立ち読み:新潮 2016年11月号

第48回新潮新人賞受賞作
二人組み/鴻池留衣

一学期

 島田が指揮を止め、脱力し、憮然とした顔で三年A組の面々を見た。それに気付いた女子生徒がピアノの演奏をやめた。
「こうやって一人のせいで何回も中断するんだけど、いい加減にしてくれない? 練習したがっている人たちの邪魔するの、やめてくれない?」島田がこう言うのに、まだ笑っている者がいる。すでに武川と山田はぐっと堪えて平静を装っていたが、石原は鼻の奥でぐぐぐぐと鳴らして俯いていた。その音が静けさを取り戻した音楽室の皆に聞こえている。一方で本間の方は笑うのを堪えた二人よりもよっぽどとぼけるのが達者で、涼しげな顔をし、合唱が中断したのを不思議そうに思っているわざとらしい芝居に徹した。その仕草も周りの笑いを誘った。
「やる気が無いなら出て行ってくれるかな。やる気のある人の迷惑になるから」
 やがてもう一度曲が始まった。
 島田は音楽教師だが、本間たちの担任でもある。彼女は他のクラスの授業も受け持っており、当然そちらの合唱も指導している。ただし自分の担任する三年A組には自らの所有物である手前、特別に期待を寄せているから、他よりも厳しく指導していた。地域の合唱コンクールへの出場を目指すべく、まずは校内にて一等賞を取らなければならない。ところが、他のクラスの生徒たちが音楽の授業で真面目に練習に取り組んでいるというのに、三年A組に限って、不協和音が響いていた。原因は一人の雑音だった。本間はテノールの集団に混じって隣や前に立っている生徒の耳に届くように、合唱中、歌詞を変更して歌った。例えば「希望」を「亀頭」に替えれば、「希望を胸に抱きしめ」という歌詞は、中学生男子たちに彼らの今一番興味のある情景を鮮やかに空想させる。彼らにとっては、島田が三Aの合唱指導にやけに真剣になっているだけでも可笑しかったのに、関取みたいな島田の胸が彼女の両手の指揮によってしばしば中央に寄せられるのを発見してしまうと、本間の替え歌と相まって、様子の下品さと滑稽なことに失笑し、唾の飛沫を二メートル前方に飛ばす者もいた。その度に曲が止まるから、女子たちはうんざりしていたけれども、男子の半分は本間が何かやるのを実は密かに期待していた。
 曲の途中で本間が歌詞を替える場所は決まっていた。その部分で本間が男子たちの不意をついて、教えられた通りの正しい歌詞で歌うだけでも、いつもの間違った歌詞が強烈に思い出されるから、本間の近くのテノールたちはまた可笑しかった。
 また曲が中断した。島田が蔑む目で本間を見る。
「なんで俺のこと見てるんすか? 俺ちゃんと歌いましたよ! なあ? なあ? 俺、ちゃんと歌ったよなあ?」隣や前の列にいる者に確かめる。確かに本間は正しい歌詞で歌った。しかし曲を中断させたのも本間の故意だった。
「ねえ、もうやめてよ」と何人かの女子が言う。「うっせえ、ちゃんと歌ったじゃねえか」そう言い返すと、「全然最後までいかないから練習になんないじゃん!」と返ってくる。島田は生徒の中から本間を窘(たしな)める台詞が聞こえたことで、これで彼の替え歌も鳴りを潜めるかと期待し、もう一度ピアノの生徒に合図し、両手を上げた。そして最初からやり直した。ところが本間は懲りなかった。島田はついに「教室から出て行け」と、いつもは使わない慣れない口調で怒鳴った。本間は、島田の教師生活における初めての、出て行けと言われて本当に教室を出て行った生徒となった。後頭部に色んな感情のこもった視線を感じつつ、音楽室のドアを開けて廊下へ出て行く。
 それで本間は、三年A組の教室に帰るかといえば、一度足音を階段の方まで響かせてから、耳をすましつつ先ほどの教室で合唱が再開するのを待ち、生徒や島田の耳に曲の音しか聞こえていない隙を見て、音楽室のドアへと戻った。
