波 2020年9月号

詩人が母に向けた 鮮烈なデビュー作/木原善彦

「海」と名付けられたベトナム系作家が紡ぐ血と涙と救いにあふれた赤裸々な手紙。

 オーシャン。印象的な名前だ。1988年10月にベトナムのホーチミンに生まれ、幼い頃に家族とともに米国に移住。母は読み書きができず、いまだに英語が得意ではない。ある夏の日、彼女が勤め先のネールサロンで「砂浜ビーチに行きたい」と客に話すと、「あなたの発音だと“売女ビッチ”に聞こえるから、代わりに“オーシャン”を使った方がいい」と勧められた。彼女は祖国と米国をつなぐ大洋を意味するこの語が気に入って、息子の名前をオーシャンに変えたのだという。
 オーシャン・ヴオンはすごい人だ。詩人として2017年にT・S・エリオット賞(近年の受賞者にはデレク・ウォルコット、シェイマス・ヒーニーらが並ぶ)を受賞、2019年には俗に天才賞とも呼ばれるマッカーサー奨学金(古くはギャディス、ピンチョンリチャード・パワーズ、新しいところではジュノ・ディアス、ベン・ラーナーらが受給)を与えられ、既に押しも押されもしない高い評価を得ている。
 そんな詩人が、母に宛てた手紙という形式の自伝的な小説を発表したのは昨年のことだった。そこに綴られているのは、英語が話せず学校でいじめられ、家では母から暴力を振るわれた子供時代、たばこ農場で知り合った青年に恋をしたハイスクール時代、そして詩人となった現在までのさまざまな出来事。時に赤裸々で、時にごく日常的な場面の一つ一つが魔法のようなヴオンの筆で恐ろしいほどの輝きを放つ。このデビュー小説はあっという間に大評判を呼び、PEN/フォークナー賞の最終候補にもなった。
 私は初読で一息に、まさに舐めるように読んだ。とてももったいなくて読み急ぐなどということはできない、しかし途中では息を継ぐことができない、そんな言葉の集まりだった。文字の読めない母親に宛てた手紙には血と涙と救いがあふれていた。

(キハラ・ヨシヒコ)
波 2020年9月号より
オーシャン・ヴオン、木原善彦/訳『地上で僕たちはつかの間輝く』
2021年夏刊行予定