30年後も憶えているであろうことを思い浮かべる。
30年後に思い浮かべるであろうことを憶えている。
(フィオナ・タン)
Ⅰ 二〇一七年、早春
ホテルの中庭に出てみようと提案したのは
次女の
上の娘を瑜瑜と名付けたときから、次も娘が生まれたらやはり同じ漢字を二つ重ねた名にしようと思っていた。
瑜瑜と喜喜。
男の子にも恵まれていたのなら息子にとっての自分はどんな父親だったのだろう、と考えたことがないわけではない。しかし、今明虎は、玉伶との間に瑜瑜と喜喜という、ふたりのかけがえのない娘を授かった自分の人生に十分満足している。しかも自分たちは日本という異国で娘たちを育てあげた。四歳九ヶ月の瑜瑜を連れて喜喜を産んだばかりの玉伶に会いに行く日、これからは、と明虎は長女に言った。
――パパとママと瑜瑜、それから赤ちゃんの四人で一緒に暮らすんだ。
あの頃から思えばずいぶんと遠くに来たものだ。少し、感傷的になっていた。喜喜の挙式と結婚披露宴がおひらきとなって、まだ一時間も経っていなかった。
次女夫婦の式も宴も、身内のみのごくささやかなものだった。花婿の両親と祖母、伯父や叔母たちは皆、福岡や九州の人間である。新郎側の参列客を見送ってしまうと、ホテルのロビーには今夜ここに宿泊する新郎新婦と明虎と玉伶、そして瑜瑜だけが残った。玉伶が喜喜に向かって、生涯に一度だけおとずれる特別な夜なのだから、と中国語で囁く。喜喜がうなずくと玉伶は台湾語でもまったく同じことを繰り返す。喜喜は自分では日本語しか話さないが、母親の言うことなら何語であってもわかるのだ。新妻とその母親の隣にいる婿にむかって、アユムクン、と明虎は声をかける。
――喜喜を、よろしくね。
母国語でならもっと気の利いたことが言えたかもしれないが、それで精いっぱいだった。ハイ、と頭を下げるその目が潤んでいる。
そうやって明虎は、最愛の娘のうちのひとりが新婚初夜を迎えるために立ち去るのを見送り、もうひとりの最愛の娘と妻との三人きりで中庭へ出たのだった。バーに行ってみない? と提案したのは瑜瑜だ。疲労感はあったが、ほぼ一日がかりの式と披露宴で花嫁の父と母と姉としての役目を無事にまっとうしたという充足感を妻と長女ともう少しだけ分かち合うのも悪くない、と明虎は思った。玉伶も、いいわねえ、と喜喜の姑の口癖がうつったかのような言い方をして娘の腕をとる。母親と腕を組んだ瑜瑜は明虎の顔を見ると、もう少しパパとママと一緒にいたくて、とはにかむ。
中庭から屋内に戻り、いよいよバーのあるほうに向かって連れだって歩いていると、背の高いホテルマンがすれちがいざまにほほ笑みかける。愛想のいい玉伶が、こんばんは、と律儀に挨拶を返すと、ごゆっくりおくつろぎくださいませ、といちいち立ち止まって頭を下げる。ホテルマンが遠ざかると、こんなところに泊まれるなんて夢みたい、と瑜瑜は呟き、パパのおかげだね、と明虎に笑いかける。瑜瑜は、妹の結婚式の夜に一人だけビジネスホテルに泊まるつもりでいたのだった。パパがきみの分の部屋代を出さないとでも? きみは花嫁の姉さんだぞ、なんの遠慮がいるんだ……明虎は、自分は次女の晴れの日に長女を一泊数千円の宿に泊まらせるような父親ではない、とも言った。ところが瑜瑜は、数千円のホテルもなかなか悪くないんだから、などと言い出す始末だった。
――お金の問題じゃないんだ。これはパパからのお願いだ。妹の結婚を、学会発表のための出張と同じように考えないでくれ。
それでようやく瑜瑜は、それならお言葉に甘えて、と言ってここに泊まることを承諾したのである。瑜瑜がよく口にするその日本語が、明虎はたまに気になった。この子にはどうも慎ましすぎるところがある。浪費や散財に悩まされたいというわけではむろんないものの、自分の娘には吝嗇な人間であって欲しくない。その境遇にふさわしい大らかさをもって、堂々といてほしい。宴の席で、お姉さんは大変優秀な女性とうかがってますよ、と新郎の父親が言ったときにも明虎はそう思っていた。
