立ち読み:新潮 2019年8月号

デバッガー/金原ひとみ

 二十七から三年付き合っていた彼に別れたいと告げた時、お前と付き合い始めた時俺には彼女もセフレもいて、彼女はアイドルみたいに可愛くて、セフレは元モデルの美人で、お前よりもずっとレベルが高かった、とプライドを盾に中傷された。その二人と別れてお前と付き合ったのにと、どんな反応を求めているのかさっぱり分からない彼のモラハラ発言を受けて、彼との未来は完全に潰えたのだと思い知った。何で二人に劣る私と付き合ったのと聞くと、セックスが良かったからだと彼は大真面目に答えた。元々そうだった。私は彼のそういうデリカシーのないところが嫌いで、こういう馬鹿正直なところが好きだった。そんなレベルの低い女に浮気されて捨てられたのだから、彼にだってそれくらいの遠吠えをする権利はあるのだろうと、私は三日三晩彼のモラハラに付き合い続けた。
 そうして乗り換えた彼とは、二年ほど付き合った後向こうの虚言癖に疲れて別れた。小さい小さい嘘を重ねて少しずつ自分のイメージ操作をする彼といる間、彼の作り上げた虚構の世界に付き合わされ、ずっとディズニーランドに生きているような気分だった。最初の一ヶ月は楽しくて仕方なかったけれど、半年経つと疲弊が蓄積し、一年も経つとハリボテの裏を知り尽くし、その虚構性に嫌悪しか抱かなくなった。こじれにこじれた別れ話を終え久しぶりの独り身になった時、私は三十二になっていた。そりゃ、虚構の中になんて生きてられないはずだ。そんな感想と共に、もうほとんど結婚してしまった周囲を見渡すものの、婚活なんかしてもなあという斜に構えたスタンスで、ちらっと社内不倫をしたり、若い同僚とコリドーに出かけてナンパしてきた男と数回ホテルに行くような関係を繰り返し、何となく恋愛に本気になれないでいる内、周囲は次第に出産ラッシュに突入し、皆が恋愛結婚出産に勤しむ中よく仕事を頑張ってくれましたというご褒美のように、会社では昨年クリエイティブディレクターという肩書きがついた。三十五歳になっていた。

 珍しく待ち時間なしで入れた人気カフェで優花とスパークリングで乾杯して、サーモンのタルタルスクランブルエッグ添えをつつく。なんでここのランチについてくるのはブリオッシュなんだろう、どう考えてもバゲットの方が料理に合うしカロリー的にもましなのにと文句を言いながらこんがりと焼けたブリオッシュにかぶりつく。若鶏のグリルスクランブルエッグ添えを食べている優花の皿に「一口」と言いながら手を伸ばし若鶏を頬張る。優花も「一口」と言ってフォークをサーモンに突き刺す。
「え? で? 今日大山くんと飲むって?」
「そうそう、最近よく飲むんだよ」
「大山くんと? へえ、いがーい。え、大山くんて愛菜にとって男なの?」
「まあ、男の子じゃない?」
 優花は鼻で笑いながら、男の子だよね? と繰り返した。二十四になったばかりの大山くんは新卒の頃半年くらい教育担当をしていた男の子で、自分の頃はどうだったかなと我が身を振り返ってしまうくらい飲み込みが早く手のかからない新人だった。仕事もできるし気が利くし、モラハラパワハラ言動で女性社員を唖然とさせる男性上司のちょうど正反対に位置する理性的、常識的な感性を持っていて、私と同世代の女性社員達からは「これからうちの会社はああいう若者達によって浄化されていくだろう」と希望の声が上がるほどだった。
 先月、取引先との会食に大山くんと赴き、ちょっと短すぎたなと後悔していたスカートの裾を気にしていた時、こんなに綺麗な脚の女性と飲めるなんて嬉しいなあと五十前後のおっさんがテーブルの下をじっと見つめてから下卑た笑みと共に発言した。おっさんの部下の女性は「本当に森川さん脚が長くてお綺麗ですよね」と驚きの同調をする。こういう間接的奇襲マウントを繰り広げる女の方が、単細胞ハラスメントより厄介なんだよなと思っていると、私の隣にいた大山くんが「それは大人数の会食で仕事相手に言うことではないと思いますよ」と無表情のまま言った。その場にいた大山くん以外の人々の戸惑いが漂い、一瞬にしてテーブルの真ん中に大量のドライアイスが積まれたような冷気が流れ始めた。
「いや、別に私は大丈夫ですよ」
 もはや状況的に言わなければならない圧のかかった言葉を反射的に口にすると、大山くんは心外そうな表情で私を見つめた。
「最近の若い子は危機管理がしっかりしてて頼もしいなあ」
 おっさんが的外れなことを言うと、大山くんがまた何か発言しそうな素ぶりを見せたから、私は慌ててワインリストもらってきてくれない? と大山くんに頼んだ。それでも、会食が終わって二人で少し飲もうかとバーに入ると、私は自分から謝った。
「大山くんがああ言ってくれたことは嬉しかったし、これからはそういうクリーンさがないと逆にやっていけないわけだけど、あの手のおっさんこじらせると面倒だからああ言うしかなかったってだけのことだから」
 嫌なことをしてきた相手にも、それを制してくれた相手にも、私が気を使わなければならないという状況に心底うんざりしていた。それでも会社の若い子には、セクハラに甘んじていていいわけではないのだと伝えなければならなかったし、それでもうまくやらなきゃいけない時もあるとも伝えなければならなかった。あの程度の言葉でいちいち突っかかっていたら、仕事が成り立たないのも事実なのだ。
「別に僕はクリーンな人間じゃないですよ。森川さんのことが好きだから言っただけです」
「好きとか嫌いとかも仕事相手に言うことじゃなくない?」
 言葉に詰まった大山くんは、それは、でも、と繰り返していたけど、「君はかわいいね」と私が言うと、それも仕事相手に言うことではないですよね? と笑った。
 好かれていることは分かっていた。従順な愛玩犬のようだった彼が、あの日番犬としておっさんに吠えてくれたことで、私の方にも好意が芽生えた。あれから緩やかに、私たちは仕事抜きで飲みに行くようになり、それでも終電の時間になればまた明日と手を振った。

