新潮社

TRY48中森明夫

[第三回 3/5]

 アメリカよ
 小雨けむる俺の安アパートに貼られた一枚の地図よ
 そして
 その地図の中に消えていった名もない二年前の俺 またの名は
 遥かなる大西部の家なき児よ
 チャーリー・パーカーのレコードの古傷を撫でる
 後悔の 侮蔑の

 男は朗々と詩のようなものを口ずさんでいる。

 ニューギニアの海戦で父を殺したアメリカよ
 コカコーラの洪水の
 カーク・ダグラスのあごのわれめのアメリカよ
 アボットとコステロを生んだアメリカよ
 何よりもホットドッグのうまい 老人ホームの犬は、芸当が得意な
 おさらばのアメリカよ
 大列車強盗ジェシー・ジェームズのアメリカ
 できるならば一度はそのおさねを舐めてみたいナタリー・ウッドのアメリカ
 カシアス・クレイがキャデラックにのって詩を書くアメリカ 「心の旅路」のアメリカ
 そしてベトナムでは人殺しのアメリカよ

 あっ、そうだ……昭和精吾だ!
 百合子は気がついた。
 来年、1970年の3月に『あしたのジョー』の力石徹の葬式で弔辞を詠み、それから35年後には『デスノート』のLを悼む詩を、河原で叫ぶことになる……あの男だ。

 星条旗よ 永遠なれ
 アメリカ アメリカ アメリカ それはあまりにも近くて遠いバリケード 歌うな 数えよ カマンナ、マイ、ハウスのアメリカよ 地図には在りながら
 しかしまぼろしのアメリカ!
 それは過去だ 一切の詩は血を流す
 醒めるのだ 歌いながら
 今すぐに アメリカよ!

