立ち読み:新潮 2018年3月号

白笑疑はくしょうぎ筒井康隆

 戦意。戦くやつ。自分の死よりも他人の死の方が大切という汝は戦えぬ。他人の死よりも自分の死の方が大切というお前も戦えぬ。わしは老年期の終り。苦痛の彼方に快楽があり、逆もまた真だ。ゾシマ長老の言うことは信じるな。戦乱雲の下で生まれた体験を持たぬお前。そんなお前が何を言ったところで相手もまた何も知らぬ輩。何も通じない何ももとへ戻らぬ。おれは老齢によって日本のロヒンギャ。誰も作家と認めてくれぬゆえ文壇のロヒンギャかもしれねえな。さあかかってこい。だがおれは戦わぬ。信じてもいない未来にすべてを託すのだ。ふたりでドアを閉めようぜ。ああ日本以外全部核武装。おお。いよいよか。そうだいよいよだ。従容として身を死に委ねる、それでいいのか、しかたあるまいね。死は死にながら死ぬのだから。ご満足ですかな。
 難儀な人だ。尋常ならざる殺し屋。強く叩け。そうだ、もっと強くだ。おれの骨を。そして彼方へ飛べ。子供や孫が可哀想などとよくそんなことが言えるな。死後のことなどという考えを考える貴様が哀れだ。野ウサギよ核を抱いて走れ。もはや人類の交点はなくX字形もなくキアズマはない。なんと言う言語の劣化だ。ロケットマンか狂犬の遠吠えか。かくの如き世界、つまりかくの如き世界以上の悪い世界に生まれ変わりたいと思う者はいない。いません。わたしは何もない来世への渡し船。鬼の船頭。食べ物の奪いあいがどんどん近づいているぞ。ビルの崩壊で学校の子供たちが生き埋めだ。誰が埋まっているのかわからぬとは何ごと。老年キれ易く悪忘れ難し。そんな不良老人ばかりで斬首作戦。ああそんなドタバタも昔なら書いただろうに、今や現実が狂気。ナンマイダ。千枚田。コノコメゼンブモラッテイクアルゾ。
 大洪水だ。まだわからぬか。自分はどんな被害にも遭わないと思っているな。ああそうか。被害に遭った時はすでに遅いか。違いない。あはははははと空虚な笑いを笑うしかないな。中国では暴風雨のさなかに報道を続け吹き飛ばされて画面から消えた女子アナ。死は背後と知れ。田圃の様子を見に行く。船の様子を見に行く。帰って来ない。海岸で、用水路で遺体を発見。死までを子孫の世代に先送りするなかれ。土砂で埋った車の中、溺死でした。どれだけ苦しんだことか。瓦礫の底の底。子供の死は痛い。誰にとっても。ああディグニティ・ランドは小さな世界。世界中誰だって、微笑めば殺される。御用はございませんか。あなたの御用は何。宅配便を投げ飛ばし蹴飛ばして。徴用工か働き手か求人難か難民か労働力か。イスラム国の混入。自爆テロに向かう子供たちの笑顔を見たか。この子たちは来世があると教えられている。喜望峰をまわれ。
 靖国神社は今ぞ鬼哭啾啾の時。鞭打つかばね。君は護国の鬼となり我は銃火にまだ死なず。九段の母VS岸壁の母。どちらも今や鬼籍。鬼よ哭くな哭くな。こっちまで泣きたくなるわい。この子誰の子杉菜の子。いいえわたしの子。帰って来ない子。だが誰も泣かない。いかに災害の惨禍を見せ戦いの惨禍を見せたって無駄。書いても無駄。朗読しても無駄。見飽きている、読み飽きている。聞き飽きている。これでもかと言わんばかりにどんどん描写が極端になり激烈になり身も蓋もなくなってどぎつくなってもう早誰も何とも思わなくなって。虚無主義ニヒリズム感傷主義センチメンタリズムの相乗効果による無感動。巻き込まれ型の被害者はどこまでも被害者。たまに加害者に逆転してもやっぱり被害者。自然災害という擬人化された加害者はどこまでも加害者。避難者の忌避、棄避、拒否という名の加害。難民受け入れは同国人への加害でしょうか。リッケントロップはリッケン民主党を作った。君、わかりますか。ここで改行する意味が。
 拙いながらも伝えましょう。死ぬことについては大筋合意。それでも昔は網一杯に魚が獲れた。クロマグロなんてものも獲れた。だが今やこの魚ゼンブモラッテユクアルゾ。底引き網で根こそぎだ。珊瑚まで根こそぎだ。あとには何も残らないよ。まずは秋刀魚が絶滅。あの苦さとしょっぱさを記憶している男ひとりが死ねば味も死ぬ。味覚は遺伝情報によって伝えられるか。ああ食べたことのない懐かしい味。ついにはショーウインドウに味まで求める。あいワタシラノ食ベルモノモ何モナイアルヨ。モウ食ベルモノナイアルカ。ヒモジイアル。苦シイアル。モウ死ヌアル。犬もない。猫もない。鼠はご馳走。ゴキブリは蛋白源。幾億もの「最極限の未了」。幾億もの屍。その境界はどこに。誰も弔う者はいない。自分で自分を弔うか。空腹で胃はきりきりと痛み、腹の皮は背中の皮にくっついてあまりの痛みに苦悶し、意識を失って。そして屍体は笑う。ちょっとそこをどいてくれ。おれの子供をそこで死なせてやってくれ。もう死んでいるのかもしれんが。お前もそこをどいてくれ。そこではおれが死ぬのだ。そこはおれの死に場所なのだから。お前は何を笑っているのだ。そうかお前は頭蓋骨か。粉ごなに砕いてやる。どうだ。もう笑えまい。見ろ。石膏の粉だ。
