新潮社

TRY48中森明夫

[第二回 2/4]

野坂 だいたい大島とか三島とかってのは、目が笑ってないんだよ。
大島 どうして目が笑うんだい、えっ、目が声を出してアッハッハッて笑うのか? じゃあ、その黒メガネを取って、目で笑ってみろよ……バカヤローッ!!

 ぶちきれていた。
 二人にはさまれて、ぎょろっとした目の顔色の悪い中年男が映る。
〈寺山修司(当時・51歳)〉のテロップが出た。

寺山 まあ、目は笑うとか笑わないとかじゃなくて、つまり、いわゆる、その……目はエロス的現実に対して開かれた窓、なわけデシ。
野坂 エロス? とか、エロチシズムとか言われると、何を喋っていいかわかんなくなるね。まあ、オマンコっていうんなら、あらまほしき感じでもって、わかるけど。
寺山 オマンコのほうがいいなら、ぼくはオマンコでいいわけデシ。エロス……いや、オマンコは、オマンコであることによって、反オマンコに抵抗するオマンコの拠点として……。

 うわっ、“ザ・昭和”のテレビ番組はゲスいなあ、と百合子は目を丸くした。
 寺山修司はにこりともしないで「オマンコ、オマンコ」と連発している。
「ただいま不適切な発言がありました」と大慌てで局アナが謝罪した。
「エロスといえば、大島渚監督の『愛のコリーダ』なわけですけど」と司会の田原総一朗が水を向ける。
「いやあ、あれを公開した時は、本当に大変でね」と扇子をぱたぱたやりながら大島は笑った。
 1976年、まだAV=アダルトビデオも存在しない時代に、和製ハードコアポルノ映画を撮った。日本で撮影したフィルムを、フランスで現像するという荒技だ。昭和11年の阿部定事件がテーマである(ちなみに阿部定を演じた松田英子は天井棧敷の女優だった)。
「『愛のコリーダ』には世界中が熱狂したわけだけど、ベルリン映画祭では突如、上映中止になった。警察にフィルムが押収されてね。阿部定が情夫のオチンチンを切断するシーンが、あまりにも生々しく残酷で不快感を与えるっていうんだな。たしか、ああ、あの時は寺山さんが現地にいて、擁護してくれましたね」
 寺山の目がぎらりと光った。
「そう、ま、ぼくはこう言ったわけデシ。〈映画の中の犯罪の取り締まりは、映画の中の警察にまかせておけ〉って」
 ほう、と一同が感心して声を上げる。
 百合子もハッとした。
 寺山はドヤ顔だ。勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
 なるほど、人をハッとさせたり感心させたり、言葉のパンチで相手をノックアウトするのが大好きな人らしい。

 次の動画へと移る。
〈1990年10月、大島渚&小山明子夫妻、結婚30周年パーティー〉
 蝶ネクタイで黒いスーツの大島監督と着物姿の小山明子がにこやかに並び、壇上に立つ。マイクの前には黒メガネの男、野坂昭如だ。紙を広げ、祝辞を詠み上げていた。泥酔して、体がふらついている。
 野坂は準備してきた祝いの和歌を披露しているようだが、べろんべろんに酔っ払っていて、ろれつも怪しく、何を言ってるやらさっぱりわからない。なんとか詠み終えると、大島に近づき、握手するかと思いきや、いきなり右こぶしを突き出した。顔面にフック気味のパンチを食らい、大島のメガネがふっ飛ぶ。よろけて後方に倒れそうになるが、なんとか体勢を立て直した大島は、血相を変え、反撃に出た。手持ちのマイクで、野坂の頭部を殴打する。ゴン! ゴン! と鈍い連打の音がマイクからスピーカーを通して会場中に響き渡る。今度は野坂がよろめいた。
 スピーチを何時間も待たされて、怒った野坂昭如の泥酔パンチに、大島渚がマイク攻撃で応酬する珍事だ。着物姿の小山明子が二人のあいだに割って入って、止めようとする。が、野坂と大島は激しくもみあい、はね飛ばされた。小山の悲鳴が上がる。
 と、その時、突如、脇から現れ、両者のあいだにサッと入った男がいた。
 寺山修司だ。
 クリンチしたボクサー同士を分けるレフェリーの仕草をして、その後、寺山はこぶしを握り締め、ファイティングポーズを取る。が、次の瞬間には野坂のパンチが炸裂した。寺山はふっ飛び、さらには待ち受けていた大島のマイクでボコボコに連打されて……あわれ寺山修司は涙目のまま、その場にノックダウンした。
〈なみだは人間の作るいちばん小さな海です〉
 その海に、溺れ沈んだみたいだった。

