立ち読み:新潮 2019年8月号

全然/滝口悠生


       1

 屋上のデッキからは、洋上に快晴が広がりつつあるのが見えた。風は穏やかだったが、航行する船上では向かい風が生じ、風を受けた耳元がぼうぼう鳴った。風は海から来て、船を抜け、また海に吹き去る。ときどき、そこに誰かの酔いが紛れているような気がしたが、それがゆうべの酒の残りなのか船酔いなのかわからない。どの方向に目をやっても、島影は全然見えない。いまデッキ上には誰もいない。
 海面はところどころ雲の影で色が濃かった。太陽はまだのぼりきっておらず、射角の鋭い日差しを受けた水面の光と陰のコントラストは強いが、どの陰影も現れた瞬間消えてなくなり、打っては跳ね、跳ねては散り消えていくその運動が繰り返された時間の長さは、とても想像が及ばない。その全部を誰も見たことがない。
 この海路を行く者の目はいつもだいたいそのような、同じ景色を映した。そしていつもだいたい同じような感慨を得た。その景色の途方もなさを、船上の小さく無力な我が身とくらべ、途方もない、と思う。そしてまた水平線を見遣る。そこに島影が現れるのを待っている。現れてくれなければ困る。それは遭難だ。
 彼らがいた時間と場所、天気や季節、乗っていた船も、その進む方向も、ぜんぶ違っていたけれど、船上から水平線に向けた彼らの視線が洋上で幾重にも重なって、ひとつの束になるみたいだった。
 目の前に広がる、長い時間そのものみたいな海と、このまま波に運ばれて行方知れずとなる不安におそわれるたび、同じ視線を分け合う自分以外の者たちのことを思わずにはいられない。そこには遠い過去のひともいれば、これから先にこの景色を目にするひともいる。そしていまの自分の体から離れたい、遠く隔たりたいような気になった。だって、誰かがそこにいるなら自分はそこにいないということになる。
 船はいまもたしかにひとつの時間を前に進んでいる。
 昨日の昼前に東京の竹芝桟橋の港を出て、出発から一昼夜が過ぎた。貨客船おがさわら丸の行き先はその名の通り小笠原諸島父島である。夜の明けた太平洋を船は南進している。
 船体は八階層からなり、下層階にある二等船室は絨毯敷きの相部屋で、壁沿いに設けられた短いパーテーションごとに寝具一式が用意されていた。布団を延ばして壁に頭を向けて横になれば、パーテーションが両隣からの目隠しになる。しかし隠れるのは頭だけで、ほとんど雑魚寝のようなものだった。
 船内には一等客室や特二等といった二段ベッドの個室もあったが、この二等の相部屋がいちばん運賃が安い。一室あたりの大きさはまちまちで、広いところでは一室に二十床程度があてられている。女性専用、あるいは家族用を除いて、ほとんどの相部屋は通路との仕切りもない。乗客たちが寝そべっている様子は丸見えだった。
 満員ならこの二等の相部屋だけで二五〇名以上が寝られる。この日も寝床はほとんどすべて埋まっていた。二〇一六年に新造され三代目の定期船となったこの船の旅客定員はおよそ九〇〇名だという。どの寝室も埋まっているなら、いまそれだけの人数が船上にいる。大変な人数だ。
 消灯は午後十時だった。横になった乗客たちの耳に外からわずかな波の音が届いたが、おそらくそれは空耳で、エンジンなのかスクリューなのか、空調とか船内の様々な設備が発する音も合わさっているのか、重い低音がずっと鳴っている。それを背中で聞いている。波の音が聞こえるとすれば、それは船の揺れから、思わず波のさまを想像してしまっているのではないか。つまり外ではなく耳の内側から聞こえる。
 寝つけぬうちは薄いマットレスや床の硬さをたしかめるように右に左に体を動かし、低い枕の上で頭を転がす。そのうちにだんだんと自分の寝床に愛着がわき、その狭さや温度に体がなじんでくる。それでも、背中の下の海中や船底になにかしらの問題が発生し、浸水、沈没、みたいな方に想像が走って止まらない者もいる。実際、一瞬たりともそういう想像をしなかった乗客なんて未だかつてひとりもいないのだし、こんなにずっと海の上にいれば、どうしたって地震や津波のことが頭に浮かぶ。巨大な鉄の塊が何百人もの人間と荷物を乗せて海に浮かんでいる。酒でも船酔いでもいい、酔わなきゃ平静でいられない者もいる。船内の自販機で買った缶ビールか缶チューハイの蓋を、遠慮がちに開ける音がする。
 やがてひとり、またひとりと寝息をたてはじめる。長さも間隔もそれぞれ違い、深く、浅く、いろいろの呼吸音を聞き合ううち、自分もうとうとしはじめて、誰も彼もいつの誰だかわからなくなる。空調はきいているはずなのに、蒸し暑くなってくる。体の下の布団がやけに湿って感じられてくる。空耳ではない、明らかな波を打つ音が室内までも届き、船の速度は落ち、揺れが大きくなる。布団は板敷きの床にゴザを敷いただけ、というわびしい硬さにすり変わって、くたびれた自分の着物からも、部屋のそこらじゅうからもすえたような匂いがする。夜の船室は締め切っているから真っ暗で、空気もこもる。部屋のどこかから、泣きやまない赤ん坊の声がする。泣いているのが自分のようにも、自分の子どものようにも思えたし、他人の家の子どもにも思えた。横になって疲れた体を休める者たちはその声を聞きながら、ひそかに同情したり、うるさいと咎めるように舌打ちしたり、眠りを邪魔されて苛立つ声をあげたりした。寝かされていた赤ん坊は母親に抱き上げられ、しばらくあやされていたが泣き止まず、やがて困り果てたようにどこかに行った。目がさめて、周囲が新しい二等船室に戻るが、薄暗いなか、誰の目がさめたのだかわからない。
 屋上のデッキは施錠されて夜間の立ち入りはできない。とうに伊豆七島も過ぎた。いま航路周辺に見える島はない。だいいち日が落ちてからは水平線と夜空の境界は黒く溶け合って何も見えない。だから頭上の月と星は明るくたいへん美しいが、視線は波と風の音を聞きながら水平線の方を見続けていて、朝まで誰もいなかった。

