新潮社

 page 4奈落〔 page 5/5 〕

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 年の瀬も迫った寒い朝だった。車椅子に乗せられる時、窓から高層ビルの縁ぎりぎりまで、空中を重い雲が覆っているのが見える。病室を出るとあのジャガイモ顔の若い医師が待っていた。出口まで付き合ってくれるらしい。その時、初めて彼の名前が記されたネームタグが見えた。野田くんというらしい。
 私は事故に遭ってから109日、目覚めてから76日を過ごした病院を後にすることになった。これまで入院していた急性期病院でのリハビリは、褥瘡や尖足せんそくを防止するための簡単なものだったが、転院先では専門的な治療ができるらしい。「群馬は遠すぎる」という母の一言で、新宿区のリハビリテーション病院への転院が決まったのだ。最悪の事態だけは避けられたことになる。
 病院の通用口から介護用タクシーに乗るまでの短い間、本当に久しぶりに身体中で外気に触れた。恐る恐る息を吸い込むと、肺の中がひやっとした気がする。まだ自分が寒さを感じられることに安心する。
 野田くんは俯きがちに「頑張って下さい」と伝えてきた。なぜかそれに姉が「ありがとうございます」と応える。私の代弁者にでもなったつもりなのだろうか。
 車椅子のままタクシーに乗せられると、助手席には父が座っていた。父が最後にお見舞いに来てくれたのは一ヶ月ほど前だったが、その時よりもさらに老け込んだ気がする。まだぎりぎり40代のはずだが、勤務先の高校で理事長が替わってから業務量が増えて大変らしい。そもそも社交性の乏しい父に、学校の先生が勤まっていることが驚きなのだけど。
 高齢の運転手と父は目的地の確認など当たり障りのない会話をしたら黙り込んでしまった。その沈黙に耐えられなかったのか、運転手がカーラジオを入れる。今年のヒットソングを順番に紹介していく番組だった。「fragile」や「天体観測」が流された後に私の曲が紹介された。こんなしみったれたタクシーの中で自分の曲を聴きたくないと思ったが、それを拒絶する手段は一つもない。
「続いてお送りするのは藤本香織の『アリウム』。今年の夏、ライブ中にステージから転落するという事故に遭ってしまった彼女ですが、今は懸命な闘病中。しかし必死のリハビリにより、来年早々には新曲のレコーディングも開始されるとか。藤本さんの復帰をみなさんで待ちたいですね」
 喋ることさえできないのに新曲のレコーディング? 一体、誰が流した情報なのだろう。ラジオ局が勝手に創作したとは思えないから、事務所の誰かが伝えたのだろうか。もしかしたら知らない所で、年明け早々に自由に話せたり、歌えたりするようになるという診断でも出たというのだろうか。二ヶ月間、一向に動くようにならない身体に絶望していたけれど、その曖昧なラジオ情報にすがりつきたくなる。
 30分ほどして母と姉が並んで病棟から出てきた。姉はずっと怒りながら入院費の話をしている。
「病院ってこんなにお金がかかるの? 何ヶ月もの入院だから覚悟していたけれど、これじゃベンツでも買えちゃうじゃない。特に差額ベッド代って何よ。一泊の値段が高級ホテル並みっておかしいよ。ママ、香織の貯金には手を付けないって正気? 早く弁護士さんに手続きしてもらわなくちゃ」
 母は姉の問い掛けを無視して運転手と目的地の確認を始める。姉はまだ言い足りないらしく、狭い車内でがなり続ける。
「香織が元気になるって本気で思ってるの? 事故から何ヶ月も経ってようやくこれだよ。目は開いてるけど、意識があるかどうか怪しいんでしょ。リハビリテーション病院の入院費、見た? 群馬の病院なら保険とか年金だけで何とかなるんでしょ。香織にあと何百万円かけるつもりなのよ」
 姉は私を睨み付ける。その表情には怒りと共に優越感が入り交じっている気がした。
「まあ年明けに新曲も出してもらうしね。香織がストックをたくさん残しておいてくれてよかったわ」
 ストックしていた曲を発売する? 初耳だった。確かに私には未発表のデモ音源が少なくとも数十曲分はあった。だけど次のアルバムに数合わせで収録するかどうかという曲ばかりだ。
「何曲か聞かせてもらったけど、私には良さが全くわからないんだよね。推薦文を書いて欲しいって言われてるんだけど、どうしようかな」
 山根はよりによって姉に推薦文を書かせようとしているのか。想像以上にセンスのかけらもない男だ。事故に遭った私に同情する有名人なんてたくさんいるはずだから、もっと知名度のある人に頼めばいいのに。
「ママは香織の曲って聞いてた?」
「あんまりわからないのよね」
「おい、香織が聞いてるんだから、せめて今はそういう話はやめたほうがいいんじゃないか」
 しびれを切らした父が会話に割り込んでくるが、間髪を入れずに姉から反論されてしまう。
「ほとんどお見舞いにも来なかったお父さんは黙っててよ。香織、ずっと寝たきりなのよ。目を覚ました時はすぐに治るんだと思ったけど、相変わらず身体は動かないし、何も話せないし。入院費だって、お母さんの実家に出してもらったんでしょ」
 何も言い返せずに父は黙り込んでしまう。子どもの頃と変わらない家族の光景。女性のほうが多かった我が家で、父はいつも所在なさげだった。何か言いたいことがあっても、そう易々と話し出さない。勇気を出してぽつりぽつりと発言をしても、母や姉に黙殺されるか、すぐに反論されてしまう。おそらく高校でも生徒から馬鹿にされているのだろう。
 カーラジオではまだ「アリウム」が流れている。
 初夏に咲く紫の花だけど、花言葉が面白いと思ったのだ。「正しい主張」と「深い悲しみ」。正しいことを主張したからといって、誰かに届くとは限らない。誰もが自分の意見ばかり求められる世の中で、沈黙を守るのはそんなに悪いことなのか。そんなことを考えながら詞を書いた覚えがある。
 だけど意見を言うか言わないかを選べる時点で、その人はもう強者なのだ。事故に遭った私はどちらも選択できない。今ならもっといい曲が書けるのに。あの夢の中で作った曲を発表する術はないのか。言葉さえも発することのできない身体で、昔の自分が書いた薄っぺらい歌が終わるのをひたすら待った。