 続いて次の動画へ。
 同じく1990年、『いかすバンド天国』とあった。TBSの深夜番組で、アマチュアバンドによる勝ち抜き形式のコンテストだ、との説明が入る。三宅裕司が司会していた。
 なんとも奇っ怪な四人組バンドが登場する。坊主頭でランニングシャツでタイコを叩く、裸の大将みたいな奴、キノコみたいな頭髪で不穏な目をしたゲタ履きの奴、さながらゲゲゲの鬼太郎……水木しげる漫画の妖怪どものよう。奏でられる音楽も、どこか面妖だ。
 “たま”というグループだった。
 演奏終了後、審査員のコメントが入る。
 つるんとハゲたメガネのじいさんが、何やら興奮したようにまくしたてている。
「いや~、ぼくは感動した! 音楽にこれほど心を打たれるのは、琉歌……そう、沖縄の島唄、美空ひばり、そしてビートルズ以来だな。彼らの音楽を聴くと、ぼくが幼少の頃、昭和初年の浅草六区の光景が甦ってくるね。常盤座、電気館、浅草オペラ、安来節、活動大写真……それに夢野久作に久生十蘭、江戸川乱歩、小栗虫太郎の世界だ。自由を感じる。“たま”の歌には、自由を求める心の調べが聴こえる。そう、人間のもっとも大切な自由は、自由になろうとする自由なのだ!!」
 大絶讃だった。〈竹中労〉のテロップが出る。ケンカ竹中の異名を取る元祖ルポライター、反骨のジャーナリストである。
 と、続いて隣席の審査員のコメントになった。寺山修司だ。
「ま、そのー……竹中さんには申し訳ないが、ぼくにはまったく響かなかった。どこか、こう、幼児的に孤立した内部への退行のようなものしか感じられなかったわけデシ。ま、『さよなら人類』っていうんだけど、そう唄う時の彼ら自身はいったい何類なのか? めん類なのか、柑橘類なのか? まるで何も見えない。幸福とは、幸福を探すことである――というジュール・ルナールの幸福論が虚しいのは、そこではいつも現在形の幸福だけがお預けを食らう、鼻先の“にんじん”であるわけデシ。つまり、竹中労が“たま”に見た、自由になろうとする自由……なんてのは、堕落しきった醜い奴隷の思想なのであって……」
 何をっ! と叫んで、スキンヘッドがぴかっと光り、じいさんが立ち上がった。隣席の男の衿首をつかみ、いきなりパンチを食らわせる。寺山はふっ飛び、たちまちノックアウトされてしまった。涙目のまま……。
〈なみだは人間の作るいちばん小さな海です〉
 ああ、寺山修司という人は、言葉のボクシングでは最強でも、実際の殴り合いになるとめっぽう弱く、やられっぱなしのようだ。

 舐めて癒すボクサーの傷わかき傷
 羨みゆけば深夜の市電

 サブコのブログの寺山修司研究、〈あしたのために〉を読み込み、疑問があればLINEでメッセージをやり取りする。放課後、学校前の例の店で落ち合い、百合子は直接、レクチャーを受けた。
 喫茶・銀河鉄道は、いつ行っても、誰も客がいない。不思議だ。
「おばちゃーん。お茶、二つ、くださ~い」と注文すると、「はいはい」と暗闇から声が聞こえ、足音もなく、老いた白い猫の足取りで女店主が現れる。
 サブコはいつも湯呑み茶碗を両手で包み込んで、ふうふうと息を吹きかけ、ちびちびとすすっていた。猫舌なのに、なぜか熱いお茶を冷まして飲むのが、好きなようなのだ。変なの、と百合子は思う。
「はい、これ」と大きな紙袋を手渡された。中を見ると、漫画本だ。十数冊は、あるだろうか。
『あしたのジョー』だった。
「ほら、〈あしたのために〉の元ネタ」とサブコは言う。
「これ、読んどいてよ。寺山修司研究には欠かせないからさ」
 年季ものの古本だ。どうやって手に入れたんだろう? ともあれ百合子は数日をかけて、『あしたのジョー』の全巻を読みきった。
 こんな古い少年漫画を読むのは初めてだ。どこかとまどい、なぜか新鮮だった。
 ドヤ街に現れた少年・矢吹丈が、元ボクサーの丹下段平の指導を受け、チャンピオンをめざす物語だ。暴れん坊のジョーは少年鑑別所に収容される。段平から届いたハガキには〈あしたのために その1〉とあり、ジャブの打ち方が書いてあった。それに従ってジョーは、ジャブを打つ練習を始める。
「何、サブコちゃんが丹下段平ってこと?」
「うん、そうだ。打つべし! 打つべし! 打つべし! 立つんだ、ジョ~~~!!」
 妙な声色を使って、サブコは叫び、こぶしを握り締めて、パンチを繰り出す仕草をする。百合子は吹き出しそうになった。
「〽サンドバッグに、浮かんで消える~、憎いあんちくしょうの、顔めがけ~、たたけ! たたけ! たたけ!……」
 サブコは唄う。アニメ『あしたのジョー』のテーマ曲だそうだ。
「うん、寺山修司の作詞。たぶん寺山でもっとも唄われた詩で、もっとも有名な仕事じゃないかな?」
 少年鑑別所でジョーは、ライバル・力石徹と出逢う。やがて二人はリングで闘うが、ジョーはめった打ちにされ、マットに沈み、敗れる。直後に勝者・力石は、無理な減量がたたってか、死んでしまう。
 この展開には、百合子も驚いた。
 力石のほうが、ジョーよりもはるかに魅力のあるキャラクターに思えたからだ。
「あのね、当時、寺山はこんな文章を書いてるよ」