 昭和精吾の絶叫とともに、場内が暗転した。
 ゴングが鳴って、さらにまたスポットライトがともる。
 アメリカンフットボールのユニフォームを着た男が立っていた。男はホイッスルを吹く。金属的な笛の音があたりに響き渡った。
「ただ今から、アメリカンフットボールのルールによる“幸福論”の試みを行う」
 楕円形のボールがリングに投げ込まれ、男が受け取った。
「諸君は、ボールを手にしているあいだだけ、しゃべることができる。ただし一分以内だ。一分間以上ボールを手にしていたら……」
 ホイッスルが鳴る。
「反則! ボールを他の誰かにパスすること」
 リングには数名の男女が上がっていた。
「誰でも15分間だけは有名になれる、アンディ・ウォーホル。いや、ここでは一分間だけだ。ボールが客席に飛んで受け取ったら、観客の諸君も語ってほしい。これはスピリチュアル・ラリー、魂の集会だ。今こそ、一分間で百万語の“幸福論”を。いざ、キック・オフ!」
 ホイッスルが鳴った。
 ボールが空中に飛ぶ。
 リングの男が受け取った。
「永続性のある友を求む。当方42歳、男性。誠実な交際をのぞんでいます。生活上の御迷惑はおかけしません」
 ボールがパスされる。
「お手紙下さい。当方趣味、切手と男性フォト、フンドシ縛り責め、男性ヌードフォトあり多数、同好の方におわけします。福岡ナルシスト」
 ボールが女性に渡った。
「一人息子の帰りを待つ母親です。息子は1メートル55センチ、家出当時の所持品は、東京地図、タオル、「平凡パンチ」、息子の名は健一です」
 ボールがリングの外に投げ出された。客席の誰かが受け取る。見ると、半白髪で赤ら顔、ちょびヒゲのいかにも場違いな中年男だ。
「う、うわあ……こりゃ、弱っただんべ。おんら、今朝、東京さ着いた。はとバスのツアーで、皇居だ、後楽園だ、そんでもってここさ連れられて来た。おんら、なーんも知らね。これ芝居っけ? たまげたなあ、新橋演舞場の三波春夫ショーとまんず違うだね。おんら、そんだらもって、おんら、おんら……」
 ホイッスルが鳴った。
 うわあ! と男は叫んで、ボールを放り投げる。
 びゅん、と目の前に飛んできた。
 金髪のアフロヘアの赤縁メガネ……そう、サブコちゃんが受け取った。
 ボールをしっかと握り締めると、一つうなずき、にんまりと笑う。
「えと、あのー……あたしは50年後の未来からやってきました」
 えっ、何を言いだすの!?
 客席がざわついている。
「2020年、新型コロナウイルスが蔓延して、世界は大変なことになってます。“書を捨てよ、町へ出よう”と寺山修司は言ったけど、自粛要請、緊急事態宣言、不要不急の外出禁止、町へも出られず、みんな“スマホを持って、家へこもろう”という感じです」
 失笑がもれた。スマホ? 何だ、それ? という声も聞こえる。
 サブコはボールをリングへと投げ入れた。
 そっと影が近づいてくる。
「よおよお、お嬢ちゃんよお、面白いじゃんか」
 長髪でぶしょうヒゲの若い男だった。毛玉の浮いたくたびれたセーターを着ている。にやにやしながらサブコに話しかける。
「未来からやってきたんだって? もしかして、お嬢ちゃん、ホモフィクタスかよ? ホモフィクタスの機構性言語をもってさ、ほら、ホモルーデンスの文明統御によって数値を科学化する我々は、つまり……」
 何を言ってるやら、さっぱりわからない。
 サブコは、ぴんときた顔をする。
「あ……芥正彦」
「えっ、お嬢ちゃん、俺のこと知ってんの?」
「うん、5月に東大で三島由紀夫と討論した、全共闘の人でしょ?」
「ああ、あれを見にきてたのか? ははは、娘を肩車してさ、あんたはデマゴコスだ! つったら、三島もめんくらってたよなあ」
 芥正彦は目を細める。
「お嬢ちゃんさ、50年後の未来からやってきたんだろ。で、2020年? 俺はどうなってるんだろう。ま、死んでるかな?」
 サブコはゆっくりと首を横に振る。
「ううん、大丈夫、健在! 来年11月にね、三島由紀夫が市ケ谷の自衛隊で大変なことやるのね。で、伝説的な存在になる。2020年、『三島由紀夫VS東大全共闘』という映画が公開されてさ、芥さんは73歳で、50年前を回想してる。全共闘運動は敗北したわけですが、とインタビュアーに問われて、敗北? 知らないよ、そんなこと。君たちの国では、そういうふうにしたんだろ? 俺の国では、そうなってない!! って血相を変えて怒鳴りつけて、映画館中が観客たちの笑い声に包まれる……」
 ふっと芥正彦は真顔になり、首をひねると、向こうへ行ってしまった。
 ホイッスルが鳴って、真っ暗になる。
 ゴングの音が聞こえ、またスポットライトがともった。
 セーラー服の女の子が、若者たちに担ぎ上げられてリングに上がる。両腕を広げ、前を向き、まるで飛んでいるような姿勢だ。
 制服少女はすとんと着地して、一人、リングの中央に残された。すっくと立っている。
 凜とした表情の美しい女の子だ。
 少女はセーラー服の胸元から紙を取り出して、広げた。
「お父さん! 今日はお父さんに宛てた手紙に詩を一篇、同封します」
(あ、ハイティーン詩人の家出少女・雪子ちゃんだ!)
 サブコの内心の声がもれた。
「堕落とは一時の気まぐれ甘い感傷だと吐き捨ててダービーの日の二〇〇〇円惜しみながら「遊撃戦」空に描き財産目録もないずんどうのポケット風にふくらみ歩きすぎたということはない……」
 少女の頬が紅潮してゆく。
「……ビルとビルの渓谷の藍にみかん色の月浮びプラスチック管流れるネオンに今日も日本万国協賛の文字彫り込まれたハイライト吸って三光町都電通りの二条の線路物理的沈黙に廃墟の町は魂の叫び!」
 大きな瞳がうるんでいた。
「東京! 東京! 東京! 東京! 東京! 東京! 宮脇まり子先生お元気ですか、すべり台からとばした赤い風船届きましたか病気はもうなおりましたか川村千津子さん私はあなたに手紙は書きません吉田寿美さんもう一度だけ会いたいですスピード狂の倉岡修さん私たちの涸れた思い出はどこに沈んでしまったのでしょう……」
 少女はセーラー服のスカーフをほどき、ぱっと宙に投げ上げた。
「……〈時間=距離×速さ〉と20の公式教えてくれた久家先生赤ちゃん生まれましたかもう一度だけ歌わせて下さい「乾杯の歌」夏の夜5円で買った黄色いひよこ空には飛びませんでした飛んだのは黒い鳥でした今空には飛行機がニューヨークへ急いでいます……」
 セーラー服を脱ぎ、スカートを脱いで、白いスリップを放り投げた。
「……朝が赤橙黄緑青藍紫スペクトルで分けられるのにわたしには見えない朝と不安がる少女共同生活した四畳半白壁の部室……欲情やがて消えるステーションビルのネオンサイン孤独の喜悦夢よ憧れよグリーンハウスよ……」
 ブラとパンツも脱ぎ捨て、放り投げて、もう真っ裸だ。
「……破けた看板キック・オフ擦切れた青空キック・オフああひとたちひとたちキック・オフキック・オオフ!
 新宿駅 東口からキック・オフ!
 新宿駅 東口からキック・オフ!」
 生まれたままの姿の少女の絶叫が響き渡って、場内が真っ暗になった。
 すげっ、最果タヒもびっくり……とうなり、シンとする。
(あ、大変だ!)
 暗闇の中でサブコに手を握り締められ、百合子は思いっきり引っ張られていった。
 階段を駆け上がる。すっごい勢いだ。
 ど、ど、ど、どーしたの、サブコちゃん? と呼びかけても、無言。こうなると、も、豆タンクは止まらない。
 一階の喫茶店へ行くと、ざわついていた。店内の客たちが立ち上がり、みな広いウインドのほうを見ている。和服姿の店主、寺山ママ、はつさんも呆然として震え、立ちつくす。傍らで芝犬がワワンと吠えていた。
 窓の外には、人だかりが……サブコに手を引っ張られ、百合子は扉を出た。
 店の前では男たちが群れ集い、何やら奇声を上げている。
「寺山を出せ、寺山を!」
「何だと? いきなり来て、失礼じゃないか?」
「失礼なのはそっちだろ、天井棧敷……この野郎、葬式の花輪なんかよこしやがって!」
 男たちは対峙して、盛んに罵声を飛ばす。やがてつき飛ばし、つかみ、もみあいになった。
 百合子は目を丸くする。
 一方の男たちの異様な風体ときたら、どうだろう。みなキテレツな衣裳を着て、白塗りで目張り、隈取りのような奇っ怪なメイクだ。
(……状況劇場だよ)
 えっ?
(天井棧敷のライバルのアングラ劇団員たちさ)
 サブコの内心が教えてくれる。
 攻めたてる一群の中央に立つ、小柄な男が目に留まった。瞳を不気味にぎらつかせ、全身からすごい妖気を漂わせている。