 たしかに昨日の夜と同じマットの上で目を覚まして、横多よこたはいつの間にか灯りが点いて明るくなっていた天井をしばらくのあいだぼんやり見ていた。それから腕時計をした左腕を顔の上に持ち上げた。六時過ぎ。一瞬午前か午後かわからなくなったが、午前。午前六時で間違いない。いまは朝だ、と頭のなかで念を押した。
 予定航行時間はまる二十四時間とのことだった。予定通りいけば、父島に着くのは今日の昼。次の夜、つまり今晩は、揺れない地面の上で眠れる。はず。
 天候次第で、そうはいかない可能性だってあった。最悪の場合、父島に着港できず引き返すこともありうる。もしそうなれば、まる二日間、太平洋をただ航行することになるのであって、そんな事態は、ほとんど遭難みたいなものではないかと横多は思った。しかし幸い、事前の予報通り天気はよさそうだった。
 およそ一〇〇〇キロの航海だが、小笠原諸島も行政区分上は東京都内になる。だからたぶんいまも自分は東京都内の海上にいる。テレビで関東地方の天気予報を見ると、画面右隅の太平洋上にいくつか別枠が設けられていて、東京からの距離で言えば九州とか沖縄と同じくらい離れているのに、そこはちゃんと関東地方の一部として扱われている。気候的には亜熱帯地域ということになるから沖縄とか台湾と同じで、天候も気温も地図の真ん中にあるいわゆる内地の東京の予報とは全然違う。
 船の上でまる一日を過ごす。横多に限らず、そんな長い船旅に慣れた客はそう多くないのだろう。ゆうべも消灯後の寝室では寝つけぬひとの気配が夜中じゅうそこここで止まなかった。いまも部屋のどこかからがさごそと物音がしている。暇な船旅の朝は早く、もうとうに寝床を出たひとも多かった。朝食をとったり、デッキやラウンジで朝の海と朝日を眺めたりしているのだろう。
 出港から二十時間近くが経ってようやく、雑然とした相部屋が少し落ち着いた空気になった気がした。どこがどう変わったとうまく言えないが、なんか、まったりした感じ、と横多は思った。しかしこのまったりは、この部屋の落ち着きではなくて、ただの船酔いかもしれない。起きたばかりで、胸元にうっすらとあるもやもやが吐き気なのかどうかはっきりしない。昨日の船酔いが続いているのか、それとも二日酔いか、その両方か。
 ゆうべは、船内で買った缶ビールを三缶と、船に乗る前にコンビニで買ったウイスキーの小瓶を少し飲んで酔っぱらって寝たのだった。いつもはそんなに飲まない。
 午前十一時の出航後、数時間で船が東京湾から外洋に出ると、揺れが大きくなった。横多と同じ部屋に父島在住のおじさんがいて、そのひとの話では今日はかなり穏やかな方だということだった。が、そんな相対的なことを言われても今日はじめて乗ったのだし、穏やかでも激しくても揺れるものは揺れていて、こちらはたしかに揺られるのだから、揺れが少なくてラッキーだね、みたいなことを言われてもなんの慰めにもならない。横多は早々に酔った。まだ外は日のある時間だったが気持ちが悪いのでマットを敷いて横になった。同部屋のほかの客たちは、出航してしばらくは外で海を眺めたり、レストランや売店に行ったり、船内を見てまわっていたようだが、そのうちにやることもなくなり、手持ちぶさたな様子で寝床に寝そべったり座ったりしていた。まだ夕方頃のはずだが、そんななかではいまが何時だかよくわからなくなった。

(続きは本誌でお楽しみください。)