第3章
60年代テラヤマ演劇を生きる
「ユリコ~ん」
妙な声が耳元で聞こえ、いきなり後ろから抱きつかれた。
大世古ゆかりだ。
“大世古親方”のぽっちゃりとした肉体に背後から密着され、ぼよんぼよんとした柔らかい圧迫感を背中に覚える。
「やめてよぉ~」と百合子は体を振りほどいた。
ゆかりは、けらけらと笑っている。
朝の学校の廊下だった。
「で、どした……寺山は?」
「うん、あのー、それがさ……」
ゆかりの紹介でサブカル部を訪ね、部長の小山田啓に会った。そこで相談しようとしたら、宇沢健二って人が出てきて……。
「宇沢健二って……ウザケン? げっ、あのインチキ臭いOBの?」
うん、そう、そいでワーッとまくしたてられちゃってさ。
あちゃ~、という顔をする。
「ウザケンってさ、ホンット、口だけだよ。偉そうなことばっかこいて、いざとなるとまるっきしダメ。あっちのほうもね、馬みたいな顔してんのに、馬なみはおろか、ネズミみてえにちっちゃいインポ野郎でやんの」
えっ!
「ほら、部長の小山田啓ね。なよなよっとして、いかにも草食系男子です~って顔してっけど、これがまあ、なんと意外にもあいつのほうが下半身も、精力も、持久力も、そりゃあ、すげーでやんの」
げげげっ! つうことは何、ウザケンとも小山田部長とも、ゆかりは関係を持ったってわけ?
「あったりまえじゃん。男ってさ、そいつの本質は……食ってみなきゃあ、ゼーッタイ、わかんないよ」
ふーん。
「ごっつぁんです」
大世古親方は手刀を切って、例の懸賞金を受け取る仕草をすると、がっはっはっと笑いながら廊下の花道を去っていった。
百合子は、ぽかんとしてしまう。
男の子とつきあったことが、ない、わけじゃあ、ない。うーん、あれが、つきあいと言えるかどうか……。
一緒に東京ディズニーランドへ行こうと約束して、来ないんで電話すると「あれ? 横浜にいるよ、ドリームランドじゃなかったっけ? なんか到着したら影も形もなくて、大昔に閉園したみたいで……」と言うマヌケ男子だった。
正直、恋愛にはあんま、ときめかない。
アイドルの恋愛ソングがいいのは、それが現実の恋愛とはまったく関係がなく、100%のフィクション、架空の世界のものであるがゆえに、ときめけるんだ。そう思う。
母親は40歳過ぎだが、異様に若作りで、仲良し母娘のオーラを発散し、タメ口の女子しゃべりですり寄ってくる。
「ねーねー、ユリコ~、BTSのジョングク様って、かっわいいよね~……きゅんっ♡」
近頃では韓流の男子アイドルに夢中なようだ。あ、も、ついてけない。
父親は、存在感が薄い。平凡すぎるサラリーマンA、つう感じ。のび太の大人バージョンのスケッチを薄いエンピツでラフに描いて消えかけてる、みたいな。当然、ドラえもんは出てこない。
百合子は平々凡々な一人娘だ。
毎日が退屈で、つまんない。
退屈が大好き! なんてホザくスノッブ娘が時たまサブカル界隈に生息してるもんだが、けっ、グーパンチで殴り倒したくなる。
で、アイドルに憧れた。自分もアイドルになりたい、と志願した。
『ぐるぐるカーテン』のM Vで、かわいい女の子たちの中に混じって、チェックのスカートをつまんで、永遠にぐるぐるしていたい――なあんて思った。たわいないもんだ。
それが、どうだろう。
今では寺山修司っつう、詩人? 劇作家? ノゾキ魔? 煽動家? ……正体不明の謎のクリエイターについて、ひたすらお勉強している。
チビで、丸っこくて、赤縁メガネをかけた、女の子版丹下段平のきびしい指導に従って。
にしても、そう、『デスノート』のLのお葬式はショックだった。なーんかゾクゾクきた。何だろう、これって。
自分がアイドルに求めるものは、退屈からの脱出だ。同じく、寺山修司がやってることも、日常性からの解放かもしれない。
だけど、あまりにも強烈で……ああ、これじゃない感、も強いのだ。
困惑しているその時だった。
またもやメッセージが届く。
〈あしたのために その2〉
えっ?
テラヤマ演劇とアイドルとの関係について……考えるべし! 考えるべし! 考えるべし!
百合子はスマホのモニターに目を凝らした。
俳句や短歌を書き、詩人から出発してその後、さまざまなジャンルで活躍した寺山修司だけど、もっとも成功したのが演劇だよね。世界的にも評価されてるし。
その寺山が突如、アイドルグループをプロデュースするという。演劇は芸能のいちジャンルなわけだし、アイドルは芸能界の一部だ。当然、寺山のアイドルに対する関心は、演劇の延長上にあるものでしょ?