「そういや、山岡さん? あのー、大山くんと同期の子。あの子大山くんのこと好きらしいよ。こんな年上の女に持ってかれたらメンタルきっついだろうなあ」
 別に持ってかないよと笑いながら大山くんが女の子に好意を持たれているということに、どこかで感心していた。イケメンではないけど格好悪くもないし、ファッションも無難な線で揃えているし、真っ当だし優しい。どこかでざわついている自分に呆れる。大山くんともしそういうことがあったとしても、人恋しかった時にサクッと不倫した同僚や行きずりの相手と同様、キャッチアンドリリース案件でしかないだろう。
 セックスによって自分が搾取される感覚は、二十七くらいの頃に消え失せた。もともとセックスが好きだったし、好意を持っている相手と妊娠もせず性病ももらわないセックスができるなら、別に一回限りでも不倫でも構わない、自分にはもはや磨り減る余白などなく、端的にであろうが継続的にであろうが好意のある男と寝ることは喜びでしかない。いつからかそんな感覚でいた。だから婚期を逃したのだろうか。最後の彼と別れてから、いいなと思う、セックスする、何となく距離ができる、終了。その繰り返しだった。たまに思い出したように連絡がきたり連絡をしたりして、一瞬再燃したりもするけど、また自然に離れていく。いいな、は恋愛感情だと思い込んでいただけで、単に「したい」ということだったのかもしれない。完全に、男性に対する執着心を喪失していた。執着することも、されることも、全く求めていなかった。最後に付き合っていた元彼と元元彼が割とどうしようもない男たちだったせいかもしれない。そうして過去の男に罪をなすりつけてガラクタやゴミをクローゼットに放り込むようにして、私は自分自身に関するあらゆる疑問や問題意識を蔑ろにしてきた気がする。いつかこのツケが回ってくるのだろうか。でもそれはきっと今じゃない。そんな蔑ろに蔑ろを積み重ねて到達した三十五歳は、まだ意外となあなあに回っている。
「優花は? 相変わらず?」
「相変わらずもいいとこ。離婚したい、でもできない。もうこれを永遠に繰り返すのかなって。なんかループものの物語の中にいる気分だよ。もう彼の口にする言葉は全部『もう聞いた』って感じ。頭がおかしくなりそう。でも頭がおかしくなりそうなままもう四年だからね。完全にループしてて状況は何も変わってないのに私が老化だけしていくっていう地獄。向こうはもうおっさんじゃん? だからもうそんな一年や二年じゃ変わらないわけ。それなのに私は顕著に劣化していくわけよ。地獄っていうかもはやホラー」
 秘書課にいる優花は、二十九の時から妻帯者と不倫を続けて四年が経つ。二年前から彼の借りた部屋に住み始め、半同棲をしているがそこから一向に関係は進んでいない。たまに別の男と寝たりすることもあるが、十五も年上の不倫相手の楽さに慣れてしまったせいか、遊び止まりのようだ。話は優花がこの間友達と訪れたという相席居酒屋の話題となり、結局私たちの業界ってそれなりに稼げるし華やかな業界とも繋がれるじゃん? だから恋愛とか結婚が絶対的な通過点にはならなくって、ああいうセフレが欲しい飢えた男とか本気で結婚考えてる男とかよりも出張ホストとか不倫で満たされちゃうっていう構造が私たちが結婚に本気になれない理由だと思うよ、という身も蓋もない優花の締めくくりでほぼほぼ休み時間は消化してしまった。

(続きは本誌でお楽しみください。)