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第6回 新潮エンターテインメント大賞

主催:フジテレビ・新潮社 発表誌:「小説新潮」

 第6回 新潮エンターテインメント大賞 受賞作品

花園のサル

※「女子芸人」に改題

神田茜

 第6回 新潮エンターテインメント大賞 候補作品

 オーバードース 今葷倍正弥
 花園のサル※『女子芸人』に改題 神田茜
 グリフターズ 上田未来
 スクランブルトリガー 上田千尋

選評

三浦しをん

三浦しをんミウラ・シヲン

物語のなかで生きる登場人物

 最終候補の四作を楽しく拝読した。いずれも力作であったと思う。
『スクランブルトリガー』は、不動産屋さんの仕事の大変さや、職業に対する矜持がうまく描かれていた。主人公の恋が実るのかどうかといった部分も、ハラハラジレジレしながら応援することができる。
 ただ、事件の部分(特に謎解き)が、ややお粗末ではないか。登場人物のほとんどが不動産屋と現場のマンションにゆかりがあり、しかも、実は血縁・婚姻関係にあるとあとから判明したり、主人公と高校時代につながりがあったり、というのは、いくらなんでも不自然だ。「大きな悪意はだれも持っていないにもかかわらず、ひとつのきっかけから出来事が連鎖していき、思いがけない事態に至ってしまう」という意図はわかるが、連鎖に関係するひとがほぼ全員顔見知りである必然性に欠ける。また、「瞳」にアイラインやアイシャドウとか、「半ば半狂乱」とか、表現がややおかしいところがある。文章をもう少し練るよう、心がけたほうがいいだろう。
『オーバードース』は、主人公がやたら女にモテるわりには、女心をわかっているとは到底思えず、やや鼻白む。なぜ、会話がすぐシモに流れるのか。主人公は本当に、舞(女子高生)を愛しているのか。ただ単に自分に好意を寄せてくれる若い女ならだれでもいいだけではないのか。など、主人公の女性観に不信を抱くあまり、読み進むうちにストーリーの本筋とはさして関係ない部分までもが気になってしまった。
 上記のような疑問を惹起させる一番大きな要因は、登場人物が物語の駒になってしまっていて、それぞれの個性や内面まで描ききれていないためだろう(特に女性陣)。また、人口が八十万人近くいるらしい町が舞台なのに、登場人物がほぼ全員知りあいというのは、どういうことなのか。これも、プロットを重視するあまり、登場人物を効率のいい駒として配置した結果なのではないかと思われる。物語を心情的にも盛りあげるためには、主人公の真の内省が不可欠である。主人公は物語の終盤において、騒動の張本人の境遇と対比しつつ、復讐ですらなくひと(しかも勤務先の高校の生徒)を殺している自身を省みてしかるべきだと思うが、悲劇的ポーズを取るだけに終始してしまっている。大変惜しい。
 しかし、「グリゴリ」という発想がとてもおもしろく、「隕石が発端で、こういう事態が起きることが本当にあるかも」と思わされる。私は断然、タイトルは『グリゴリ』としたほうがいいと感じた(『オーバードース』として、読者をミスリードしよう、という作者の意図もよくわかるが)。独創的な発想、ハードボイルドなタッチを活かすためにも、裏社会物や剣豪物など、「男の世界」を書くことに挑戦なさってみるのもいいかもしれない。
『グリフターズ』は、事態がどう転がっていくのか気になって、どんどん読み進めさせる力に満ちていた。登場人物の設定や会話も楽しい。文章をもう少し練ったほうがいい部分(たとえば、「目は瞬きひとつすることもできず」や「うしろに振り向いた」など。瞬きする部位が目なのは当然であり、振り向くという行為がうしろを向くことであるのは自明だ)や、プロットの粗もないわけではないが(粗が逆に、薄氷を踏むかのごときスリルを醸しだしてもいる)、大きな瑕疵ではまったくない。ユーモアにあふれた表現といい、読者を楽しませようとする心意気といい、非常に実力ある作者なのはまちがいない。
 ただ、よく考えてあるプロットだからこそ、物語の後半、ややメリハリに欠けるきらいがある。つまり、作者があらかじめ想定した筋道どおりに話を進ませるあまり、意表を突くような逸脱や、登場人物の心情的な盛り上がりがないのだ。プロットを完遂させるためだけに、登場人物が存在するかのように見えてきてしまう。たとえば、ある女性は銃の台座でこめかみを殴りつけられて失神し、のちにヤクザ者にさらわれ強烈なビンタを食らうが、痛みや怯えといった描写がほとんどない。さくさくと話が進む。
 前半はユーモアたっぷりにはじまったのだから、痛みや怯えを伴わぬ中途半端な暴力描写はやめて、あくまで頭脳戦に徹するほうがよかったのではないか(暴力以外の、思いもよらぬ脅しかたを考案するとか)。もしくは、後半でぐっとギアチェンジし、痛みと狂気にあふれた冷酷な世界へどんどん突入することで、ユーモラスな前半との落差を際立たせるのも手だろう。プロットももちろん大切だが、それを振りきるほどの、登場人物の思考や感情から生じる暴走を、本作においてはもっと読みたかった気がする。物語を駆動させる力、小説が帯びる情熱の源は、プロットではなく登場人物の心情にあるのではないかと、個人的には思う。
『花園のサル』は、読んでいて笑ってしまう場面が多々あり、さまざまな登場人物の心情や立場がさりげなく、しかし的確に描かれていた。比喩表現も気がきいている。社会のなかで生きる女性がぶち当たる壁、そこから生じる感情と思考、対処法も、「あるある」と共感をもって読んだ(ただし、これはひとによっては、作品から受ける印象の好悪がわかれる点だと思われるので、「女であること」をどこまで強調するか、塩梅を一考してみてもいいかもしれない)。
 ややタメが少ないというか、あらすじっぽさが感じられる部分があるのが残念だが(たとえば、人物の動きなどの描写がやや粗い)、数を書いていけば、粘りは身についていくことだろう。会話文が多すぎる気もするので、地の文とのバランスに注意したい。
 しかし、書きたいことがある、という熱を一番感じたのが本作だ。登場人物がなにを考え、なにを感じて生きているのかが、一番伝わってきたのも。この作者が表現したいと願う「ひとのありよう」を物語化する際に、一番適した形式は、詩でも音楽でも映画でも絵画でもなく、小説であると思う。つまり、小説表現を追求しつづけるだけの種のようなもの、胆力や情熱と言いかえられるかもしれないものを、作品から強く感じた。本作とはまったくちがった題材にも挑戦しつつ、今後もぜひ、小説に、物語のなかで生を受けることを待っている登場人物たちに、情熱をぶつけていっていただきたい。そういう期待をこめて、私は『花園のサル』を推した。

選考委員

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