 世界の排水孔から終末を示すオレンジ色の光が射している。流れ込んでゆく断末魔。脱力釜の力ない呼気は空気漏れに非ず、この世への名残り、臨終の溜息。今は亡きドードー鳥のよちよち歩きを思い出せ。埃まみれの千羽鶴。無意味な幼児の映像は、無邪気さと純粋さと平和の象徴か。じゃあ大人はどうなんだという突っ込み。つつがなしや恙虫つつがむし。こんなことをしても何の効果もないということを知っていながらの数万人のデモ隊の中で自分たちとレミングの類似に気づいている者は何人いるのか。歴史認識を云云している時ではあるまいに。論じている間に歴史が繰り返されようとしているぞ。ああ哀れや時をかける少女像。テロや戦争で何十万人も死んだところで人口爆発の勢いは止まらなかったあの時代。可哀想に。もうすぐ死ぬんだからせめてあたいたち、青年たちに萬戸を開いてあげましょう。おやおやまたしても予科練の七つボタンは桜に錨ですか。
 遠き北より流れ寄る漁船一艘二艘三艘。あれは漁船なのか。最初の小さな点がやがて水平線いっぱいに拡がって百艘二百艘。またかよう。脱北者だ。脱北者の大群だ。追い返せ追い返せ。奴らを入国させる余地はない。日本へ来ても食い物はないってことを知らんのか。いいえ。ほとんど死んでいます。漁師ではなく女子供が半分以上。餓死でしょう。獲れた魚や烏賊を奪いあった形跡もあります。瀕死で生き残っている者も二人、三人、四人います。哀号と言っています。あっこいつは人間の肉を頬張ったまま死んでいます。死体の肉ですな。呑み込めなかったんでしょうなあ。途中で海へ葬られたやつ、抛り込まれたやつもたくさんいるだろう。もう沢山だ。韓国からも対馬へたくさん押し寄せてきています。あそこはもう韓国領です。南からも船が来ているらしいな。なんだと。中国だと。言論の自由を求めてだと。タリバンだと。差別のない社会を求めてだと。何を贅沢な。いつの時代の話だ。こっちは食糧難だぞ。食うか食われるかの社会なんだぞ。ああそれはもう昔から今までずっとだったなあ。大企業から小企業まで、あられもない競争の激化があんなに露わになった恥ずかしい時代は嘗てなかったのだが、しかしそれも遠い過去となってさいわい。
 しあわせなら手を鳴らそう。ばきっ、べきっ。しあわせなら足鳴らそう。ぼきっ、ばきっ。自分の手足をへし折ってどうするんですか。死にたい老人百万人。死にたくない老人百万人。助けてくれ何とかしてくれ血をくれ血液をくれが百万人。しかし生憎誰も献血せず血液の残りは八十六人分。今では医者も少なくなって百二人。国境なき医師団も今は三人。ノーベル平和賞も役に立たなかった。えっ。火葬ですか。今からですと六ヶ月後になりますが。予約で満杯なんですよ。火葬場を建てようとしてもフキンのジューミンの反対運動で。ああ。遺体ホテルも満杯で入れるのは四ヶ月後。今ちょうど団塊の世代の曾孫や玄孫の世代が次つぎにお亡くなりに。そうですねえ。お宅は山林をお持ちですか。もしお持ちならそこで土葬にしてあげてください。そしてやがては一般住宅の庭前栽せんざい便所の横の植込みに散在する土饅頭。そんな時代があったなあ。
 商店街すべてはシャッター街となって住宅地も十軒に九軒は空き家。落書きと荒廃とごみと風に吹かれて舞い飛ぶ塵芥と紙屑。ああいいなあ。これが年寄り連中にはすでに懐かしい光景なんだから。町内の見回りというわしの役目もだんだん無意味になりつつあったのだが。しかしあろうことかわしの身にとんだ重荷だ。この家はまだ空き家ではなかった筈なのにもう誰もいないのか。珍しくも若い夫婦がいた筈だが。表札には川添とのみ書かれている。ああ。誰もいない。鍵のかかっていない玄関の薄っぺらの黄色い扉。雑多な微生物の入り雑った埃と黴の臭い。そこには不気味さが漂っている。まだ誰かに荒された跡はない。リビングに踏み込めば最近まで飲食していたらしい生活感の生暖かい形跡。キチンにはチキンの骨。余裕のある家族だったようだな。水道からの赤茶色の水もまだ出るようだ。何が入っていることかと想像すれば恐ろしくて冷蔵庫が開けられない。この奥は寝室か。夫婦で死んだりはしていまいな。ベッドには剥き出しのマットレスに黒い髪の毛が数本。茶色い髪の毛も数本。ふんふんふんふん。くんくんくんくん。セックスの香りがするかどうかを懸命に嗅いで確かめようとするおかしなわし。その奥は。おっ。まだ奥の部屋があるのか。

(続きは本誌でお楽しみください。)