立ち読み:新潮 2020年9月号

谷川俊太郎インタビュー
「米寿の詩人は静かに、「本当の事」を申し立てている」
聞き手・構成 尾崎真理子

――「新潮」に書き下ろされた六篇と、この十年の作品を編まれた新詩集『ベージュ』の三十一篇と併せて読みました。相変わらず気楽になんて読めませんね、谷川さんの詩は。

 ハハハ。気楽に読んでもらっていいんですよ。そうでなきゃ買ってもらえないんだから。気楽では済まないものを、自分がずっと持っているような気はするんですよ。でも、俺が書いてる詩は読まれる値打ちがあるんだろうか、こんな少ないことばで何か言えてるんだろうかと、ソネットなんか書いてると常に疑問でね。自信なんてありません。昔から。

――自信がないと言われると、逆に深く読んでみようと思います。『ベージュ』の収録順も、こまやかに配慮されていますね。「あさ」に始まり、「この午後」「その午後」と時間が流れ、「夜のバッハ」が聞こえて「六月の夜」が更けてゆく。長編詩「蛇口」以降は、微睡まどろみの中、時々うなされているような。最後は詩論、ことばについての詩。

 配列については、まあ、いつも考えるんですよね。エディター的なセンスがわりとあると、そこは自信があるんで。「新潮」の六篇も、僕の詩の見本帖みたいでしょ? 「エドワード・リアのリメリック」という五行詩を最初に置いたのは、意味と無意味のせめぎ合いのところで、〈静かに静かに静かになって〉いくという感覚を表現したかったから。年齢のせいもあってうるさいものが嫌になってきている。それで黙ってるけど、深層には意味を抱えてて、ひそかにせめぎ合っている……そんな状況がリアルになってるんです、自分の中で。

――『ベージュ』は全体に静かだけれど、起伏も陰影も深いし、豊かなドラマが伝わります。建物のような構造があって、そこに踏み込んでいくような感覚を覚えます。「階段未生」あたりを最深部として。
〈階段は言葉を待っていた
 階段は階段以外の言葉をもっていなかったから
 誰かが別の言葉で愛してくれるのを
 あるいは詮索してくれるのを待っていた〉
と始まって、やがて〈詩人はそんな階段にふさわしい言葉を贈りたいと思った〉。
〈階段という語に煩わされずに階段の実在に迫りたい
 詩人は我が身を白紙と化して霊感を待つが
 意識にこびりついた猥雑な語彙に阻まれる
 自宅に近い駅の階段を上りかけて彼は立ち止まる〉
そして詩人には聞こえてくる。
〈苦しみの呻きではない
 歓びの喘ぎでもない
 声帯を震わせず鼓膜にも届かずに
 魂の古層に蟠るコトバ以前の無音の母音の波動〉
その先に、「この階段」「路地」という詩が続きます。

 あの階段はどこでもない階段。自分の知っている階段経験があそこに集まっているだけで、象徴としての階段。絵としての階段も含まれます。野田弘志さんの弟子の廣戸絵美さんという画家が北海道にいて、すごく細密に写実された階段の絵を描いていた。その絵がひとつのきっかけになって生まれてきた詩です。路地については、僕は昔から興味があって、外国に行っても路地を見つけると引き寄せられて入ってしまう。石造りの家が建て込んでる細い路地を進んで、その先に広場があったりすると、嬉しい。「階段」の詩を書いたのは十年近くも前だけど、あの頃はまだ、平気で階段を昇り降りしてたんだな。わりと気軽に書いた詩なんですよ。ただ、自分の中の、わりと意識しないものが出ているという気がします。

――意識しないものが出る。それは谷川さんにとって、よい詩の条件ですね。

 ええ。それに齢をとったことで得る、新しい体験というものもあります。足なんか弱ると、身体の不自由な人のリアリティーがわずかながら分かるようになる。僕でも。階段の昇り降りをしたくないからエレベーターの所在を気にするとか、弱者にとっての世界がわかる。それが老いの意味であり、進歩でしょう。僕は人間の七つの大罪の中でも「傲慢」が自分の罪だと若い頃から思ってきました。恵まれて生きてきた人間だから。今でもどこかでそれはあるんだけど。

(続きは本誌でお楽しみください。)