 太い身体を揺らしながら生徒たちに向かって指揮をしている島田には、本間が室内を覗き込んでいる背後のドアの窓は見えない。こちらからは太った女性教師の背中でブラジャーのホックが今にも引きちぎれそうになっているのが肉に張り付いたTシャツごしに見える。反対に生徒たち全員は、窓にゆっくりと上昇して現れた寄り目の本間を見ることが出来た。本間の作った変な顔は、彼がよく島田を茶化して物真似するときのそれだった。鼻の穴を広げて、口を四角く突き出し、歌唱指導する島田の顔だ。特徴を過剰に演出しすぎて、その実島田本人とは全然似ていないのだけれども、それはそれで面白かった。歌っている生徒のうち、男子のみならず女子までもが、本間の顔を見て、笑いを堪えて腹の息を閉じ込める。本間は、歌詞に合わせて歌っているかのように口をパクパク動かした。それを見た皆が苦しむ。
 異変に気付いた島田が、振り返ってドアを確認すると、本間はもぐらたたきのようにひゅっと窓の下に消えた。教室内が笑いに包まれたのを聴いた。
 そしてそそくさと音楽室の前から去った。授業を妨害するのにも、見極めるべき引き際というのがあって、もしこれ以上いたずらを続けていたならば、翌日にまで引きずりそうな案件へと発展しかねないから、ここはA組の教室に戻って受験勉強でもしているのが正解だった。誰も居ない静かな教室に入ると、聞こえてくるのは上の階でやっている音楽の授業と、隣の煩い国語教師が発する雑音だけだった。自分の席に着いて数学の問題集を開いてみたが、集中できなかった。
 座ったまま動かずに、先ほど窓から覗き込んだこのクラスの生徒たちの一覧を頭に浮かべてみる。島田の指揮を見ながら適当に口を開いて実際には殆ど声を出していない奴や、渋そうな顔で歌う歌手気取りの奴、首を左右交互に傾けつつ顔面を空気に塗りつけるような動作で筋肉の体操をするみたいにころころと表情を変えながら歌う大方の女子たち。その中に、三年A組は完全には収まっていなかった。二人の生徒が抜けていた。本間が抜けて、阿部由紀子も抜けていた。
 阿部由紀子が学校に姿を現さなくなったのは、丁度合唱の練習が始まった五月の始めごろだ。三日連続で欠席すると、島田が朝のホームルームを使い「阿部さんは体調崩したんでしばらくお休みします」と報告した。それから六月下旬の今に至るまで、彼女は登校していない。担任の説明不足も手伝って、生徒たちが勝手に推測し始めるのも当然のことだった。すぐに噂が流れた。阿部由紀子は妊娠し、中絶手術を受け、とても学校へ来られる精神状況ではなくなってしまったのだと。阿部由紀子の不登校が確実となった時分、何の脈絡も無く全校規模で性教育が実施されたのが、そのような邪推を促した。アンケートが配られ、避妊の話や、命の大切さがどうのこうのと、やけに仰々しく、何か説得されるように、本間たちは時間を潰された。
 生徒たちの間では、阿部由紀子を孕ませた犯人探しが流行っている。彼女と仲良くしていたバスケ部の武川や、彼女の片思いの相手であると噂されていた扇、彼女を好きだと公言して本人から煙たがられていた「キチ」の大友、或いは普段から援助交際していると出所不明の情報が流されている体育教師の藤田までもが、容疑者として挙がっていた。
 本間もその犯人探しに興じる一人だった。しかし本当に怪しいと睨んでいた人物の名を、生徒同士の会話で出すことは無かった。平野という同じクラスの生徒。ソフトテニス部の補欠、平野啓三。彼が怪しい。そう思っていたのに誰にも言わなかった。言えない理由があったのだ。
 二年生の春、本間は阿部由紀子にこそこそと手紙を書いて渡したことがある。
「阿部さんへ
 うちの中学ではあまり彼氏彼女とかそういうのはないけど、今みんなが知っている付き合っている人っていうのは、二年では小暮と倉上くらいなもんだけど、たぶん、他にも秘密でつきあっている人はいると思う。それで、俺は思ったんだけど、もしかしたら阿部さんは、俺がつきあってほしいってたのんだら、もしかして断らないかもしれないと思った。だから、みんなには内しょで、つきあってください。もしダメなら、ダメでもいいから、でも絶対に他のやつらにはバラさないでほしいです。お願いします。ふられてもいいけど、あいつらの知らないうちにふられたいから、よろしく。直接か手紙で返事ください。本間順太郎より」
