女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第9回R-18文学賞 
選評―角田光代氏

角田光代

「クローゼット」は、父の連れてきた妻と暮らす主人公が、成長し、性行為において彼女と自身を同一化する、というストーリーだが、無理のない説得力があり、文章には先を読ませる力もある。ただ、彼女がじつの父親を殺めるのには、父親の非道ぶりや義母への愛を誇張して書くなど、もっと徹底的な説得が必要だと思った。ここでもまたクローゼットが重要な役割を果たしていて、タイトルの意味が二重になっている。それは作者の、好ましい悪意だと私は思う。だから父親との確執をもっと納得させてほしかった。
「溶けたらしぼんだ。」は、男を汚いと思い、女の子と暮らす主人公が、まさに女性性を獲得する過程を描いている。ありきたりだと思わせる描写も少なくないが、同時に、この作者の感覚でしか書けないような新鮮な表現も多い。とくに、主人公が圧倒的にかなわない絵を見たときの、その圧倒感の描写がすばらしいと思った。はじめての性交によって主人公が獲得してしまった、性というもの、それを抱え引き受け、少女時代との訣別をにおわせるラストもすがすがしい。けれどところどころ雑な部分が目立ち、また、映像的な雰囲気に流されている感も気になった。大賞と言い切れない弱さが作品のなかにあり、結果、優秀作ということになった。雑さを排しつつ、自身の言葉を信じてどんどん書いてほしい。
「やづくんとあいちゃん」は、じつに気になる小説だった。視点(人称)がころころ変わってしまうのも、八十殺男という異常な名前が生かし切れていないのも、十歳の少女がのぞき見る性交にまったく抵抗がない不自然さも、すべて、作者の意図ではなく、単なる筆力不足である。が、どうにも魅力がある。ラスト、十歳の女の子からぬっとあらわれるふてぶてしい「女」が、小気味よく、キュートな迫力がある。筆力は、たくさん小説を読みたくさん小説を書くことで、すぐに蓄えられる。今すでに点灯しているこの魅力をどうか消さずに、この作者に筆力をつけてほしいと願う。
「20%は誰が悪い」というタイトルは魅力的で、冒頭に告げられる結婚式が、じつは元恋人のものであるというささやかなどんでん返しも効いている。元恋人との会話はあまりうまいとは思えないのだが、けれど元恋人の弱さと魅力は説得力がある。が、ラスト、何かひとつが大きく足りない。このラストだと、小気味いいが、ただ仕返しをして終わってしまい、読み手の心に残るものがあまりにも、ない。こんなに弱く残酷で、永遠に自分のものにならないと決まった男に、現恋人との性交を見せつける、そうしないと別れることができない、そのせつなさ、やるせなさ、かなしさ、どうしようもない性を、行間に込められなかったかと悔やまれる。
「花に眩む」は、R-18文学賞にふさわしいか否かの声が多かった。官能的な描写がほとんどないからである。また、ファンタジー的要素とリアリズム的要素が、あまりにも中途半端に混じり、それがいい結果になっているようには思えない。主人公、もしくはすべての女性が、男性であれ子どもであれ、強く愛する対象なくしてはいられないせつなさは描けてはいるが、高臣さんがなぜ、主人公との「約束」を避け続けるのかの必然が伝わってこず、その部分のせつなさが感じられない。欠点の多い作品ではあるが、安定した筆力と、この人にしか持ち得ない確固たる世界観があることは、過去、最終候補に残った数作を読んだことからも、確信できる。読者から熱烈な支持が多かったことも踏まえ、読者賞に決まった。今後、すでに持っている独自の世界観に縛られることなく、自由にたのしんで書いてほしいと思う。
「溺れちまうよと、カワウソは言った。」の、川井のじいとみずはの性交場面の描写は秀逸である。うつくしく幻想的で、印象深い。けれどこの作者は、自分で書いた小説の芯に、最後まで触れられなかったように思えてしまう。カワウソのじいとは何ものなのか? 彼の妻たちの死の真相は? なぜみずはとの結婚が最初から決まっているのか? 等々、書かなくともよいが、少なくとも作者は充分に理解納得していなければならない。そうであるようには、思えないのだ。その部分がかっちりしていないので、せっかく魅力的に描いた主人公の働く豆腐屋、彼を取りまく現世的な人間関係が生きてこない。ぜひ、芯をがっちりつかみとって、もう一度書いてほしい。読みたいです。