水村美苗

[第一回 3/3]

 思えば、私がどこにいようと誰も気にしない。おりもおり疫病が流行っているので、仕事を手伝ってくれている大学院生たちも不思議に思わないだろう。必要があればズームなりなんなりで話せば済む。日本政府は、人の移動するのをなるべく抑えようとしているので、東京のかかりつけの医者を訪ねずとも、近所の病院で切れかかっている鎮静剤や睡眠薬を出してもらえるはずである。私のことを常に気にかけてくれている台湾人のピアノの先生、黄先生は歳だと言ってオンラインレッスンを拒否しているが、発表会用の小さな会場が封鎖されているので例年の年末の発表会もない。一人で練習し、たまに電話をしてご機嫌を伺えばいいだろう。
 このままこうしてここに残って、このどうしようもない喪失感を抱えながら、自分の孤独に向かい合っていたかった。追分はこれから深い秋に入っていき、強い風が吹くたびに黄金色や深紅に染まった葉が天から降るように舞い落ちてくるだろう。そのうちに初雪がちらほら窓の外で踊るのも見えるにちがいない。冬のために必要なものを明日買いにいこう。
 四輪駆動の車を数ヶ月借りたほうがよいかもしれない。
 小屋に戻った私は久しぶりに高揚していた。一度は追分で冬を越してみようと思いながら、なんとなく面倒で実行したことがなかったのであった。机の上のランプをつけ、左手で鉛筆をとると——私は左利きである——棚に載っているイエローパッドに手を伸ばした。三十年前日本にしばらく住もうと思ったときに船便の荷物と共に山のように送ったのがいまだに残っていた。買物リストを作るときに使うくせがついていたので、明日、買うべきものを書き出し始めた。ブーツ、石油ストーブ、雪かき用シャベル……。
 おおよそ必要なものを書き出したあと、深い考えもなく一枚めくって新しい紙を眼にするうちに、ふと、下手な私の漢字で「貴子」と彼女の名を書いてみた。「篠田周一」という夫の名もその横に書いた。二人の名を何度か書いているうちに、いつのまにか「京都大学」「南十字星」「北條夫人」「ぶゑのすあいれす丸」「バストス」などという単語を並べていた。するといくらでも記憶に焼きついた言葉が出てくる。そのうちに、この先、自分の孤独に向かい合うだけでなく、彼らについて——といっても主に彼女についてだが——やはり何らかの形で記録を遺したいという思いが自然に湧き上がってきた。記録魔なのでメモは残っており、仕事の傍ら、彼らの話を少しづつまとめて日を過ごせば、このどうしようもない喪失感をある程度は紛らわせることができるのではないか。こんな時代だというのに、この世離れしたあの二人を前にすると、動画はもちろん写真を撮りたいと言い出すのさえなんとなく憚られ、くり返しになるが、あの空になった山荘以外、彼らが実際に存在していたという証しはどこにもなかった。
 鉛筆で描かれた文字を見るうちに、さらに湧き上がってきたのは、それを何とか日本語で書き遺したいという思いである。やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける……生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける——この文章に初めて触れたとき、危ういほど小さい花を草むらに見いだしたようなおののきがあった。あれは二十歳ぐらいだっただろうか。それから三十五年以上、漢字だらけの文ともカタカナだらけの文とも朝夕つき合ってきた。今や日本語でものを発表する外国人は西洋人にも何人もおり、日本人が日本語の独占権をもっているわけではないのを証明している。常日頃、彼らの勇気が羨ましかった。嫉妬していたかもしれない。書き言葉の日本語の面白さはえもいわれぬもので、実際、私自身も日本語で日記をつけたり、稚拙な歌を詠んだり、短い随筆を試みたりしていた。それなのに、まとまった文章は何一つ遺していない……このままでは自分に対してだけでなく——僭越に響かないのを祈るが——日本語に対してもひどくもったいないような気がしてきた。
 試みたところで誰の迷惑になるわけでもない。