 *

 娘をリハビリテーション病院へ送り届けた後、久しぶりに妻と二人でご飯を食べた。オペラシティの展望レストランは休日のせいか人の数はまばらだ。大きな四角い窓の外では、静かな冬の日差しが東京の街を淡く照らしていた。
 もともと私たち夫婦にはほとんど会話なんてなかったのに、香織が事故に遭ってから全てが変わってしまった。妻はあれほど毛嫌いしていたはずの香織のことをやたら私に語りたがる。子どもの頃の思い出、香織の音楽生活、今の香織の容体。私は一方的に聞くばかりだったが、そこには多くの誤解が含まれていた。いちいち訂正しようとは思わないが、妻は本当に香織のことを理解できていないのだと呆れた。
 ダイエットにいいからと彼女が勝手に頼んでしまった薬膳ランチのコースが二人分運ばれてくる。このぶくぶくと太った顔でまだダイエットに興味があるのだと驚くものの、もちろん口には出さない。
 何かを考えているからといって、それを表明することが偉いとは限らない。実は香織には、そういった物事の真理をよく表現した歌が少なくない。妻がこれまで娘の音楽に興味を示さなかったのも仕方のないことだ。妻と香織はまるで別種の人間なのである。家族の中で香織を理解できていたのは私だけだと思う。
 妻は自分の分の薬膳スープをぺろりと飲み干してしまうと、何の断りもなく私が口を付けていないスープを奪い取って一気に飲んでしまった。

