立ち読み:新潮 2017年4月号

やよいの空に/芳川泰久

1

 駐車した車のなかに、猫を長いこと置きっぱなしだ。温泉施設の仮眠室で目覚めたとたんに気づいて、慌てる。深夜になっていた。フロントに行き、玄関を開けてもらい、一区画となりの駐車場へと走った。横になって少し身体を休めるつもりが、眠り込んでいたのだ。闇のなかに車が見えてから、いっそう不安が増す。吐く息が白い。三月の中旬とはいえ、それも東京より南に来ているはずなのに、夜気は冷え込んでいる。ドアを開けると、車内は冷え切っていた。ニケ、と呼んでみる。答えはない。外から見えないようにバスケットを助手席の足元に置いたのだが、かえって外の冷えが伝わりやすかったかもしれない。バスケットを座席に乗せ、ふたを開く。
 ニケは、折り曲げた前脚にぐったりと頭を乗せている。こちらの顔を見上げると、ニャーと弱々しく鳴いた。寒いね、暖房を入れるからね、と言いながら、エンジンをかけ、暖かい風を送る。バスケットのふたを開けたままにしておく。もっと広いケージを買ってやろう。深夜の駐車場に、エンジンの音が響く。疲れて温泉施設で仮眠をとっている場合じゃない、いますぐここを発たなくてはという思いに急き立てられる。いまにも見えない放射能に捉えられそうで、少しでも遠くに逃れなければならない。東京の家を出るときには、とにかく京都あたりまで逃げ延びようと思っていた。少しドライブしようか、ニケちゃん。この辺の道は知らないが、迷子になることもないだろう。
 夜の風景には特徴がない。東名高速を降りてからの道を、もどるように走り出す。このまま高速に乗って逃げたくなるが、免許証はもって出たのに、貴重品を温泉施設のロッカーに入れたままだ。いまはニケのために、車内の温度を上げることだけに専念しよう。交差点の信号にひっかかる。前方の赤い灯を見ているだけで、わびしさがこみあげてくる。ネコ一匹と年老いた男が一人、東京を逃れ出てきた。S城跡公園、右折4キロの表示に導かれるように右折する。深夜の市内はウソのように静かだ。東名高速は、違っていた。日曜日の夜なのに、西に向かう車で混んでいた。車の流れに遅れまいとしているだけで、気が抜けず、車間距離がぐっとつまったままのせいか、殺気にも似た緊張感が伝わってきた。北に向かう対向車線はいていた。大型の警察車輛とタンクローリーが目についた。
 前方に、ガードが見える。その先を左折すれば駅前という表示につられ、左に折れている。暗い漠とした空間が現れる。そこだけ建物が間近に迫っておらず、タクシーが並んでいる。ときどき、タクシーが客を乗せてロータリーを出てゆく。こんなときにも、いつもの生活を続けている人がいる。ニケ、S駅前だよ。ロータリーの端のほうに車を止める。暖かくなってきたね。二時半か。もう少し走って、車内を暖かくしておこうね。
 どこに行く当てもない。ロータリーにもじっと停まっていられない。とりあえず、まっすぐ進む。たちまち赤信号に止められ、先にロータリーを出たタクシーの後ろに停止する形になる。地図情報を得ようにも、ナビゲーションを付けてないし、スマホは温泉施設のロッカーのなかだ。市内を方形にめぐっていれば、迷うこともないだろうと思い直す。信号が変わって、ともかくも走りだす。ニケ、いくつ目の交差点を曲がろうか。返事はない。勝手に、三つ目か、と言っている。左折したタクシーと別れ、直進し、さらに信号を二つ通り過ぎてから交差点を右折する。直交していると思った道は斜めに伸びていて、しかも右折できる道がなかなかない。ようやく交差点で右折するが、この道もいまの道と直角に交わってはいない。もう一つ右折すれば、方形の三辺を描くはずだが、こんなに角度が直角からずれていれば、元の道に出る保証はまるでない。ふたたび交差点だ。右折したが、すでに、どこを走っているのか分からない。そう思っていると、高架をくぐった。どうやら鉄道のガードではないか。同じには見えなかったが、先ほど反対側からガードをくぐってきたから、入浴施設の方へもどっているのだろう。ニケが、ニャーと鳴いた。心配いらないよ、二つ先の交差点で温泉施設の前の道と交差するはずだから、それを左折すれば、もどれるよ。

2

 しかし、左折した道は温泉施設の前を通ってはいなかった。もうずいぶん走っているので、この道が施設の前の道なら、そこに着いていてもおかしくない。車内も充分暖まってきた。なのに、温泉施設にもどれない。ニケ、なんだか坂道だよ。アクセルの踏み方に、上り勾配を感じていた。しばらく前から信号もなくなって、道はくねりはじめている。まばらにあった家もほとんどなくなって、目に入るのは広い敷地の農家だった。生垣がフロント・ライトに浮かび上がった。もどりたいのに、Uターンする道幅がない。ニケ、迷い込んだよ。返事はない。生垣が急に、もっこりした長い列のようになって、ひょっとして、これは茶畑のなかを走っているのではないかと不安になる。明かりを灯したまま車を止め、外に出ると、そこはやはり茶畑だった。
 吐く息が白い。この先の道の具合を見ておこうと思い、前照灯に照らし出された方へ歩き出す。やがて闇のなかに入り、振り向くと、遠くに一台の車がライトを点けたまま止まっている。まるで脱ぎ捨ててきた自分の抜け殻みたいだった。だいぶ前に別れた妻と息子はいまどうしているだろう、との思いが一瞬よぎるが、かまわず先へと歩きつづける。

(続きは本誌でお楽しみください。)