増築工事

 あの山荘で増築工事が始まったのを知ったのは四年前のゴールデンウィークであった。私のように時間を自由に使える人間はいつ軽井沢にきてもいいのに、混雑するこの時期にまずは一度訪れる習慣がついていたのは、みなと同様、山の春を楽しむためで、ちょうどそのころ季節がうつろうさまが息を呑むほどあざやかに感じられるのである。着いたときはほとんど裸だった木々が刻一刻と芽吹き、黒い大地からは小さなすみれやヒヤシンスが顔をのぞかせ、やがてあたり一面の生命が一斉に目覚め、ストラヴィンスキーの『春の祭典』のドッドッドッドという弦の合奏が聴こえるようになる。東京はもちろん、私がよく知っているシカゴの郊外でもこんなに強烈に春の目覚めを肌で感じたことはなかった。
 その日も東京から軽井沢に着き、荻原さんの運転でツルヤと浅野屋に寄ってから自分の小屋に向かい、春の予兆を全身で感じていた。国道十八号線沿いの遅咲きの山桜はすでに地味な花を咲かせていた。国道から外れ、山荘もまばらになったあと、いつもと変わらぬ雑木林の緩い坂道を下へ下へと南下して行ったときである。左手の先のほうに、白いものがちらほら見える。アメリカではありえないほど小さい白い軽トラックが三台ほど駐車してあったのである。これまたアメリカではありえないおもちゃのような重機も視界に入ってくる。そばに行くと職人たちが動く姿もあった。
 荻原さんが仰天した声を出した。
「ありゃ! 工事が始まったね。修復工事だね」
 国道のそばならともかく、この道のこんな先のほうをふだん彼は通ることはないので、それまで知らなかったらしい。荻原さんは山荘の横をゆっくりと通りながら続けた。
「いやっ。増築工事もしてらぁ」
 ほとんど車を止めて窓の外を見ている。建築現場には付きものの仮設トイレも眼に入った。
「それにしても、大がかりな工事だな。誰か買い手がついたのかなあ」
 あまりの衝撃で言葉を失っていた私はかろうじて応えた。
「どうでしょう」
 そのあと首を後ろにねじって工事現場を見て続けた。
「遺産問題がようやく片づいたのかもしれません」
 大規模な増築工事をするほど金に余裕がある買い手なら、古い山荘をとり壊して、新築の家を建てようとするのではないだろうか。北側の屋根から四角い物干し場が突き出ている以外は何の特徴もないこんな古い山荘を残すからには、持主がそれに愛着を覚えているのにちがいなかった。
「ああ、そうかもしれねえなあ。ここは庭がずいぶんと広いしね」
 言葉は乱暴なのに心は礼儀正しい荻原さんは人の意見に無意味に反論したりはしない。
 コンクリートの基礎を囲んで鉄の足場が組まれ、なかにはすでに木の柱が建ち始めていた。南に広がる庭に生えていた大木が何本も無残に肌色の切り口を見せて地面に転がっている。いと、あさまし、と清女——清少納言なら言うだろう。いつから始まった工事なのだかわからないが、もちろん夏には終わりそうもなかった。
「しかしでっけえ増築だなあ」
「大きいですね」
 納戸のようなものを増築する家はよくあったが、ここまで大々的に建物を広げる山荘は珍しかった。
「子どもがたくさんいんのかもしれねえ」
 自分にとってはありがたくなかったが、日本人が子どもを作らなくなって困っていることを考え、私は黙っていた。
「この淋しい道も、これでようやく、少しゃ賑やかになるかもしれねえな」
 荻原さんは怖がりで、最初、昼に私の小屋に向かっていたとき、いやーっ、夜なんか怖くないかね? と真剣に訊いた。実際に夜に通ることになったときは、ハイビームに気味悪く人工的に照らされる緑のなかをおそるおそる進みながら、いやーっ、こりゃ、お化けでも出そうだね、ほんとに怖かないのかね、とさらに真剣な声を出した。私はそのとき失礼がないよう、怖くはないです、と真面目に応えたが、ピストルやライフルやAK47を抱えた人間がうろうろしているわけではないこの国で、いったい何を怖がるべきなのだろう、と苦笑してしまった。それから、その笑いがバックミラーに映らなかったのを祈った。
 車が通り過ぎるにつれ首をさらにねじって後ろの窓から建築現場を今一度眺めた私は、この先のことを考えて憂鬱になった。
 一分後には、私の小屋に着いていた。荻原さんは食料品を小屋のなかに運びこむのを手伝ってくれたあと、「そいじゃまた」とキャップを片手で軽くもちあげると消えていった。私も片手を上げた。
 いつもは食料品をすぐに片づけるのだが、その日はまずは壁にかかった双眼鏡を手にとると——舞台用なので七倍の倍率しかない——裏に回って藪を掻き分け、小川にかけた板の橋のこちら側から向こうで人や機械が動く様子を覗いた。工事の規模の大きさに忌ま忌ましさがこみあげてくるだけだった。
「だから日本はいやなんだ……」
 論理を欠いた結論だが、こういうときに自動的に出てくる結論である。
 小屋に戻って食料品を冷蔵庫にしまったあと、私はベッドに仰向けになって天井を見ながら、これから起こるであろういくつかのシナリオを頭に描いていった。好ましいと思えるシナリオは一つも描けなかった。
「ああ、ああ。だから日本はいやなんだ……」
 私はそうくり返し、ここ数年間のうちにこのあたりで始まった開発のことを呪いながら振り返った。

(つづく)

 第二回

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