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 親指、人差し指、中指、薬指、小指。ショートカットの理学療法士が、指を順番に折ったり曲げたりを繰り返している。
 幼さの残るその顔つきは、私と同年代のようだ。新しい病院に転院してから96日が経つが、リハビリテーションの成果は一向に出ていない。理学療法士は、聞いていないふりをしながら、明らかに姉たちの会話に興味津々だ。
「印税率ってもう少し上げられないんですか。正直、ほとんど制作費がかかってないわけですよね。一から曲を作る時と今回の場合で、こちらに入るお金が同じっておかしくないですか。香織がどんな状態かわかってますよね。ここの入院費、知ってますか。あの子、本当に頑張ってリハビリしてるんですよ」
 さっきから病室では、チーフマネージャーの山根相手に姉が新曲の印税率の交渉をしている。倒れてから、すでに二枚のシングルCDが発売された。オリコン初登場の順位はそれぞれ2位と3位。歌手本人の稼働が一切ない中でそれぞれ約20万枚を売り上げた。決して悪くはない成績だと思う。おそらく一千万円以上の印税収入があったはずだ。今度は夏に向けてベスト盤を発売しようという話になっているらしい。
 すっかり姉は、自分で言っていたはずの、私の意向を優先させたいという話を忘れている。元気だった頃の私は、少なくともアルバムをあと一枚出すまではベスト盤を発売したくはないと宣言していたはずだ。ベスト盤とは諸刃の剣である。落ち目のアーティストにとっては再注目の起爆剤となるけれど、勢いの止まった過去の人という烙印を押されかねない。
「弁護士さんにも確認してもらったんですけど、何で著作権や原盤権を香織が持っていないんですか。しかもテレビ局とか、香織が所属したこともない芸能事務所にも権利があるってどういうこと?」
「それは業界の慣例なんですよ。香織さんには何としてでも大ヒットして欲しかったんで、テレビ局に協力してもらったり、大手から邪魔されないことが大事だったんです。いわば、挨拶のようなものというか」
 山根は弱気に答える。芸能業界の常識は姉から見れば異質に見えるのだろう。素人が口を挟んでいい問題ではないのに、なおも姉は食い下がる。
「そうだとしても、デビュー当時、香織は未成年ですよね。母に聞いたんですが、契約については何も説明を受けてなかったそうです。ねえ、そうだよね」
 部屋の脇で『週刊文春』を読んでいた母が曖昧に頷く。その様子に満足そうに笑うと、再び姉は山根に向き合う。
「もちろん、私としては香織のことをこれまで支えてくれた山根さんたちと仕事をしたいと思ってます。でも、さすがに今のままの契約はないんじゃないですか。私たちを素人だと思って馬鹿にしていませんか」
 姉は落書きのようなグラフィティが全面に施されたルイ・ヴィトンのバッグを持っていた。最近は毎月のように新しいバッグを買っている。そのお金はどこから出ているのだろうと考えてすぐに止めた。どうせ今の私にはどうすることもできない。
 それよりも指先に意識を集中させる。もしかしたら今日から指が動き出すかも知れないからだ。幼い理学療法士を見る。
 元気な頃だったら絶対に友達になれない顔だと思う。不細工というわけではないが、眉毛の手入れも大してしていないし、もちろん産毛もそのままだ。そのくせ自意識は強そうで、さっきから何度も手ぐしで髪を直している。
 今の私には、彼女が起こす奇跡を信じるしかない。そうやって、もう何十人の医師や療法士に期待を裏切られてきたけれど。
「じゃあ私はこれで失礼します。お姉ちゃん、あとはよろしくね」
「お母さん、タクシーの領収書もらっておいてね。経費にするから」
「電車で帰るからいいわよ。タクシーだと一万円近くかかるでしょ」
「だから経費なんだって」
 きっと姉は自営業者における経費の意味もわかっていない。経費と言っても天から降ってくるお金ではないのだ。
 姉は私の成年後見人になって、貯金を自由にできるようになってから見るからに金遣いが荒くなった。貯金は8000万円くらいならあったけれど、散財しようと思ったら一瞬で消えてしまう額だ。ホストにはまり出すのだけは止めて欲しい。
 山根は姉をいい気分にさせようと必死だ。もともとクリエイティブについては一切センスがなく、口先だけで現在のポジションに就いた男だから、姉との交渉においては適任といえば適任である。
「この前のCDに封入させてもらったお姉さんのライナーノーツ、社内でも評判だったんです。どこに行くにも姉妹一緒で、二人で物語を作るのが趣味だったなんて僕も初耳でした。その頃、一緒に行った水族館が香織さんの作品に活かされているのではないかという推測はご家族ならではですね」
 嘘ばかりだ。私は姉と仲が良かった時期なんてほんの少しもない。友達の多かった姉と、図鑑好きで部屋に籠もってばかりいた私は、まるで性格の違う姉妹だった。
