立ち読み:新潮 2022年1月号

精神の考古学/中沢新一

序章(一)

   「アフリカ的段階」から

「精神の考古学」とは、吉本隆明氏が私の学的な企てにたいして与えた名前である。吉本氏はこの名前について、つぎのように書いている。

 今度、『チベットのモーツァルト』を改めて少し丁寧に読んでみて、もう少し立入った言い方ができるような気になった。中沢新一は何をしようとしているのか。知識不足でおぼろげなところがあるが、わたしなりに判るところがある。彼はわたしの勝手な言葉を使うと、精神(心)の考古学をチベット仏教(密教)を素材に追求し、解明したいと考えているのだと言えばいいのではないか。
 普通、考古学者は、場所の地名や地勢などによって発掘の箇所を特定し、地面を掘りかえす。出土品である器物や住居跡などの構成と地層から時代を確定し、生活形態や社会形態、政治支配や死生観などを推論する。また集落の規模や住居の組成から総人口や集約人口、産業形態や日常の食料品などの処理の仕方を推定することもできる。
 しかし、ある古典的な遠い過去の時代に、人間は(住民は)どんな精神(心)をもち、何を考えていたかなどを推論により知りつくすためにはどうすればいいのか、何を掘り返せばいいのか。
 この精神(心)の考古学とでもいうべき専門家たちにはたった一つの方法しか考えられない。それは未開の宗教、医術、知識、経験などを継承し、それに通暁しているか、それらの技術を保存している固有社会の導師に弟子入りしてその技法を体得し、その核心を現代的に解明することだ。たぶん中沢新一の『チベットのモーツァルト』は、この「精神(心)の考古学」の技術法を使ってチベットの原始密教の精神過程と技法に参入し、その世界を解明しようとした最初の試みではないかと思った。彼にとっても最初であるとともに、日本の仏教研究としても最初の斬新な試みだと思える。

(講談社学術文庫版 『チベットのモーツァルト』への吉本隆明の解説から)

 吉本氏の「精神の考古学」への関心は、彼が歴史の認識を根底から刷新するために提出した「アフリカ的段階」という独特な概念の展開と、深い関わりがある。この概念のおおもとの出所はヘーゲルである。ヘーゲルの歴史哲学では、近代の民族国家を中心にして形成された歴史だけが、「世界史」として認められた。アジアはどうなるかというと、西欧の国々に隣接してさまざまな交渉をもった地域だけが、この世界史と関わりをもつように考えられた。
 そうなると、「産業も育たずに食糧は天然の木の実や河や海の魚類や、内陸の鳥獣を狩猟して喰べているようなアフリカや南北アメリカの原住民のようなアフリカ大陸の動物生にひとしい生活を営んでいる住民は世界史から除外される」(前掲論文)ことになる。このあまりに単調な進歩史観には、ヘーゲルの「弟子」を任じていたマルクスもさすがに辟易としたらしく、『資本制生産に先行する諸形態』では、原始と古典古代のあいだに「アジア的」という段階を挿入して、進歩史観に多少のひねりを加えようとした。
 しかし吉本隆明氏は、ある時期からヘーゲルによる近代西欧を核とする世界史の概念とマルクスによるまるで「間に合わせ」のような「アジア的段階」という概念の挿入に、深い疑念をもつようになったのである。

           *

 とくにアフリカ大陸の原住民を動物生を営むだけの空っぽの生活民とみて文明と文化が次第に西欧近代まで進歩してきたと考える史観を信じかねた。
 西欧やアジア地域にも文明と文化諸分野に遺制が存在することに思い到ったとき、いわば「アフリカ的」ということを「段階」として設定できることを信じていいと自己確認し、『アフリカ的段階について』を概論した。

(吉本隆明、解説)

 吉本氏は『アフリカ的段階について』において、アフリカ的段階に属すると思われる人々の精神の働かせ方の特徴を、言語象徴によらない、あるいはそれを超えた認識が多用されているところに見出している。それはたとえばアメリカ先住民による次のような表現である。

 わたしたちにとっては、神は岩の中、木の中、空の中、至るところに遍在した。太陽はわたしたちの父だったし、大地はわたしたちの母、月や星はわたし

  わたしは半ば川となってさまよった、
  水はどこへも流れてゆかなかった。
  わたしは影もなしにさまよった、
  体だけ陽に照らされて。
  わたしは根のない木になってさまよった、
  土はわたしを知らなかった。
  わたしは翼のない鳥になってさまよった、
  空はわたしを忘れていた。
  わたしは雷鳴のない稲妻だった。
  雨を奪われた花だった。
   (中略)
  わたしの部族の人々は、一人の中の大勢だ。
  たくさんの声が彼らの中にある。
  様々な存在となって、彼らは数多くの生を生きてきた。
  熊だったかもしれない、ライオンだったかもしれない、わし、それとも
  岩、川、木でさえあったかもしれない。
  誰にもわからない。
  とにかくこれらの存在が、彼らの中に住んでいるのだ。
  彼らは、こうした存在を好きなときに使える。

(ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』金関寿夫訳)

 ここには、鳥や獣や樹木や河川のような全自然物に、「わたし」の中に住んでいるのと同じ霊的実体が住んでいるという、アフリカ的段階の精神のおこなう認識の特徴がみごとに示されている。吉本氏はこれを「自然まみれ」の意識と呼んでいる。そこでは「わたし」の意識はいつでも、これら自然物の中に入り込んで生成変化していくことができるし、自然物は人や神と区別がない。『さしあたって河川も岩も樹木も鳥も人(神)に擬して表現されているが、これは全自然物を擬人化していることと、人(ヒト)が擬似的に自然物化したところに存在のレベルをおいていることとが同根になっているのだ』(吉本隆明『アフリカ的段階について』五七頁)
 アンリ・ベルグソンはこのようなアメリカ先住民の思考法を考察して、彼らの世界観では、互いに個体化されている存在物の背後に、流動的な大きな力の流れのようなものが直観されていて、個体化とはその流動する霊的な力が停止したときに発生する一過性の現象であるようだと論じているが、吉本氏ならばそれこそが「自然まみれ」のアフリカ的段階の精神の特徴である、と考えたであろう。
 すると「わたしは鸚鵡だ」というような(南米ボロロ族の)先住民的表現は、十九世紀の哲学者が考えたような「前=論理」的思考のあらわれでも、二十世紀の構造主義が考えたような「象徴」的思考でもない、ということになる。アフリカ的段階の精神において作動しているのは、西欧的論理の未熟な前段階なのでもなく、そこでは象徴的思考とは異質な知性が働いている。
 このようにアフリカ的段階の精神の世界では、(マルクスの言う)アジア的生産段階以後の世界におけるように、象徴や記号が重要な働きをおこなっていない。そこではどんな象徴も記号も、自然物につながりながら広がって生成変化しているので、事物の同一性や変化しない実体などといったことは、考えられていない。有(存在)ですらそうである。個体化された事物の背後を流れる流動的な力は、有ではない。また無でもない。その有と無の中間の場所に、アフリカ的段階の精神の注視は注がれている。

(続きは本誌でお楽しみください。)