立ち読み:新潮 2022年6月号

いくらかの男たち/黒川 創

 初めて女性と寝たとき、どうして彼女がそういう行動を取ろうとしたのか、私にはわからなかった。そのとき、私は一五歳で、彼女は二八歳、そして恋人もいた。だが、それが、私には、うれしい出来事だったのは確かである。彼女のことが好きだった。好きになる相手は一人だけではないとしても。彼女は「あとで行くからね」と予告してから、暗がりのなかを私の寝床にやってきた。つまり、彼女は、自分がやりたかったことをしたのである。少なくとも、そうした相手として、私を好ましく思ってくれてはいたわけで、それがうれしい。最初の性体験で、互いの気持ちが通じる経験を持てたことは、私にとって、生きていく上での道しるべとなった。
 暗い寝床のなかで、彼女は「初めてなの?」と訊いた。うなずくと「……そう。とっくに経験してると思ってたよ」とも言った。だが、一五歳の私には、二八歳という大人の女とのあいだに生じる状況を自力で動かしていく力がない。
 そこで、「どうしたら、いい?」と彼女に尋ねた。仮に、由紀さんとしておこう。
 由紀さんは、薄闇のなかで、自分の首筋を指で示し、
「じゃあね、ここにキスして」
 と、低く小さな声で、ちゃんと答えてくれたのだった。

 四〇歳になるのを目前に、初めて赤ん坊の父親となった。
 娘の成長は早い。たった一日のうちにも、見るたび、少しずつ大きくなっている。そのたび焦りを感じた。
 いずれ、この娘も、男と寝る。いや、寝るに至るまでのさまざまな経験も持たずにいられない。できれば、それが満ち足りたものであってほしいが、そのようになる保証はない。この世界に生きるとは、そういうことだからだ。おぞましい経験をしなければならない可能性も、つねにある。そうあってほしくない。けれども、私にはそれを食い止める力がなく、ほかの誰にもないのである。娘は、これから、そうした無限の可能性の荒れ野を行く。たまたま私は、そこで、好きな女と寝るという経験に恵まれた。この娘にも、同じような僥倖があることを願う。
 私は、由紀さんに、彼女自身が初めて男と寝たとき、どんな感じだったかと、訊いてみたことがある(――初めて彼女と寝たときのことではなかったかもしれないが、せいぜい、二度目か三度目のときだろう)。
「とても気持ちよかった」
 と彼女は答えてくれた。相手は、かなりの年上だった、それもあってか、とても安心していられる時間だった、ということを、そのとき彼女は話してくれたように思う。
 由紀さんから、私は、これを聞けてよかった。

 ある相手が言ったこと、あるいは、その相手からされたことを、人はすべて覚えているわけではない。むしろ、多くのことを忘れていく。自分が行なったことについても、そうである。だからといって、すべてを忘れてしまうわけでもない。多くのことは忘れるが、いくつかのことは忘れずに覚えている。だが、ある相手とのあいだの経験で、どのことをやがて忘れて、どれは覚えていることになるのか、あらかじめ知っておくことは、できないのだ。むしろ、それこそが、いくばくかは、生きているということの意味なのかもしれない。
 由紀さんと話したこと、あるいは彼女と一緒に経験したこと。それらについても、いまでは多くを忘れている。そう感じる。多くのことを覚えているように感じていたが、いざ順を追って思いだそうとしても、きれぎれで、そこにどんな前後関係があったのかさえ、いまでは確かめてみるすべもない。
 由紀さんは、どうなのか。彼女にとって、それがどれほどの意味を持つものだったか、私にはわからない。想像してみることはできる。だが、その想像が、どれほど当たっているのかは、まだわからないということに、耐えて生きていくしかない。
 小説というものを書こうとするとき、いつも、そうしたことを考えずにはいられない。ある人物が覚えていることを、相手の人物も覚えているのか。覚えているとしても、同じように覚えているのかは、わからない。むしろ、複数の人物たちが、お互いのあいだに起こったあるときの出来事を、同じように記憶している可能性は少ないだろう。それを思うと、小説というものは、どのように書かれるのが正当か。これを考えるのは、なかなかに厄介でもある。
 私は、由紀さんと話したこと、彼女と取った行動で、覚えていることがある。だが、どれも、もう何十年も前のことで、どこに一緒に旅したのかさえ、彼女は、たぶん、もう覚えてはいないだろう。
 いや、覚えていることは、彼女にもあるかもしれない。もし、そうであったとすれば、それらの多くは、おそらく私が覚えていないことだろう。
 そうした記憶のありかたについて、「小説」は、どのような表現を取れるのか?