 しかも二人が子どもの頃に出掛けたとしたら、水族館ではなくてプラネタリウムのはずだ。外惑星探査機のグランドツアーを紹介する映像を大きな白いドームの中で観た覚えならある。今でも当てのない恒星間飛行を続ける時代遅れの孤独な旅人。夢の中の私が外惑星に旅立とうか迷っているのは、あの映像が頭のどこかにこびり付いているせいなのかも知れない。
「本当に香織は水族館が好きだったんですよ。いつも魚図鑑を読んでいました」
 確かに魚図鑑くらいは持っていたけれど、繰り返し読んだのは宇宙開発の図鑑だ。潮の匂いは好きだったけれど、水族館はどこか魚臭くて苦手だった。
 このまま姉に自由に発言されればされるほど、私の間違ったイメージが流布るふされることになる。姉の好きにさせるわけにはいかない。そのためには何とかこの身体から抜け出す必要がある。
「ベスト盤は、お姉さんにクリエイティブ・スーパーバイザーとして入って頂けないかと思っているんです」
「クリエイティブ・スーパーバイザー?」
「アルバム全体の雰囲気を決めたり、アルバムに使う写真を選んだり、そういったクリエイティブなこと全体にアドバイスをして頂く仕事です。もちろん印税の他にお金はお支払いします」
 山根の馬鹿さ加減にあきれる。本当に止めて欲しい。姉の全身をゆっくりと見渡してみればいい。金色のメッシュが入った茶色の髪、日焼け肌の細い眉に寒色系の目元、黒いタートルネックに、チェックのミニスカートという5年前のギャルみたいな服装をしている。私と趣味が合わないことはもちろん、時代に合った服さえも着られない姉にアドバイスを求めるなんて頭が狂っているとしか思えない。
 それからしばらくして、姉からベストアルバムのサンプルを見せられた。にやにやした顔で私の眼前に正方形のプラスチックケースを押し付けられた時は、頭に血が逆流してどうにかなりそうだった。半ば予想はしていたが、ジャケットには全く私好みではない写真が使用されていたのだ。
 デビュー前、高校生の頃にバンドをしていたスナップを姉が実家から見つけてきたらしい。太い眉毛に、ちびまる子ちゃんみたいな髪型。それなのに真っ赤なリップをつけていて、いかにも情緒不安定の高校生という見た目である。手が動くなら今すぐに破り捨ててしまいたいほど悲惨な写真だった。
 極めつきは「プリンセス」というタイトルだ。私は覚えている限り、一度もお姫様になりたいと思ったことはない。むしろ母が築き上げた女王の国から抜け出すことを生き甲斐に音楽を始めたのだ。外交や政治といった大事なことは全て王様や女王様任せで、ファッションや結婚相手にしか関心がないお姫様が大嫌いだった。
 物語に出てくるお姫様は、いつも受動的だ。誰かの提案を待ってばかりいる。おとぎ話を読みながらいつも疑問だった。なぜお姫様は、親の跡を継いで国王になれないのだろう。もし国が戦争に巻き込まれでもしたらどうするつもりなんだろう。
 姉は最高の選択をしたと自慢したいのか、サンプル盤を枕元に置く。
「香織、このジャケット写真、最高だと思わない? わざわざ実家の段ボールを何箱も漁ってきたんだよ。香織が高校生の頃に私はもう家を出ていたでしょ。アルバムは初めて見る姿ばっかりでびっくりした。バンドを始めても地味だったんだね。この写真、お父さんが撮ったんだよ。あの人が香織に興味があるなんて意外だったな。高校の教え子に自慢したかったのかもね。
 こんなこと言っても、今のあんたには一切理解できないだろうけどさ。正直、中途半端に回復して滅茶苦茶なこと言われるよりもずっといいけどね。香織、芸能界の大人に馬鹿にされすぎだよ。昔から自分の権利に無頓着だったよね。スタジオ代を稼ぐって慣れないアルバイトをしてたけど、あんなのお母さんやお父さんにねだればよかったのに。でもこれからは大丈夫。香織のことは私が守ってあげるから。だからこれからもずっと安心して眠ってていいよ」
 下品な表情で姉がほくそ笑む。姉は笑うと母とよく似た顔になる。私もあと何年かしたら、こんな醜い顔になってしまうのか。
 目が上下にしか動かない私は、それからしばらくの間、枕元に置かれた「プリンセス」を視界に留めることになった。このアルバムが全国に並ぶと思うと、怒りがまるで赤血球のように全身に行き渡る気がした。これから作品を発表できないのなら、「プリンセス」が私の代表作という扱いになりかねない。
 だけど怒りに震える間だけは、身体の痛みを忘れることができた。さっきから痛みが治まらない右親指の関節や、褥瘡ができかかっている背中の痛みも「プリンセス」の前ではどうでもいいことのように思えた。もうこれ以上、姉の好きにはさせたくない。知性も品性もない姉に、私が築き上げてきた世界を壊されてたまるか。彼女の思い通りになんてさせるものか。絶対に治ってみせる。
 他人からはうめき声にしか聞こえなかっただろう。その夜、私はあの事故に遭った日から初めて、小さな声を発した。