――優秀すぎて、理想に叶う男性を探すのはなかなか大変なのでしょうね。
歩の父親が、瑜瑜自身に対してだけでなく、自分たち夫婦のことをも気遣うつもりでそう言ってくれたのは明らかだった。妹の舅や姑のみならず、その親戚たちからも注目されると、
――わたしはそんなに優秀ではありません。ただ、ひとさまよりもずいぶんと長く勉強させてもらっただけなんです。
瑜瑜は生真面目な調子で言い、明虎のほうをちらっと見やった。披露宴が済んだ今になってやっと、母親と腕を絡ませながらやけにはしゃいでいる瑜瑜が、明虎は少し可哀そうになる。未婚のままで花嫁の姉という役目を担わなければならないのは、きっと楽なことではなかったはずだ。気の重い一日を乗り越えて、よほど安堵しているのだろう。瑜瑜は内弁慶なところがあり、元々、社交的なほうではない。玉伶に似ればよかったのだけれど、その要素に関しては、下の娘がみんな持っていったようだ。ふしぎなもので、背格好だけなら小柄な瑜瑜のほうがよほど母親似なのに。中学生になるのを待たずに姉よりも長身となった喜喜が、ママとおねえちゃんみたいにかわいくうまれたかった、とぼやくたびに玉伶が、あなたはお祖母ちゃんに似たのよ、パパのママは若い頃とても美人だったんだから、と言ってなぐさめるのがお決まりだった。確かに喜喜のすがたかたちは明虎の母親をかなり受け継いでいる。しかし娘たちのそれぞれの性格や気質となると、これまた交差がある。喜喜とちがって瑜瑜はめったに自分の話をしてくれないから心配よ……と玉伶が嘆いたときは、何でもかんでもぺちゃくちゃ話すことだけが心を開いている証拠ではない、と言いたくなったが、瑜瑜はぼくと似て口下手なんだ、と言うのに留めた。玉伶は、そうよね、と溜息をつき、瑜瑜のことを世界の誰よりも理解しているのはあなたよね、と言った。
日があるうちなら天井まで続く窓から降り注ぐ自然光が心地よさそうなバーの入り口で、三人です、と瑜瑜が弾んだ口調で告げる。すぐに奥まったソファー席に案内される。いい席ね、と玉伶が言うと案内してくれたウェイターが感じのよい微笑を浮かべる。瑜瑜が素早く母親の横に腰を下ろしたため、明虎は一人で広々とした奥側のソファーに座ることになる。メニューにある色彩豊かな写真に惹かれた玉伶と瑜瑜がオリジナルのカクテルを試したいというので、コーヒーを飲むつもりでいた明虎もウィスキーの水割りをもらうことにした。ウェイターが行ってしまってから、
「パパとママとこうやって過ごせるの、うれしいな」
妙に健気な言い方をするものだから、つい、ほろりとさせられる。結婚で妹に先を越され、研究者としても芽を出せぬまま大学を離れてからは知人が運営するNGO団体の職員として細々と暮らす瑜瑜が、今後、自力で生計を立てるのはほとんど不可能だろう。喜喜はこれから新しい家庭をつくる。それなら瑜瑜は、自分たちのそばにずっといてくれればいい。結婚していないことや、立派な肩書がないことに気後れしてほしくなかった。ほかの誰がなんと言おうとも、自分の庇護のもと、瑜瑜が瑜瑜らしくいられさえすれば、それがこの子自身にとっての最良かつ唯一の選択なのだと思っていた。
(なんの心配もしなくていい)
いまこそ、そう言うべき時機なのだろう。喜喜の結婚式の日取りが決まったあと、明虎はひそかに考えてきた。玉伶も賛成するはずだと思っていた。
(きみは、ずっとパパとママのそばにいてくれればいい。遠慮など、しなくていい……)
明虎が言おうとしたそのとき、
「わたしが、いま、つきあっている人もこの系列のホテルで働いてるんだよね」
あまりに唐突に切り出されたため、明虎は思わず自分の日本語能力を疑った。玉伶にいたっては、あなたも一緒に泊まることにしてよかったでしょう、と瑜瑜の告白をすっかり聞き逃している。桃色のカクテルとウィスキーが運ばれてくる。ウェイターが行ってしまうのを待ってから顔を上げると瑜瑜は緊張した面持ちで佇まいを整える。
「パパとママに聞いてほしいことがある」
(続きは本誌でお楽しみください。)