 娘のマキが、保育園の年長組に上がろうとするころだったか。
 この子は、路上で痴漢などに襲われたら、ちゃんと大きな声を上げて、周囲に助けを求められるだろうか、と心配になった。だから、いまのうちに、いざというとき、恐怖に圧されて声が出ないという状態に陥らないように、大声を上げる練習をしておいたほうがよさそうだ。――そういうことを思いついた。
 娘の保育園は、鎌倉・材木座の海岸近くにある。だから、前日のうちに、
「あしたは、こわい人にマキが追いかけられても、ちゃんと『たすけてー』と大きな声を出せるように、海岸でおとうちゃんと練習しておこう」
 と娘を説得し、登園前の時間に、大声を出す練習に連れ出したことがあった。妻はあきれて、朝、いつもより一時間近く早い時刻に、谷あいの家をクルマで出発していくわれわれを見送った。
 材木座の海岸は広い砂浜で、早朝でも人目につきやすい。だから、親子で大声を出すには恥ずかしい……。そう考えて、材木座海岸をやや南に外れた「和賀江島わかえじま」と呼ばれる岩礁の近くで、駐車した。岩礁の先の海中には、石積みされた築港の跡が残っているそうで、鎌倉時代には南宋との貿易などにも使われた場所なのだという。
 磯で、マキと私は、あいだに二〇メートルほど置き、離れて立った。そして、「たすけてー」と叫ばせるのは物騒なので、大きな声で「おとうちゃーん!」と、どなってみよ、ということにした。
 マキは、私の求めに付き合って、二、三度、照れながらも、「おとうちゃーん!」と大きな声を出した。
 むこうの浜から、犬を連れた老人が、こちらの様子を眺めていた。
 大声の稽古を終えると、マキと私は、浜づたいに歩いて保育園に登園する。犬を連れた老人の前を通りかかると、「ごくろうさん」と笑顔で声をかけられた。
 娘は、もう、それからは恥ずかしがって、大声の練習には行きたがらず、あの朝の一回きりで終わっている。

 初めて私が小説を書こうとしたのは、三〇代なかば、一九九〇年代後半に差しかかるころだった。出版不況が深まって、フリーライターとしての仕事がなくなり、小説でも書いているしかない、というほどの時間ができた。だが、いざ書こうとしてみると、私にとって、小説というのはなかなか難しいものだった。自分でよく考えてみないと、わからなくなってしまうことがたくさんあった。
 そうした時期に、何か所用で、銀座の地下鉄駅あたりを通りがかったことがあった。平日の宵どきで、たしか夜九時半くらいではなかったか。改札口前も賑わっていた。そのとき、私と同年くらいと思える、長身に上等なスーツを着けたサラリーマンらしい男が、すぐ前を横切った。当時、携帯電話が普及しはじめていた。私はまだ持っていなかったが、その男は携帯電話で誰かと話しながら歩いていた。周囲をはばからずに、大きな声で話しているので、その言葉が耳に届いた。
「……あ、おれ。いま、池袋にいるんだ。……」
 彼は、顔色ひとつ変えず、嘘を話していた。そのことに、私は驚いた。
 むろん、いつの時代にも嘘はあり、私自身も多くの嘘を重ねて生きていた。けれども、嘘をつくときには、頬がこわばった。電話で嘘をつかなければならないときにも、誰かに見られるのは恥ずかしく、人目につかないところにある公衆電話などを探したものだった。
 だが、携帯電話という機器があれば、どうやら、そうではないらしい。むしろ、この機械は、彼の意識から、周囲の人通りを消してしまう。それによって、どこにでも「密室」を作り出す。移動しながらの通話を続けて、「場所」という概念さえ、やがて薄れる。意識的に嘘をつく、というより、嘘と本当のことの区別自体が消えていく。
 私にとって、この一瞬の経験は、二一世紀への小さな入口となった。

(続きは本誌でお楽しみください。)