立ち読み:新潮 2019年5月号

人生は驚きに充ちている/中原昌也

       *
 意を決して始めたのに、作業が突然に重くなり、さらには完全に行き詰まってしまった。
 原因はよくわからない。何も表示されていないノートパソコンの画面を見つめ続けた末の、重い泥の中から這い出すような気分から抜け出す為、急に立ち上がったまま無意識に窓に目を向かわせて、一度深い溜息をついてから外を眺めた。
 その瞬間、長く樹に留まっていたカラスと思われる黒い鳥が数羽、共に飛行する様が最初に見えた。決意した末の旅立ちのような、華やかな様子を、偶然部外者が目撃してしまったように思えた。
 夜ではなく、まだ夕刻だったので、鳥たちを含めたすべてが赤く染まっていたが、特に誰か唐突に虐殺された人間の血液の色であるわけではない。ただ色が赤いだけで、寧ろ暖かい体温のような色であると感じられもした。近くに誰も人はいないが、とにかく何やら優雅な暖かさを感じているのは事実だ。

 気がつくとタバコを口に咥えていた。フッと吐いた溜息と白い煙が、辺りを漂う。その類いの嗜好品など、身の回りには何もなかったはずなので、いつ、どこにあるライターで火をつけたのか、誰の持っていたタバコなのかも、まるでわからなかったが、そこには特に驚きもなかった。
 その先の火が、未知の人肌のような暖かさを感じさせていたのだろうか。そう感じた途端、何かに急き立てられるかのように、未練もなく、先程吸い始めたばかりのタバコを灰皿に捨てた。それでもまだ、気分は何らかの暖かみを感じていたので、この決断が間違ってはいないと確信を持った。ここまで何かを信じるのは、生まれて初めてかもしれなかった。
 タバコじゃなくて一本のギターが、ここにあるべきなんだ……。
 ギターがあれば、私は黙ってそれを、息を吐くのと同じスピードで緩やかに弾く。
 何か特定の曲というのではなく、迷いなくただひたすらブルースらしきフレーズを弾くだろう。辺り一面に広がる南部の綿畑を背後に感じながら、具体的には特定できない失われたものに郷愁を感じながら、目を瞑って、空を見上げたまま。
 そのような強いイメージを抱きながら、実際には一つのコードも知らないのに気がついた。
 よく考えれば、かつてギターなど、楽器を所有した記憶はない。ブルースと呼ばれる音楽も、自分は特に触れたことも恐らくないのであった。その愚かさが純白な衣服に汚れた水が染みていくかのように、ジワジワと救いのない悲惨な罪として心を蝕んでいくようだった。
 自分は宣教師なんかではなく、飢餓地帯の貧しい子供でしかない。

 苦々しい気分から逃れるために、再び窓の外に目を向ける。いささか耳障りではあるが、子供たちが活発に騒ぐ声が耳に入ったような気がした。が、どこにも近隣住民の姿はない。
 しばらく誰も通ってはいないはずの小道が、何の主張があるわけでもなく、そこにあるのが目に入った。興味深いという点はない。数年前から工事現場を囲う高い白い塀が両側に建っている。何もない雑木林だったのが、いつのまにかそのお陰でここに道がある、と認定されたような感じ。しかし、右と左で何が建築されるのかは、わからない。単にこの塀の間を、以前から何度も通った記憶があるだけだ。
 ただただ根気強く黙って見つめていたが、小さな風が吹き、塀の下にある草が多少揺れただけで、大きな変化を目撃するには至らなかった。いくら待ち望んでみても恐らく当分、ここでは何も起きないと判断した瞬間、大きなあくびが出てしまった。
 別段、退屈を感じたからではない。いや、無意識下では退屈していたのかもしれないが、自分ではそれを意識できない。ただ雑然としながら、何もない時間だけが強く感じられたが、それは強烈に退屈というわけではないようだった。寧ろ、暖かく優しい空虚さとでも呼ぶべきなのか。いままで味わった経験のない、新しい感覚なのかもしれないので、自然と意識が高まっていくのを感じた。多分、それは間違ってはいない。
 しかし、確実に視覚に感じられた鮮烈な色だけを目にして、様々な連想をするにはしたが、それらを詳細に書き記す気はまるで起きなかった。何かを書き留めなければ、何も生まれないのに。
 仕方なくもう一度、窓から外界を眺めた。
 理由もなく見るのを禁じていた例の小道も含め、何もかもが赤く染まっていたが、特にそれ以上それ以下にも成りはしなかったし、やがて間もなく静かに夜が訪れるだろう。
 何もかもが一つの黒色になって、消失して終わる。だが、それが特別に恐ろしいわけではない。決まっていた終わりの時間が、さしたる予告も告げずに、そっと優雅にやってきたに過ぎないのだから。

 建物の外一帯が暗黒に包まれる前の僅かな時間に、先日実際に身の上に起きた神秘的な事件を書き留めようと思い直したのだが、結局は一文字も書けなかった。
 厳密に言えば、所詮具体的なものが脳裏に浮かんだわけではなく、あくまでも何かと称される必然の欠ける、何か未満だったものに過ぎなかったようだった。それらをただ黙って頭の中で眺めていた。例えば、泡が泡として存在する以前の、たった一瞬の形を、写真で捉えるのは可能かもしれないが、言葉ではそれは難しく、それらは名付けられるのを拒否する意思もないまま、ただ下水のように、人々が誰も目にしないところへ流れ去っていった。
       *
 まだ夕暮れだった。夜は近いようでまだ遠い。
 自分がいる部屋は、地味な会議室。殺風景を絵に描いたような、地味な雰囲気。典型的な事務室の風景とは、こういう感じではないだろうか。
 だが、そのようなくすんだ白い壁の部屋から、作家と書き手によって新しい物語が生まれるという秘められた興奮が、いくつもつづれ織りとなって染みこんでいるようにも思えた。
 十人ほど座ればいっぱいのテーブルの端から、また何度も窓の外を眺めた。
 すぐ前の白い塀の前を、一匹の白に黒い斑点の犬が通りかかった。ディズニーの映画に、沢山出てきたダルメシアンだった。
 最初の内は、人が綱で引いているのだと思ったが、よく見ると誰もいない。とはいえ、辺りを彷徨っている野良犬というわけでもなさそうだった。
 あまりに優雅な家で飼われているだけに、飼い主なしでも散歩ができるかのようだ。

 この時間まで自分の他には誰もいなかったが、自分をここに呼んだ担当編集者の小松が、ドアを叩いてやってきた。ちぢれた頭髪に、地味な黒眼鏡の男。年は三十代後半ぐらいか。
「まだ何も書いていない」
 状況を冷静に伝えようと、私は真っ先に彼に言った。常に明るくも社交的でもない、特に何の感情も書き込まれてはいなかった彼の顔が、次の瞬間に誰が見ても陰気に曇った。

(続きは本誌でお楽しみください。)