立ち読み:新潮 2021年7月号

ねむらないひめたち/藤野可織

 あたしたちは高いところに住んでいたから、ここでも高いところに住もうとお姉ちゃんは言った。
 そう、あたしたちはすごく高いところに住んでいた。タワーマンションの37階だ。バルコニーではいつも嵐みたいに風が吹き荒れていた。もっとも嵐なんてあたしは知らない。見たことがない。嵐みたいだと言ったのはママだ。嵐はすごく危険。風で吹き飛ばされちゃう。だからバルコニーには出ちゃいけませんって。
 バルコニーは広かった。床は白くてすべすべのセメントだった。室外機しかなかった。風はたしかに強かった。洗濯物なんかとても干せなかった。そもそも、洗濯物を干してはいけないという決まりがあった。観葉植物を置くのもだめだった。背の高い木も、小さな植木鉢も。バルコニーはいつもひらべったくて、なんにもなくて、なにかを置いてもだめ、出てもだめならなんのためにあるのかぜんぜんわからなかった。
「緊急時の避難のためだよ」とママは言った。「隣の部屋のバルコニーとのあいだに柱があるでしょう。あの中に非常階段があるよ」だからバルコニーは緊急時以外には出てはいけないのだということだった。
 緊急時というのなら、あたしたちには毎日がそうだった。うそ、雨の日はそうじゃなかった。上の階のバルコニーの床が屋根がわりになっているけれど、なんてったって嵐みたいに風が強いから、吹き散らされた雨が降り込んでくるのだ。ママが仕事から帰って来たときあたしたちの髪の毛が湿って縮れていたら、バルコニーに出てたことがすぐにばれちゃう。雨の日はサッシの窓の内側で三角座りをして、内臓みたいにみっちり詰まって青黒く光る雲を見てた。
 で、雨じゃない日にバルコニーでなにをしていたかっていうと、お姉ちゃんとふたりで下を見てた。バルコニーは本当に風が強かったから、あたしたちは腹這いで進んだ。お姉ちゃんは双眼鏡を持って這った。パパが昔バードウォッチングで使ってたやつだ。あたしは水鉄砲を持って這った。水鉄砲っていっても小さなピストル型じゃない、パーツごとにまぶしい原色で塗り分けられた機関銃みたいなやつだ。もちろんたっぷり水が入ってる。それからそれぞれ、ベッドから取ってきた枕。ベランダの手すりは、あたしが立てたらの話だけれどあたしの目の高さくらいの光沢のない銀色のバー、同じような銀色の枠で囲われた強化すりガラスのパネルでできていて、パネルの足元にはちょっとだけ隙間があった。あたしたちが目をつけたのはそこだった。
 あたしたちはそれぞれ腹這いになり、肘の下に枕を敷いて、そこから下を覗く。お姉ちゃんが双眼鏡で標的の位置を伝える。「向かいのマンション、16階。標的はベランダに面した窓のすぐそば。30代女性。射殺を許可する」あたしはスコープを覗くふりをする、スコープなんてないけど。銃口の位置を微調整し、引き金を引く。しゅっと水が発射される。双眼鏡に目を当てたままのお姉ちゃんが冷静な声で言う。「標的の射殺を確認」または「失敗だ。撤収して指示を待て」どちらにしろあたしは銃口をパネルの隙間から引き抜き、脇を締めて水鉄砲ごとごろんと転がって仰向けになり、いったん水鉄砲を離して太ももに置いて両手を使ってじりじりと背中をガラスパネルに預けて起こすと、また水鉄砲をかかえ、銃口を真上に向けて体に引きつけて抱き、外の様子をうかがうふりをする。そうしているあいだに、お姉ちゃんは次の標的を探す。
 そんなふうにして、あたしたちは右斜め前方のビルの1階のスターバックスのテラス席で商談している40代男性を、マンションのエントランスに向かってタイルの道を歩いてくる10代学生を、子どもを伴ってスパイという正体を隠している30代女性を、配送会社の社員を装ってこのマンションに核物質を運び込もうとしている20代男性を、実はボディスナッチャーした異星人であるあたしとおんなじくらいの年の女の子を、それからもう忘れちゃったけどいっぱいの人たちを射殺した。射殺の理由は知らされることもあれば知らされないこともあった。お姉ちゃんの双眼鏡が、お姉ちゃんが言ったとおりの人物を捉えていたのかも知らない。それでもあたしはプロだから、余計な口はきかずにひたすら冷酷に引き金を引いた。あたしの目にはありありと、お姉ちゃんが言ったまさにその人たちのこめかみから血の霧がぱぁっと散ったり、胸の真ん中にみるみる血が広がったり、周囲にいた人たちが悲鳴をあげて逃げ惑ったりあるいは倒れる標的に駆け寄ったり、逸れた弾が窓ガラスを割ったり、コーヒーの紙カップを吹っ飛ばしたり、停めてある車に当たって防犯ブザーがうぃんうぃん鳴り出したり、ビルの外壁に小さな穴を開けたのに誰も気が付かなかったりするのが見えていた。
 あたしたちがそれをやるのは、学校から帰ってママが帰ってくるまでのあいだだけなので、たいてい夕方だった。夕方はいろいろな色をしていた。蜂蜜の色をしてまぶしい夕方があり、お姉ちゃんが焼き芋みたいだって着るのをいやがったからあたしに新品でまわってきた赤紫のワンピースの色の夕方があった。ちぎれて浮かぶ雲まで、その綿のワンピースの裾とか袖にあしらってあったレースそっくりだった。オレンジ色と紺色のボーダーの夕方もあった。オレンジ色のが空で紺色のが雲だった。紺色なのは太陽にうしろから照らされて影になっているからじゃないかなとお姉ちゃんが言った。影になった雲はほそくほそく横に裂かれて押し流されていった。暗い暗い夕方もあった。夜と区別がつかないくらいだと思ったが、そのうち空と同じくらい暗かった雲がしずまって白っぽくなって、そうすると空はすっきりと黒くて、ちゃんと夜になったんだってことがわかった。夜はぱりっとしていてプラスチックのおもちゃみたいだった。あたしが夜にみとれているとお姉ちゃんがあたしと枕をずるずる引きずって部屋の中に入れた。ママが帰ってきたのだった。

(続きは本誌でお楽しみください。)