立ち読み:新潮 2021年9月号

[往復書簡]                 
笑犬樓 vs. 偽伯爵(前篇)/筒井康隆 蓮實重彦

 蓮實重彦様 

筒井康隆 

 瀬川昌久氏との共著「アメリカから遠く離れて」をご恵贈いただき、読ませていただきました。
 瀬川さんとは三年前にシネマヴェーラ渋谷で対談をしました。その時は「突貫勘太」を上映したんですが、私はあの「イエス・イエス」という主題歌よりも「ウーピー」の主題歌「マイ・ベイビー・ジャスト・ケアーズ・フォー・ミー」が好きなので、あれを歌ってお聞かせしようと思っていたのに当日はそれをけろりと忘れ、キューブリックの「シャイニング」などの、特にエンディング・テーマの選曲のすばらしさをお話ししたんです。「ミッドナイト・ザ・スターズ・アンド・ユー」という曲そのものはずいぶん古いんですが、あんな甘ったるいラヴソングが「シャイニング」のエンディングになると物凄いものになる、そういったことをお話しすると瀬川さんが、筒井さんはそんな新しい映画もご覧になってるんですねと仰有ったのでこちらが吃驚しました。あれだって四十年ほど前の映画ですよ。だからむしろ逆にあれを新しい映画と仰有る瀬川さんの凄さに感心しました。
 お二人の対談で何より羨ましかったのは、お二人が東京のど真ん中で過してこられたという歴史です。これは色川武大が学校をサボって浅草通いをしていた昔話と同じ羨ましさです。私は大阪で生まれ育ちましたので、そんな素晴らしい経験はしていません。父が天王寺動物園に勤めていましたので、幼い頃の記憶としては天王寺公園周辺の繁華街、「新世界」と言いますが、そこの映画館で父に連れられて見たエノケンの「孫悟空」くらいでしょうか。私のエノケン好き、孫悟空好きはそれ以来です。あとは女中のお静が休みをとるたびに私を新世界の映画館へつれていってくれたのですが、私はエノケンの「水滸伝」などを見たいのに彼女の見たい映画ばかり連れて行かれて、ロッパさんも少し出ているからと言って「久遠の笑顔」などというつまらない作品を見せられたりもしました。ただし「水滸伝」は愚作だったようです。
 そんな中で、唯一今でもよかったと思うのは、「阿片戦争」に連れて行かれたことでした。またかと思いながら見たんですが、これが子供心にも案外面白かった。山本礼三郎に拐かされて売られた高峰秀子が、清川荘司か誰かに肩を押されながら飯店で歌う「風は海から」という歌がずっと記憶に残っていました。そのあと、もう国民学校に入学していましたがエノケンの「兵六夢物語」に狐の化けた娘が傘をさして出てくるシーンがありました。これが高峰デコちゃんで「風は海から」を歌ってくれるんです。とても嬉しかったことを憶えています。このエノケン映画は前作の「磯川兵助功名噺」が斎藤寅次郎監督だけあってずいぶんドタバタだったのですが、勿論当時の私にはその方が面白かったのですが、この映画あたりから終戦も間際になってきていて、青柳信雄の演出も比較的真面目だったと思います。小説が獅子文六だし、「大石兵六夢物語」という薩摩の下級武士の書いた立派な原作もあり、エノケン映画としては最も文芸的ではなかったでしょうか。この映画には霧立のぼるも出ていて、私はこの映画の彼女のシーンが好きなので今書いている短篇でもその場面を下敷きにしています。
 四年ほど前、松浦寿輝氏が我が家へ来られた折、「阿片戦争」をまだ見ていないと仰有るので吃驚し、それはいかんとテレビのある部屋に移動してヴィデオをお見せしたんですが、彼がいちばん感心していたのは「外国人ばかりが出てくる作品に日本人の役者ばかりが出ている」というものでした。しかしあの当時はそれが普通でした。鈴木傳明など、あのエキゾチックな風貌がぴったりではなかったでしょうか。
 国民学校に入ってからも母親にねだって新世界へ連れて行ってもらったのですが「今週はお子たち見られません」というので「エノケンの誉れの土俵入」と「ロッパの大久保彦左衛門」の二本立てが見られず、なんでエノケンやロッパを子供が見られないのかとずいぶん腹立たしかったことを憶えています。ただし見られなかったのは封切館のみで、二番館や三番館、例えば我が家から歩いて行けた田辺キネマでは見られました。子供に見せてはいけないシーンがあるのかと思っていたら実際には何もなく、当時はなんだかわけのわからないことが多く、映画館が紅系、白系の二系統に分かれていたことも謎でした。