 手紙は、阿部由紀子がバトミントン部の練習を終えて、自転車で帰路につき、他の生徒らに見られる心配が無くなったのを確認してから、下校途中に彼女をつかまえてさりげなく渡すつもりでいた。本間にとっては一大決心だった。手紙をしたため、カバンの奥に隠して登校した時からずっと、心拍数が尋常ではなかった。その日の授業の内容は全く頭に入らなかった。夕方になると、一生分の鼓動を一日で消費したとさえ思えた。
 放課後、阿部由紀子が自転車置き場に他の女子たちと共に現れ、本間は息を潜めた。と言っても姿を隠すでもなく、自転車の荷台にスポーツバッグをゴム縄で括りつけ、普段と変わらぬ帰宅を装うだけだ。阿部由紀子たちは三人並んで校門を出た。本間は距離を取りつつ後をつける。やがて阿部由紀子ともう一人になった。いつ一人きりになるかと待ち望んでいたらば、とうとう二人並んだまま阿部由紀子の自宅前に到着してしまった。じゃあね、と言って友達を見送った彼女は、自宅の門を開けて自転車と一緒に塀の中へ消えた。本間はこのとき、彼女の自宅を初めて知った。しばらく物陰に隠れてどうしようか悩んでいたが、やがて悶々とした胸の奥の異物を取り出したい気持ちから、とうとうカバンを開けて底から手紙を取り出し、家の前まで近づき、ポストにそれを投函し、すぐさま逃げ失せた。
 翌日から連休だった。最初の日、朝から変な気持ちがした。妙に小便のキレが悪い。いつもならば足りないと感じていた食事も、妙に多く感じる。塾へ行って、自習室に入って、静寂に包まれると何かが本間の鼓膜を叩いた。音ではないのにうるさかった。阿部由紀子を空想する時、いつも彼女は半裸で現れていたけれども、なぜかその日は顔しか思い浮かばず、その顔と言うのも本人なのか別人なのかあやふやで、感情の読み取れない不思議な表情をしていた。
 二日目、少し落ち着きを取り戻した。
 連休最終日、グラビアアイドルの写真でオナニーした。
 連休が明けると、仄かに金曜日の緊張が蘇ったけれども、一日が何事も無く終わると、その翌日からは本間の方も何事も無くなった。手紙をポストに投函したことなど殆ど忘れてしまった。時々思い出すけれど、きっと新聞を取りに行った父親が発見して、検閲し、その場で破棄したのではないかという思いが強くなっていき、学校で阿部由紀子と目が合えばそんな想像を確信に変えた。手紙を出したことは、本間にとって、後々自らの度胸を賞賛する為の出来事でしかなくなっていた。
 ところが秋の修学旅行で、平野啓三が本間に、「お前の好きなのは阿部由紀子だろ? けどダメだよ。あいつ、お前のこと好きじゃないから」と言ったのだ。本間は湯船に潜り込み、歪んだ表情を一度洗い流した。大浴場の湯船で、仁王立ちし、股間を隠さない遊びに興じていた全員がそれを聞いていたはずだ。
 あの時の平野の台詞に、食い下がることなく逃げてしまった自分を後悔している。阿部由紀子を尾行してその自宅を割り出し、ポストに恥ずかしい手紙を投函する度胸はあるくせに、面と向かってクラスメイトに何か尋ねる度胸は無かったのだ。
 平野はどうして俺が阿部由紀子の家のポストに手紙を入れたことを知っているんだ? どうして手紙の内容を知っているんだ? いや、これはただあの時、帰宅する阿部由紀子を追跡して手紙を入れるまでの様子をどこかから見ていただけで、好きだとかそういうことは平野の勝手な推測かもしれない。もし、そうではないのだとしたら、平野は阿部由紀子の、人の好き嫌いを聞ける立場にあったということだ。阿部由紀子はどうして、平野に向かって、俺のことを好きじゃないと告白したのか。つまり彼女は手紙を読んで、そのことを報告するくらいの懇意な関係が平野とあったわけだ。いやいや、それもハッタリに決まっている。奴はただあの日阿部由紀子を追跡した俺の様子を目撃しただけで、その後この恋が進展していないのを良いことに、からかってきただけなのではないか。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→受賞者インタビュー 何度も味わいたくなる悲劇を/鴻池留衣]