立ち読み:新潮 2022年7月号

たたみ、たたまれ/山田詠美

 まだ十四歳で、しかも普通の子よりもずい分と体の小さな私が、撲殺という手段を使って人をあやめることが出来たのかと、その当時、世間はひどく騒いだようです。
 ようです、というのは、第三種と呼ばれる医療少年院に長らく収容されていたので、世間の風にさらされることなく、日々、外からの情報と関係のないところで静かに過ごしていたからです。
 当時の報道に関することは、後になって聞きました。そして、驚きました。私の体が小さいから撲殺など不可能と考えるなんて。
 出来ます。不意打ちすれば良いのです。
 たとえば、男が立ち小便をしている時など、成功率は高いのです。連れションなどと言って、四人ほどの悪ガキたちが土手に並んで放尿している場面に出喰わしたことがあります。誰が一番遠くまで飛ばせるか、などとたわけたことを言ってはしゃぐ彼らの背中を見て思ったものです。
 今なら、あいつら全員を背後から襲って殺せる。
 鉄パイプで殴ったら死に至らしめる確率はかなり高い。大きめの石で後頭部を順ぐりにかち割りにするのもありだ。縄飛び用のロープを引っ掛けて後ろから首を絞めるのもいけるかな。
 いや、たぶん、四人順番に殺して行くのは無理かもしれません。ひとりに手をかけている間に、残りの奴らに気付かれて、私の身の方が危くなるに違いない。
 やはり、人を殺す時には欲張ってはならないのです。常に無欲な人殺し予備軍であること。
 そんな哲学を胸に秘めた私の名は、若村麻理子。まだ人殺し以前の純朴な自分だった頃を、今、思い出しています。両親と兄と私の四人家族で、平凡な幸せに浸り切っていた幼ない日々。
 あちらこちらに愛情の欠片が転がっているような家でした。とりわけ、父の周囲は、まったく尽きることのない泉のように愛がたれ流されていました。私は、彼ほど家族に奉仕する人を知りません。とりわけ、母に対しては、召し使いもかくや、と思われるほど律義に仕えていました。
 私の両親は、夜は酒も提供する古い喫茶店を経営していました。母の親戚から引き継いだ店で、一時は時代遅れの象徴のようになりつぶれかけましたが、どうにか持ちこたえると、今度は、昭和のたたずまいを残したレトロなカフェーなどと評判になり持ち直したのでした。
 あんバタトーストやシベリアがおいしい、とか、豆かんがいけるとか、新鮮に感じた若い人が次々と訪れるようになり、雑誌の街歩き特集などにも載りました。
〈懐かしい味と共に、ゆるやかな時の流れに身をまかせてみる〉
 そんな見出しが付いていました。そして、にこやかに笑う店主夫婦の写真が。
 すごーい、と誇らしい気分になった私が父を見ると、彼は、本当に嬉しそうにしています。
「麻理子さんのおかげだよ。新しいタイプの店と張り合う必要ないって、力強く言って励ましてくれたでしょう? あれで、開き直れた」
 照れ臭そうに娘に感謝する父。彼は、私を「麻理子さん」と呼びます。そして、決して子供扱いすることなく尊重してくれる。私が知る中で、一番、素敵な紳士。もっともっと親孝行したい。
「だって、ブルーボトルコーヒーとか、そんなのとは別の素晴しさがあるもの。うちのコーヒータイムには。ある種のお客さんは、コーヒーと一緒にノスタルジーも味わってるのよ」
 ほお、と父は感に堪えないという表情を浮かべて言うのでした。
「ノスタルジーか……麻理子さんのボキャブラリーの豊富さには恐れ入るよ」
「ボキャ?……」
「ああ、語彙のことだよ。言葉の選び方が素晴しいんだ」
「ほんと? 嬉しい! だいたい近頃、センスの欠片もない言葉がはびこっているんですもの。知ってる? 喫茶店で、夜はお酒も出す店を『キッサカバ』と呼んだりして」
「キッサカバ!?」
「そうなの。私、そういうの全然趣味に合わない。俊行さんだって同じでしょ?」
 私も、二人きりの時は父を名前で呼びます。麻理子さんと呼ばれるのなら、そうするのが自然な気がして。
「うちのお店は、昔からの時の流れに逆らわず、自然に自然に行けば良いと思うの。この間、夜に来たお客さんが、ヴァイオレットフィズ、懐かしいねえって言ってたの、盗み聞きしちゃった。おじいさんだったんだけど、亡くなった奥さんにプロポーズした時、一緒に飲んだんだって。フィズって、古臭いお酒みたいに思ってる人は多いけど、それって、色んな人の歴史を見てきたってことでしょ?」
「おやおや。麻理子さん、お酒に興味を持ち始めちゃったの? 夜は、店の方に来たりしちゃ駄目だよ。酔っ払いが、ちょっかい出して来るかも解らないからね」
「はーい」
 私は舌を出しました。ちょっと大人びた世界に踏み込もうとすると、ものすごく心配する父です。噛んで含めるようにして、私を諭そうとする。でも、大事にされている証なのでしょう。ちょっと、うるさいな、と感じることもありますが、仕方がありません。私は、彼の目に入れても痛くない娘。ねっ、俊行さん。

(続きは本誌でお楽しみください。)