 *

 病院に向かうタクシーの中から、香織が来月発売するベストアルバムの街頭広告が見えた。スペイン坂の向こう、ABCマートのすぐそばのビルの外壁に大きく妹の写真が貼り付けられている。あどけない表情で、必死に世界と戦っているようなスナップ。我ながらいい写真を探したと誇らしい気分になる。
 だけど携帯電話で写真を撮ろうとした瞬間にタクシーは動き出してしまう。都内だけでも何十箇所に掲示されるらしいから次の機会でもいいと思ったが、運転手さんに待ってもらって街の様子を写真に収めた。
 富ヶ谷の交差点を抜けて、リハビリテーション病院の車寄せにタクシーは着く。せっかく買ったD&Gのコートがいらないくらい今日は暖かい。いつも愛想が悪い警備員と受付スタッフを横目に、妹の病室を目指す。貧相なビジネスホテルのような病院だが、入院費は驚くほど高い。香織が入院している一人部屋なんて一泊4万5000円もするのだ。
 あの若い医師は本当に余計なことをしてくれた。理学療法士によれば、最近の香織は小さな呻き声を発したり、指先がかすかに動くこともあるという。さすがに高級な病院だけあると思ったが、香織が中途半端に回復したところで何の意味があるのだろう。事故前のように歌える状態まで戻るのなら別だが、今は頭がきちんとしているのかさえわからない。
 その香織が話し始めて、滅茶苦茶なことでも言われたら、せっかくの努力が無駄になってしまう。
 一刻も早く、香織が奪われていた権利を取り戻し、正当な契約を結び直さないといけない。その上で未発表音源を発表したり、これまでの香織との思い出を世間に発表していく。そうすれば、元気だった時以上に香織の評価は上がるのではないか。香織を守れるのは自分しかいない。
 そうやって決意を新たにすると、香織の眠る病室の扉を開けた。彼女は、私が差し入れした灰色のパジャマを着ていた。

続きは本書でお楽しみください。

 『奈落』古市憲寿

これ以上の怖ろしさが、この世にあるだろうか。

生の根源と家族の在り方を問い、苛烈な孤独の底から見上げる景色を描き切った飛翔作。

2019年12月24日発売 [定価]1,400円+税

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