 戦争が終わってからは新しい映画がなく、どこでも戦前の映画を上映していました。落語の長屋ものを映画にした「おほべら棒」などというものも見ました。岸井明と藤原釜足が熊さん八さんの役柄、小言幸兵衛が徳川夢声。夢声はこんな役が多かったようですね。監督はエンタツ・アチャコなどの喜劇映画をよく撮っていた岡田敬。そしてやはりエノケン映画の話になってしまいますが、この映画と同じ年に撮られた「エノケンの千万長者」は長尺だったので前後編にちょん切られていて、戦後私が見たのは前編だけでしたが、作家になってすぐの頃、完全版をヴィデオで手に入れました。これは山本嘉次郎監督で、黒澤明が初めて助監督を務め、本人曰く「映画製作の面白さに目醒めた」映画でもあります。私はこれに出演している高清子というエノケン一座の女優が大好きで、この人は一時、浅草の原泉と言われたりしたほどの左翼運動の闘士だったり、永井荷風に好かれてしばしば飲食を共にしたりした人です。映画出演が嫌いだったこともあってこれは数少ない彼女の出演映画で、しかも二村定一と「アイヴ・ゴット・ア・フィーリング・ユーア・フーリン」を歌っているという私にとっての貴重な作品です。
 そしてこの映画の後編の冒頭、車の中から撮影した東京都心部の街並がえんえんと映し出されます。東京の人にはわかるんでしょうが、私にはどこなのかわかりませんでした。おそらく銀座から有楽町、新橋あたりだと思いますが、今となっては戦前の、たいへん貴重な映像だという気がします。
 私ども老人の役割としては、もう忘れ去られようとしているこのような文化を書き残し語り継いでいくことではないか、つまらないことでも何が次世代に役立つことかわからないのだからと、それは昨今の森喜朗が総スカンを食っている現象を見ても改めてそう思います。よくぞ作家になったものだ、もし小説で書いているようなことを公の場で公言していたらどんなことになったろうかと慄然たる思いです。と言いますのも、森氏はあの発言を決して悔い改めてもいないし、自分は正しいと思い続けていることはあきらかであり、私にしてもそれを女性とは特定せず、ただテレビに出ているコメンテーター全体に対してはあれに近い思いを抱いているからです。彼らは、当り前のことを、できるだけ沢山、日常用語で、自動的に、できるだけ息継ぎせず喋り続けていなければ咽喉が腐ってくるとでも思い込んでいるように喋り続けていて、見ていて不愉快であり息苦しくなりますが、そんなことを公開の場で言ったり書いたりすれば大変です。もう書いてしまいましたが。
 ですから今後は自分の役割を自覚して小説以外は余計なことを言わず、自分の僅かな知識を自分の僅かな固定読者にだけ伝えて行こうなどと考えておりますが、これとて老齢のせいで癇癪の虫が暴れ出した時はどうなるかわかりません。
 蓮實さんと瀬川さんとの対談では「近代の超克」という懐かしい言葉が出てきました。 「文學界」名物になった大座談会の最初のタイトルでしたね。そして六十年ほど前にも高見順など十三人が出席した「日本の小説はどう変るか」は喧嘩のようになって話題になり、それを意識して十数年前にも「ニッポンの小説はどこへ行くのか」という十一人の座談会がありました。これは喧嘩にはならず、以前の座談会のことを知っているジャーナリストからは「和気藹々とした座談会」などと冷笑気味に書かれてしまいました。私も出席しましたが事前にメンバーを聞かされて、これは喧嘩にはなるまいと思い、以前の出席者の生き残りである石原慎太郎を招くように進言しましたが、これはなぜか拒否されました。座談会では車谷長吉がやや非日常的な言辞を弄したくらいで、長老格の古井由吉はパイプ片手ににこにこしているだけ。もっとも由吉っつあんが激昂している場面など想像できませんが。
 その車谷さんも古井さんも亡くなってしまいました。生き残って書いている男性作家は数えるほどしかいません。
 瀬川さんとの対談の一気読みで昂揚して、支離滅裂なお手紙になってしまいました。

(二月十五日) 

(続きは本誌でお楽しみください。)