で、さ。すなわち、ゆえにテラヤマ演劇について、考えるべし! 考えるべし! 考えるべし! と。
寺山と演劇とのつながりの原点は、少年時代だね。母親が米軍キャンプのメイドとして九州へ行っちゃったんで、13歳の修司少年は母方の大叔父の家に引き取られる。青森市の歌舞伎座という映画館だった。スクリーンの裏側に、彼の部屋があったんだって。で、いつも裏側から「映画をさかさまに見ていた」ってのが、寺山の十八番発言なんだけど。後に“さかさま映画論”を書くわけだから、まあ、できすぎだよねえ。
歌舞伎座ってのは、映画館というより、実は劇場だった。花道もあれば、升席も廻り舞台もある。けど、劇場経営はうまくいかず、映画館として寺山の大叔父が買い取ったみたい。
それでも時折、そこでお芝居があった……と鈴木忠志との対談で言ってるよ。
寺山 そこにドサ回りの一座が入るわけだ。田舎だから、娘義太夫がきたり、説教浄瑠璃がきたり、SKDドサ回り班がきたりするわけ。そういうのがあると、結局おれは寝るところがなくなるから、映写室へ行って寝なければならない。興業がやってくるのはかなり切実な事件だっていう感じがあったわけだ。まさに芝居によって日常生活が変わるわけだ(笑)。(略)それで梅沢昇のドサ回りの剣劇だとか、酒井雲の浪花節のとき、うしろのほうにいて拍子木たたくの手伝ったりしていた。そういう意味で、芝居にまったく無縁な育ち方ではなかった。
そんな事実はまったくなかった、って大叔父の親族は断言しているよ。ああ、またまたお得意の過去の捏造、嘘つき修ちゃんだよねえ(笑)。
たぶん、そう、一発カマしたかったんじゃないかな? ライバル鈴木忠志に対してね。俺は、あんたみたいな青白いインテリ演劇人じゃないんだ、ドサ回り一座の芝居小屋出身なんだぞってさ。
ともあれ、少年時代の寺山修司が劇場に住んでいたってのは、事実みたい。演劇というより劇場、劇空間のほうに後にあれほどこだわりを見せた原点が、そこにあるのかもね。
本当か嘘かってのも、彼がそう思いたかった……自らの過去を脚色して、“劇化”したってところが、そもそも演劇の始まりじゃないか? って、ま、あまりにも好意的すぎる解釈かしら笑笑
寺山は18歳で上京して、早稲田大学に入る。そこで詩劇『忘れた領分』を書いたってのは、前にも言ったっけ。
面白い話があってさ、実は当時、結成されたばかりの劇団四季に、入団希望のハガキを送ったっていうんだ。もし、入団していたら、俳優・寺山修司による『キャッツ』の怪演が見られたかもニャ~。
劇団四季の代表・浅利慶太と寺山は親友になる。意外だね。自民党政治家とべったりで、利権あさり慶太なあんて言われる体制的演劇人と、アングラで異端の反逆者テラヤマが仲良しなんてさあ。
長い入院生活を経て、退院。24歳の時、劇団四季のために書いたのが『血は立ったまま眠っている』だ。初の長篇戯曲だね。これが「文學界」に掲載された。同じ年(昭和35年)、小説「人間実験室」を同誌に発表してもいる。作家・寺山修司は、実は『太陽の季節』の石原慎太郎と同じ「文學界」デビューなんだな。
その「文學界」7月号を買った大学生がいる。夏休みに故郷・長崎に帰省して、6歳下の中学3年生の弟に「面白い芝居だから読んでみろよ」と手渡した。『血は立ったまま眠っている』は60年安保闘争の渦中、テロリスト青年が主人公の劇だ。読んだ弟クンは眠れないほど興奮してね、将来は政治か? 演劇か? とまで夢想するようになった。
やがて弟クンは上京して、早稲田大学に入る。演劇を選択した。劇団なかまを結成して、大隈大講堂で『血は立ったまま眠っている』を上演する。戯曲を読んでから5年後、65年秋のこと。
あ、その弟クンってのは、東由多加のことだね。
当時、寺山は女優・九條映子と結婚して、新居に住んでいた。そこに東由多加が転がり込む。『家出のすすめ』を読んで上京した家出少年少女らが次々とやって来る。
劇団・天井棧敷の結成だ。
寺山夫婦に東由多加、イラストレーターの横尾忠則、メケメケ歌手の丸山明宏……今の美輪明宏だね、それに家出少年少女ら多数。プロの演劇人は一人もいない。
天井棧敷って劇団名は映画『天井桟敷の人々』から拝借したんだろうけれど、そもそも劇場の桟敷席、天井あたりにある安い客席のことを言う。つまりは劇団・観客席……観客サイドから発する演劇集団って意味かな? いかにも寺山らしいね。
〈怪優奇優侏儒巨人美少女等、募集!!〉
これが劇団員募集の告知文だ。あっ、そう、今回のTRY48のメンバー募集の告知文とまんまおんなしだよね。うん、やっぱ寺山にとってアイドルプロデュースは演劇の出発点と共通するところがあるんじゃないかなあ……