 おそらく、力石は最初から死んでいたのであり、丈のように「闘うべき理由」など何も持っていなかったと言ってもいいだろう。思い出していただくとわかることだが、力石はつねに丈のリアクションとしてのみ登場してきた。あの、劇的な二人の「出会い」は、丈のもとに「あしたのために」の葉書を運んできた自転車の男が力石だったということである。力石は、丈の胸の内なる幻想として生まれ、そして、丈のリングの上での破産と共に消えて行ったのだ。
 力石はスーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラムのゲリラだった矢吹丈のえがいた仮想敵、幻想の体制権力だったのである。
 (略)
 力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは七〇年の時代感情のにくにくしいまでの的確な反映であると言うほかはないだろう。東大の安田講堂には今も消し残された落書が「幻想打破」とチョークのあとを残しているが、耳をすましてもきこえてくるのはシュプレヒコールでもなければ時計台放送でもない。矢吹丈のシュッ、シュッというシャドウの息の音でもない。ただの二月の空っ風だけである。
 (「誰が力石を殺したか」) 

「うん、まあ、『あしたのジョー』の漫画連載が1968年の1月1日に始まる、つまり学生反乱……全共闘運動の渦中だよね。で、力石が死んだのが2年後の70年2月、そう、70年安保闘争に敗れた左翼学生の心情がさ、この寺山の文章にも読み取れるよねえ」
 サブコは神妙な顔をして言う。
「その翌月、70年3月には、日本で初めてハイジャック事件が起きてる。過激派組織・赤軍派のメンバーらが日航機よど号を乗っ取ったんだ。北朝鮮に亡命した。飛び立つ時に、こんな宣言をしたんだって。〈最後に確認しよう。我々は『あしたのジョー』である〉」
 へぇ~、過激派が……あしたのジョー?
「うん、それだけじゃないよ。ハイジャック事件の一週間前にね、実は寺山修司が主宰して、力石徹のお葬式をやったんだ」
 ええっ、お葬式って……漫画のキャラの?
「そう、出版社の講堂に何百人も読者がつめかけてさ、力石の遺影が飾られて、お坊さんがお経を詠んで、みんなでお焼香をしたそう……」
 サブコはスマホで検索して、次々と画像や記事を見せた。
 黒い枠とリボンで囲まれた力石徹の遺影の前に、大学生ぐらいだろうか? 当時の若者たちがずらりと並んでいる。会場にはリングが作られ、ボクシングの追悼マッチが行われた。亡きボクサーを悼む十点鐘――テンカウントの弔鐘のゴングが打ち鳴らされ、起立した観客たちは黙祷する。原作の高森朝雄(梶原一騎)、漫画家ちばてつや、寺山修司の姿も見えた。
 トランクスにグラブのボクサースタイルで尾藤イサオがリングに上がり、『あしたのジョー』のテーマ曲を熱唱する。
 すると、突如、客席からリングに駆け上がる男の姿が……彫りの深い顔立ち、眼光鋭く、異様な殺気を帯びていた。煽情的朗読俳優を自称する、天井棧敷の劇団員・昭和精吾だ。
 男は懐から取り出した紙を広げ、高らかに詠み上げる。寺山が書いた、力石徹への弔辞だ。