女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第8回R-18文学賞 
選評―角田光代氏

角田光代

「内洞君」は、処女である主人公の女の子が、経験豊富な女を装って同級生男子に猥談をし続ける、その関係が新鮮で興味深かった。十代にも四十代にも恋愛をせっつくような風潮がある昨今、恋も初体験もゆっくりでいいと伝える小説のテーマは魅力的でもあった。けれど、「ヤラハタ」(やらずのハタチ)を焦る主人公が、その他のことは許すのに、「痛そうだから」という理由だけで恋人の挿入を頑なに拒み続ける点には、説得力が欠けるように思う。そして途中から主人公の恋人の名前が変わっていて、単純なミスだと思うけれども、それに象徴されるような不注意がいくつかあり、結果として乱暴な小説という印象を与えるのがもったいなかった。徹底的な推敲をするだけで、完成度ははるかにちがったと思う。
「いちごゼリーのたくらみ」は、小説の三分の一ほどが官能シーンであるところに敬意を覚えたが、けれどこの文学賞はエロさを競うものではない。登場人物すべてがあまりにもシンプルな造りで、奥行きがない。一文一行の文章も、小説としてどうかと思ってしまう。妄想がほとばしる高校生、という設定はおもしろい。そのキャラクターをもっと活かすことはできなかっただろうか。
「ミクマリ」は、小説の奥に、作者のしっかりした意志と思想があり、それが小説の核になっている。主人公の高校生男子にとってただひたすら性欲を満たすための性交が、出生という神聖で神秘なるものにつながる不思議を、彼の母親が産婆であるという設定でうまく描き出している。「水分たっぷり」でありその内に繁殖能力を秘めた同級生の女の子と、「産めない」主婦、あんずを対比させたこともきいている。作者は男子高校生の目線になって、女性というものへの敬意と恐怖をさりげなく描きだしている。性が存在することへのやっかいを描きながら、それを大きく肯定するようなラストもじつに魅力的だった。大賞にふさわしい作品だと思う。ただ、タイトルの説明が、文中にさらりと書いてあってもよかったのではないか。それでこの作品の重みが減じることはない、かえって強さが増すと思う。
「成宮失恋治療院」は、整体と性交を対比させたところが、本当に巧いと思う。一見ありがちな対比に思えるが、実際は読んだことがない。新鮮だった。また、この作者の文章には、読み手に身体感覚を味わわせる力がある。それはたやすくできることではない。けれど私がこの作品を強く押せなかったのは、文章があまりにも乱雑すぎる。「~みたいな~みたい」というような重複表現が多いことが非常に気になった。それから、「彼が好き」ということと「彼のセックスが好き」ということとどのくらいの差があるのか、と小説にはあるけれど、思い出すことがセックスだけなのだとしたら、これほどまでに主人公は別れに落ちこまないのではないか。タイトルにもある「失恋」、もとの交際相手の人間性、魅力、といったものを、たとえば一、二行の簡素な言葉で描いただけで、もっと小説には説得力が生まれたと思う。そしてラスト、整体師の自分語りは必要なかったのではないか。わかりやすい「オチ」になってしまい、作品の強度が減じるように思った。
「七日美女」は、設定がとにかく独特で、しかもその独特の幻想的世界を、作者は最後まで保ち続けていて、そのことは高く評価したい。美女果の「ワクワク」という話し声や、「たんらんあ」といった言葉など、細部がこの作品の独自性をていねいに活かしている。残念なのは、後半にいくに従って、おそらくあまりに話が壮大なため、小説のあらすじめいてしまっていること。この賞の規定枚数と、この小説はもしかして相容れなかったのかもしれない。この主題、この設定は、長編小説でないとおさまりきらないのではなかろうか。
「まごころを君に」は、おそらく作者のなかではストーリーが細部まで決まっているのだと思う。それを言葉に置き換えるとき、作者は端折りすぎてしまったように思えてならない。説明不足の部分がありすぎ、読み手としては少々消化不良の読後感を味わった。主人公の双子の弟、春と元彼女とのエピソード、主人公と恋人の関係など、すでに頭のなかにあるものを、もう少し親切に書けばもっと小説の魅力が生きるように思う。

 最後に。今回、疑問に思ったことがある。小説を書き上げて応募する際、それはまだ世に出ていないとしても、応募者は「作者」であり応募作はすでにその作者の「作品」である。応募者は、書き上げた小説を編集部に送るとき、自分の作品に対する愛着と誇りと自負を持っているのだろうか?
 なぜそんなことを思ったかというと、せっかくの作品であるのに、あまりにも乱暴さ・粗雑さが目立つからである。推敲を重ね、印刷して読み返せば、すぐに見つかるミスの多い小説が、年々多くなっている気がする。ちいさなミスでも、それは書き手の作品への熱意の欠落を意味してしまう。どうか、自分の創り上げた作品を、もっと愛してほしいと思わずにはいられない。